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マンガの国 日本−3
手塚治虫と現代マンガの表現技法2
MANGA
go tchiei
呉 智英

劇画の出現と物語マンガへの融合

『新宝島』は、それでも現在のマンガの技術水準から見れば、当然ながら古拙にさえ見える。しかし、手塚は1989年初めに亡くなるまで(この年は、1926年に始まる昭和という元号が天皇の死去によって終わった年である)、40年以上も常に第一線の現役作家であり、その間に自らも著しい技術的革新を遂げた。
とりわけ重要なのは、1960年代後半に浮上してきた劇画の技法を取り入れ、しかもそれと完全には同化しなかったことである。
劇画は1950年代半ばに貸本から生まれた。これは手塚が開拓した物語マンガを出発点にしながら、別の道を歩み始めたものである。
手塚マンガは先述のように、終戦直後、マンガ家を目指す少年たちに強い影響を与えた。彼らのうちの何人かはトキワ荘グループを形成し、手塚の膝下でプロ作家となっていった。彼らは概して教養主義的で、子どもたちを善導するマンガを描こうとした。ただ、その教養と善導の中味が、戦前までの単純な道徳や娯楽とはちがい、近代的・都会的なものであった。
これに対し、手塚の物語マンガを出発点にしながら、必ずしも教養主義的・善導主義的ではない人たちもいた。彼らは子供たちよりも自分と年齢の近いハイティーンを読者に想定し、社会や人生の非情さをリアルに描こうとした。言うまでもないことだが、これも手塚の作った近代散文に匹敵するマンガの技法があってこその話である。この作家たちは、荒々しい描写(といっても、現在のマンガから見れば牧歌的にさえ見えるのだが)を好んだため、東京の大手出版社の雑誌には作品掲載ができず、大阪や名古屋や東京でも零細の出版社が出していた貸本マンガに作品を掲載した。
貸本とは、1950年代の最盛期に全国で3万軒あった有料私設図書館、貸本屋むけの図書であり、その大半はマンガ単行本である。この貸本屋は駄菓子屋の兼業も多く、良家の子どもは親から出入りを禁じられていた。ここに若いマンガ家の一派は自分たちの舞台を見出し、旧来のマンガはもとより、手塚を開拓者とする物語マンガとも区別する意味で、自分たちのマンガを「劇画」と名付けた。この言葉には「ドラマ」と「激しい」の二つの意味が込められている。
1960年代の半ばになると、戦後生まれのマンガ世代が大学生になってもマンガを手放さず、学生や社会人も読めるマンガが求められるようになった。テレビの普及に押されて潰滅状態になっていた貸本界のマンガ家たち、すなわち劇画家たちにとってチャンスが到来した。彼らはそれまで子供読者中心の物語マンガに描かれることのなかった、歴史、社会矛盾、事件、恋愛などをテーマにした作品を描いた。
手塚は、新興勢力である劇画に対抗意識を燃やし、1970年から歴史や政治を扱った作品を劇画タッチで描くようになった。しかし、劇画の荒々しさ、野卑さなどには影響されなかった。やがて、勝義の劇画が読者にあきられるようになると、手塚の選択が正しかったことが実証された。
現在では、物語マンガと劇画は実質的な区別を失なっている。ただ、描写の細密さ、デフォルメの工夫、コマの多様性、効果線の使い方など、狭い意味での技術は、確実に向上を続けている。


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