
reviews & critiques ||| レヴュー&批評 |
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第2回東京国際写真ビエンナーレ |
東京都写真美術館長賞M.C.ファリントン
「Ten years in the American Navy」シリーズより |
八角聡仁 |
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今日的な多様性のなかで
コンパクト・カメラの普及やデジタル・テクノロジーの発達に伴って、今日ますます写真が身近なものとなり、誰もが気軽にカメラを手にして「日常」や家族や自分自身の姿を撮影する欲望に促されているとすれば、「作品」を生み出そうとする意志からも、主題やメッセージを「表現」するという意識からも解放されて、欲望のままに無数に産出されるそれらの写真に対して、ひとまず「作品」として写真を構成し提示しようとする者はどのように振る舞うべきなのか。副題に「その多様性をめぐって」とあるとおり、20か国672人の応募者から選出された「公募部門」の入選作家40人のうち38人と、フランス、アメリカ、ブラジル、オーストラリア、イスラエル、日本各国の写真関係者がそれぞれ選出した13人の作家による「ノミネート部門」から構成される第2回東京国際写真ビエンナーレ展は、写真が限りなく日常化していく環境の中で新しい可能性を模索する現在の写真表現の幅広さを反映している。
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二つの極を示す多様性
個々の作品に詳しく言及している余裕はないので乱暴な図式を許してもらえば、その多様性は二つの極を示す。一方では、その日常性を積極的に引き受け、プライヴェートな対象をできるかぎりナチュラルに捉えることによって、見る者の視覚と被写体をダイレクトに結びつけるようなドキュメンタリー性、現実再現性におけるリアリティーを強調するやり方がある。公募部門で言えば、セルフポートレイトらしき写真を中心に身の周りの断片的イメージをちりばめた木田綾「Happy Birthday to you」や、母親との旅行をスナップショットで記録した湯浅弘子「母写真」はその典型だろう。そしてもう一方にあるのは、山手線の車窓から長時間露光で撮影した風景を各駅の区間ごとに圧縮して「東京」を映し出そうとする葛西秀樹「バーコード記号に変換された東京の風景」のように、写真を日常的な再現性から切り離し、何らかのコンセプトを導入することによって、個別のイメージの持つ雑駁さを統御しつつ普遍的な主題へと向かう作品である。
もちろん前者においても「作品」としての構成力やそれと表裏一体となる「他者」の存在がなければ、素人のホーム・ビデオを見せられるような退屈さを免れないし、後者は写真が一義的な記号へと還元されて作品行為の主体ばかりを反動的に強化することになりかねず、それに抵抗するためには写真特有の猥雑さや偶然性をいかに取り入れるかが課題となるだろう。いずれにせよどちらの方向性も併せ持っていなければ物足りない作品になってしまうのはいわば当然のことであり、この展覧会で興味深いのはその両極が相互に批評的なものとして見えてくることだ。たとえば、しばしばドキュメンタリー的な写真においては、現実の事物が写真家と写真装置によって媒介されてイメージが成立していることの政治性が忘却されるが、コンセプチュアルな作品の中でも出色のオノデラユキ「Camera」は、「カメラによるカメラのポートレイト」とでも言うべき美しく不気味なイメージによって、撮る側と撮られる側の関係を問いなおし、現実と素朴な再現としての写真という表象の政治性をクリティカルに暴いてみせる。
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日本人応募作に見られる両極の中間的作品
総じて海外の作家、とりわけ深刻な民族問題や宗教問題を抱える国の作品においてはアクチュアルな主題を明確に持った作品が多く、それに対して日本人の応募作には、被写体と批評的な距離をとりながらも「意味」を回避することで洗練へと向かう「風景」写真が目立つ。世界各地の都市を匿名的に均一な視点で捉えた小野博「World
Camera」は、いわば前述の両極の中間的なものとして「風景」を配置した意欲的作品だが、その戦略が単に美学上の様式にすぎなくなる危険を孕んでいるように見える。おそらくそれは「日本的」とも言いうるような「間主観的ネットワーク」(作者がコメントに引用している言葉)の危うさでもあり、そこから決定的に逸脱しうるのもまた写真というメディアの性質の一つであるにちがいない。 |
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第2回東京国際写真ビエンナーレ |
会場:東京都写真美術館 |
会期:1997年7月12日~8月31日 |
問い合わせ:Tel 03-3280-0031 |
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