グラフィックを動かすという、従来の映像表現とは異なったアプローチを可能にしたのは、コンピューターというツールの普及と技術面での進化である。静の美を追及してきた「眼」が動を扱うとき、どの瞬間も美しく在るような、新しい映像の可能性が拡がるのではないかという期待とともに、「モーション・グラフィックス」は、コンピューターを媒体としたグラフィックから映像へ向かう新しいデジタル表現として、確かな地位を築きつつある。
昨年大きな反響を呼んだ第1回《モーション・グラフィックス'97》に続き、第2回展覧会《モーション・グラフィックス'98》が、『戦後日本マンガの「擬音」が動く!』と題され、開催された。
静止画のマンガの中で、場面の状況や感情を抽出し伝達するという役割を帯び、さまざまな動を表す文字として視覚化された「擬音」を動かす――それは「フライング・ロゴ」というポピュラーなテーマを扱った第1回に対し、マンガの擬音が動いてどうなる? と素朴な疑問と興味を抱かせながら、より純粋な表現の創造を予感させた。
閉館間際の会場に駆け込んだ瞬間、闇の中でガガガガ―――ンという大音響に撃たた。???マークを頭にかかえて立ちすくむと、光と色と音の洪水に襲われた。それは、会場全体が呼吸するモーション・グラフィックスだった。
会場を構成するのは、天井から吊られた宙に浮く白いパネルと床から天井までのガラスのパーティションが一定の間隔をおいて交互に並ぶ2列の「壁」群、ガラスの両面に立つガラスミラー、プロジェクター、そしてスピーカーである。映像は、床に置かれたプロジェクターからミラーへ、反射して宙中のパネルへ、その映り込みがさらにガラスへ、と幾重にも重なり合いながら「壁」に投影される。無駄なものは一切存在しないシンプルな構造ながら、そこに、動き、光、音が加わるとき、空間はざわめき、まさに“動き”を得る。
「目に見えない音」から「浮いているような映像」を発想した吉岡徳仁氏は、それを、パネル、ガラス、ミラーというわずか3種類の素材で構成し、空間デザインに表現した。会場の図面自体が美しいに違いないと確信させるほどに、その見せ方、バランス、果ては収まりのディテールまでが、コンセプトに対する解として明快で絶妙であった。映像ディレクターの菱川勢一氏は、一歩間違えば会場全体が調整中となるリスクを技術面から支え、10秒ほどの16の「擬音」を等しく、作者紹介マコンセプト説明マ使用ソフト一覧マ作品、のフォーマットを用いて編集し、さらに大きな映像と音の流れを構築した。それにより、カイル・クーパーも谷田一郎も一般公募者もただ「擬音」として存在し、観る人に、強い映像(作品)と弱い映像(解説)のうねりが生み出す時空を漂う、劇場的体験に没頭させる効果を生みだした。
静止していた平面(2次元)が動きを獲得するとき、それ自身が空間(3次元)と時間(4次元)を孕み、観る人の空間や時間を巻き込む、より体感的な表現となる。それを個々の作品に発見するにとどまらず、《モーション・グラフィックス'98》展自体がその表現として刺激的であったが、これこそが、創造するプロフェッショナルとしての活動が可能にした展覧会だと考える。
《モーション・グラフィックス'97》に始まり、今後毎年開催されていくであろうこの企画は、自身もクリエイターである発想人ナガオカケンメイ氏にことを発する。時代の先端を見据え、常に新しく、ハイレベルな表現を、市場を視野に入れ広く伝達し、継続していく責務を負う彼らにとって、表現の場・批評の場を求めてコーディネートすることは、クリエイターとしての意志と熱意が欲した活動であろう。企画立案、資金(協賛金)獲得、参加作家人選および交渉、その後のやりとり、セミナーのコーディネート、告知活動、公式ガイド作成、会場設営、運営、広報活動、etc.。それらの雑務、経済的活動のすべては、表現者としてつくり続ける闘いと同様、デザインというジャンルをより高いレベルで発展させ、その地位を確立させるためのさまざまな挑戦と闘いの場なのである。
業界の世界権威である国際学会「SIGGRAPH」の開催期間を狙って第1回・2回と開催するあたり、大胆不敵かつ自信のほどが伺える。
第3回《モーション・グラフィックス'99》は形をすでに顕わしつつある。構想を明らかにするとそれに捕われるから未だ秘密裏に、という彼らの着地点そのものも、未知の表現として“動き”続けている。 |