女性誌で「抱かれたい男」の第一位を勝ち得た男優とNHKの「朝の顔」として脚光を浴びた女優による男女の恋物語より一場面。インターネットによる交信が唯一互いの存在証明であった二人が、ついに会うことを決意、待ち合わせの場所として臨海副都心、お台場海浜公園の自由の女神像の前を選ぶ。いかんせんこの顔合わせは、女性が陰険な上司に無理矢理残業を命じられることで実現しない。男は待ち続ける。やがて雨…。
そうパリ、グルネル橋の袂でセーヌ川遊覧船乗客の目を楽しませていた自由の女神像(「世界を照らす自由の女神像」)は今(1999年1月18日まで)、お台場地区の新名所として、修学旅行生を始めとする東京観光客や行楽客、買い物客を集めているのだ。東京湾とレインボー・ブリッジ、そしてフジテレビ新社屋の景観とそれは見事に溶け込み、日没時にはカメラのフラッシュを浴びている。この展示もしくは移動は昨年度の「フランスにおける日本年」に続く「日本におけるフランス年」の一環として実現したもので、その企画の軸には、永遠の国フランス、発明の国フランス(日本の子供たちのためのCD-ROM、ゲーム・ソフト展示、ノーベル賞受賞者の講演)、芸術の国フランス(《マルローとフランス画家》展、漫画、料理、アニエスb選出の映画上映)、日本人の心の中の国フランス(鴨川にポン・デザールを模した橋を架ける計画、フランス風ホテルの建設)というテーマ系があり、この女神像は来春東京国立博物館で公開予定のドラクロワの名高い絵画「民衆を導く自由の女神」とともに、最初の永遠の国フランスのテーマを構成する。ちなみにこの永遠の国フランスに組み込まれたもう一つの企画は農業国フランスの地方特産物の展示であるから、ここで言う永遠は、伝統の持続を言い換えたものと考えられよう。
改めて指摘するまでもないが、自由の女神像は本来移民の国アメリカの象徴として知られてきた。1886年ペドロー島(現在のリバティ島)に建立されたニューヨークの女神像は、大西洋からニューヨーク湾に入って、移民局の置かれたエリス島に到着する手前で臨むことができるよう配されている。制作者はフランス人彫刻家フレデリック=オーギュスト・バルトルディ。彼は二回のエジプト旅行を経て、スエズ運河に巨大な彫像兼灯台を設置する計画(実現には到らず)に加わっており、自由の女神像もまた展望台、灯台としての機能をあわせ持つ、当時にあっては最大級(高さ33m)の巨像であった。作業は1.2mの模型を徐々に拡大することで制作されたブロンズ製の部品をギュスターヴ・エッフェル設計の骨組みの上で重ね合わせるという形で進行する。1884年に各部分が完成、一旦組み立てて献呈式を執り行なう。ニューヨークの女神像の台座がアメリカで作られている間、1885年には、それと比べるならおよそ4分の1(11.5m)の大きさを持つ石膏像がパリ市に贈呈される。パリの女神像は、ブロンズによる完成作が予算の関係で鋳造が先送りされたまま、1889年7月4日にカルノフランス首相立ち会いの下、除幕式を迎えたのであった。パリの女神が左腕に抱えている石板には、アメリカ独立とフランス革命の日付が刻まれ、船から除幕しなければならないという事態を避けるべく、像はグルネル橋の中央を向けて設置された。その後1937年にはエッフェル塔に背を向けた現在の向きに改められ、1967年のグルネル橋改築に伴い、中州のシーニュ島に移された。あたかも発想源であるフランスに敬意を表するかのように、ブロンズ像としての完成を待たずに石膏像の段階で公開されたこのグルネル橋の女神像こそまさにお台場の自由の女神だ。
アメリカに自由の女神像を贈ろうという発案はアメリカ贔屓の法律学者エドゥアール・ド・ラブレによるもの。1865年、とある夜会の席での議論に遡る。――リンカーンによる奴隷解放に代表されるように、世界全体が自由の理念実現に向けて前進し始めているというのに、当の南北戦争では保守的な南軍を支持するなど、フランス革命を通じていち早く自由解放の機運に先鞭を付けた筈の我がフランスは、ナポレオン三世の治世下、世の趨勢に逆行するようだ。ここは一つ自由(共和制)を象徴する記念碑をアメリカに贈り、反動勢力に対抗しようではないか――そうしたことが話し合われたにちがいない。ただし女神像建立計画が動き出すにあたっては1870年から71年の普仏戦争で故郷アルザス地方の防衛に赴いた彫刻家バルトルディがラブレに送った手紙がきっかけとなる。75年には米仏の政財界人を筆頭とする資金繰りのための機関が設立されるが、その時点で、自由の理想で世界を照らそうという当初の構想は、ヨーロッパにおける孤立状態の救いをアメリカに求めんとする外交術、もしくはアルザス地方を奪われた傷心を癒そうという愛国主義へとすり代わる。ラブレ、バルトルディの自由主義は所詮パリ・コンミューンで立ち上がった民衆の暴力に震え上がってしまう程度のものにすぎず、現にラブレは来春日本にお目見えするはずのドラクロワによる「民衆を導く自由の女神」を暗に引きつつ、自分の考えている自由とは「アメリカ式の自由であって、赤い帽子を被り、手に杭をもって遺骸の上を進む自由ではない」と演説している。かくしてアメリカに送られる女神像の構図が定まった。ドラクロワが描いた女神の暴力性、運動性は直立静止した女神の謹み深さに転じ、最初に女神像の構想が練られた段階では左手に握られていた、圧制からの解放を意味する引きちぎられた鎖が、法典を意味する石板にと置き換えられる。1789年のフランス革命を象徴するフェニキア帽と三色旗が排除されたのはいうまでもない。すなわち、自由の女神は、フランス革命以来、好戦的で強靭な農村女性像によって与えられていた自由の伝統的表象がより穏健で中立的な表象へと変化する転換点に位置しているのだ。
バルトルディがアメリカで女神像の版権を取得した1976年以来、この像はベトロー島設置実現のための情報宣伝用模型、資金繰りを目的とした商品として、像の完成に先立って複製されるようになる。1876年のフィラデルフィア万国博では部分的に完成していたトーチが公開され、観客は内部に入ることを許された。78年のパリ万国博では頭部がチュイルリー公園に展示される。また土産物として亜鉛製小型女神像が売り出されるのもこの時だ。1882年にはブルターニュ地方のクレゲレックで、ポブガン伍長記念碑として自由の女神像が設置され、ボルドーでは、フランス革命の記念に植えられた「自由の木」(抽象的ではあるが直接に革命の記憶と結び付く)を穏健な女神像(より具象的ではあっても革命の記憶を否定する)と置き換える作業が1887年から88年にかけてなされる。このボルドーの像はヴィシー政権下の1941年、ドイツ軍の武器に変えられるのだが、この他にも、リュネル、サンタフリック、植民下のハノイなど第三共和制下フランス各地に自由の女神像が建てられる。今世紀に入ってからもギロチン広場が自由広場と改称されたポワチエを始めとして、ロワボン、サンシール・シュル・メール、ブエノスアイレス…、あげくフランス駐留米軍基地、アラバマ州バーミンガムの保険会社前など、自由の理念、少なくとも共和制の理念とはおよそかけ離れた場所に女神像が置かれることとなる。
実物の完成以前に複製が出回り、その目的(移民の国へ入港する際の里程標という具体的な用途および自由、より具体的には共和制の理念の伝達)とおよそかけ離れた場所にまで増殖する。最初に構想された巨像(ニューヨーク)が完成するのに割り込むように、まだ未完成の石膏像がパリで公開され、原型と称する。イタリア遠征から凱旋帰国したナポレオン率いるフランス軍が、イタリア各地から様々な記念碑を剥奪してきたことに対し、記念碑はある特定の場に設置されて初めて意味を持つことを強弁した、カトルメール・ド・カンシーを引き合いに出すまでもなく、この像は記念碑の伝統からするならば、極めて特殊な存在様態を示していると言ってよい。こうした増殖を通して場所特定性を喪失したことでかえって、今回の「日本におけるフランス年」に際してのように、フランスの伝統美術の普遍性の証明には、好都合であると言ったら皮肉な見方に過ぎるだろうが。また長きにわたってアメリカの象徴として君臨することとなる彫像の献呈、その資金調達が、国家によってではなく、ラブレやその周辺によって企画されたのも、公的機関の委託によって制作されるのが専らであった記念碑の歴史においては異例のことだ。今回お台場に自由の女神が設置されるにあたり、フジテレビの主導により企画運営がなされた訳だが、そのような私企業主導による記念碑の管理運営は他ならぬ自由の女神に端を発すると言ってよいかもしれない。ところで、今回の展示に先立って、わが国においてこの像を積極的に導入したのが、何らかの方策で西洋的な雰囲気を醸し出さんと思案するラブホテル業界であった(自由、平等、性愛?)ことを想起するなら、先に触れたお台場を舞台とする恋物語におけるように、愛の様々な駆け引きにおいて自由の女神像が登場するのは、この像の日本における受容の伝統に連なることなのかもしれない。してみると、渋谷の街に伝わる美談に基づく、見事に場所特定的なハチ公像などは記念碑の存在様態としては極めて古くさく、むしろ至る所に転居する自由を勝ち得た女神像こそ、現代の記念碑に相応しい在り方と見なすべきなのだろうか。 |