スローモーションの映像と闇により記憶を刻印するかのような古橋の作品に対し、高谷の“frost frames”は、世界を白日のもとにまばたきもせずに見つづけること、そして忘却しつづけることをイメージ化した対照的な作品である。正方形の摺りガラスをスクリーンとして、両方向から異なったイメージがプロジェクションされている。特殊な研究により、この摺りガラスは、光を反射でなく透過するため、観客はそれに対して反対側からの投射されたイメージを見ることになる。自らの影がイメージをさえぎることはなく、ガラススクリーンの向こう側にいる人物の影によってさえぎられるのだ。「互いに見えない他方の世界への界面(インターフェース)」を映像として作りだしている」(阿部・四方/解説より)。このメカニズムは、観客の身体の不在感を喚起する。背後からくるプロジェクションの光が自らの透明な身体を貫通しているような錯覚を与えるからだ。そして決して肉眼でとらえられない、1/10000sという電子高速シャッターで撮影したデジタルイメージを1フレーム(1/30s)で表示したという。「電子が視る表象」(同解説)も同様に我々の「眼の思考」をなんなくふりきってしまう。人間の身体のアップ、走る車から撮られた風景――2種類の映像の内容を我々は認識することはできるが、古橋の作品のように我々の中にとり込み「肉体化」することはできない。 高谷がめざす「未視感」は「新たな映像」という「革新性」のもとに語られるのではなく、従来のコンテクストから断絶した(忘却した)先にあらわれてくるもののようだ。この2人展は、ダムタイプを構成していた2つの個性(要素)を抽出して見せると同時にアートの行方を暗示するものとして興味深いものであった。