「エイズを北米に最初に持ってきた男」という強烈なレッテルをマスメディアに貼られたいわゆる「ゼロ号患者」の話をもう一度ゲイの観点から語り直す『ゼロ・ペイシェンス』というミュージカル映画を作ったジョン・グレイソン監督が、また素晴らしい映画を作った。8月上旬から日本で公開される『百合の伝説』だ。今までのグレイソンの映画はすべて監督自身の脚本を使ったものだったが、今回はケベックの著名なゲイの劇作家ミシェル・マーク・ブーシャールの人気作品「Les
Feluettes, ou la repetition d'une drame romantique(繊細な者たち、あるいはロマンチックなドラマの再現)」を映画化している。タイトルからもわかるように、原作はフランス的な耽美主義がかなり色濃く表れているが、鋭敏な映像感覚と活動家的な姿勢を持つグレイソンの手にかかるとまさしく美しくかつ政治的な迫力のある映画になっている。
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『ゼロ・ペイシェンス』という映画が「記憶の政治」をテーマとして取り上げたとすれば『百合の伝説』はいっそう洗練されたレベルに到達していると言えよう。時は1952年。ビロドーという年老いた司教が死に瀕しているある囚人の懺悔を聞きに刑務所に到着する。ポルノ劇場の「のぞき部屋」をどことなく連想させる告解室に入ると、実は少年時代に猛烈に愛していたシモンが囚人となって薄い壁をへだてて座っている。するとドアのカギが突然掛けられる。そして司教の目の前で他の囚人たちによって演じられる一つの劇が繰り広げられていく。少年時代にシモンが愛していたヴァリエという少年への嫉妬に燃えていたビロドーが犯した罪への経緯をたどるこの劇は、刑務所の中の簡素な舞台と映画的に再現された1912年当時の牧歌的な北ケベックの田舎町の実景の間を、巧みな展開によって往き来する。さらに、最初のシーンからシモンとヴァリエが舞台稽古をしている『聖セバスチャンの殉教』という戯曲の台詞も、この映画の中で男同士の愛を表す言葉を持たないシモンとヴァリエに様々な場面で借用されている。裁判でのビロドーの偽言によって40年間も入獄させられてきたシモンは、今や司教となって偉くなっているビロドーに対してずっと募らせてきた恨みと憎悪のはけ口としてこのような演劇を演出することで司教自身の懺悔を強いようと企むのだ。 |
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『百合の伝説』はゲイの映画である。グレイソンがこの映画の宣伝のために来日し、私は彼の通訳を務めたが、取材にきた記者たちのほとんどはゲイのことをまったく無視するか、「同性愛の問題を超えて普遍的な愛の話だ」と婉曲的に「褒めて」いた。しかし、グレイソンはこれにいつも同じ返事をした。即ち、この映画は普遍的な価値があるとすれば、それはゲイを「超えている」からではなく、ゲイの問題にこだわっているからだ。監督のこの映画についての声明文にあるように、『百合の伝説』は「素晴らしい演技と皮肉に満ちた手法を使い、親、司祭、そして行儀のよいコミュニティが二人の少年の愛を打ち砕くそのありふれた冷酷なやり方を探っていく映画である」。
ちなみにこの映画ではすべての役は男性によって演じられている。それは、役者はすべて男性の囚人であるという必然性の結果でありながら、ホモフォビアの構造がいかに「男の社会」(ホモソーシアリティ)の病理であるかという政治的な批判の表現でもある。化粧もしないで派手な服も着ない女性役はどこから見ても男であるが、その控えめでありながら卓越した演技によって「本当のジェンダー」はその人間としての魅力と比べてまったく関係がなくなる。囚人たちは全員ゲイであるが、男社会という「刑務所」に生きながら、日常茶飯事としての暴力と差別に晒されている彼らは、この演劇に参加することによってつかの間の解放を覚えることが出来る。それは、ブーシャールが言うように「誰も語ってくれなかった愛の物語」である。ゲイのラブ・ストーリーなのだ。しかし、その愛を最後の破滅に導いたのは、他でもなく自ら同性愛者でありながら、そんな自分を受け入れられなかったビロドーである。その若き日の自分の記憶を掘り起こされることでビロドーは、観客と共に同性愛嫌悪的な社会との自らの共犯関係、すなわちその自己嫌悪を反省していく。ぜひご高覧ください。 |
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『百合の伝説−シモンとヴァリエ』 |
ロードショー:1997年8月16日〜
会場:恵比寿ガーデンシネマ
問い合わせ:Tel. 5420-6161 |
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