「ワークショップは日本・近年・美術館のブラックホール」というのが僕の持論なのだけれど、とにかくこいつは芸術に関わる倫理と自省のすべてを呑み込んでしまい、publicと呼ばれる日本の近代社会にとっては実のところ反宇宙みたいな世界へ咀嚼なしに吐き出す化け物だ。
生半可な捕食範囲ではない。企画者の姿勢だけをとっても、いささか皮肉な見方をするなら美術館の担当職員の思考実験みたいなものもあるし、宮前正樹氏のモロ“作品”だってある(本人は異論がおありだろうがカッコつきのところを汲んでいただく)。あるいはジョセフ・コスース式展覧会主義のいろいろなヴァリエーションや、ダグラス・クリンプのメタ美術館論にオーディエンスの章を加えたらどうなるか式の制度論共著者育成ワークショップもある。これはもうその筋の事情通、現代美術オタクにはたまらない。要するに、October系の難解な脱構築ミュゼオロジーを苦労して読むよりは、はるかに面白い“読書体験”の対象となるワークショップ思想が確実に存在するということだ。
まあ、そうしたラディカリズムだけでアート・ワークショップというものを括り取ってしまうと窮屈でしかたがないのも確か。事実、このCD-ROMに納められた事例をつらつら眺めていてふと気づくのは、“創造教育”の多様さというアホらしいまでに単純なことがらである。ただしその広がりの内には、“創らない人のための芸術教育”という、一般の選択的かつ弁別的な(とりわけこの国の)学校教育の指針にとっての外部が畳み込まれているという意味において、それらはやはり教育ではなくてワークショップなのだと言えるのかもしれない。
では、その語のもっとも広い意味での“鑑賞”の止揚がワークショップでは問題となるのだろうか。たしかに、子供のころから創ることばかり教えられてきたけれど、結局オトナになれば関係ないもんね、観るほうがまだ面白いよ、とは美術館の大切な顧客層であるカップルたちの態度であるが、このことは考えようによっては痛烈な制度批判になっている。例えば、それまでの模写教育への反省を契機とする大正時代の自由画教育の主張では、鑑賞教育とは美術史学的な分別によって自然な“情操”を害するものとして退けられた。この文脈は戦後の占領軍の指導によって徹底的に修正を施されたが、それでも美術作品を知るという教育課題はより高学年の指導目標に追いやられ、ついぞ後回しになる傾向が現在にいたるまで続いている。
「この子供たちのうちの誰かが上院議員になって芸術支援予算を決定するかもしれない」。元教育部長フィリップ・ヤノワインの半分冗談まじりの言であるが、それはアメリカの一私設美術館であるMoMAの事情。先のような事情からすると、あらかじめ歴史的に奪われたオトナの権利を奪回することこそ、日本の公立美術館の教育普及事業の義務であると僕は思う。なにやらミュージアム・エデュケーションとごった煮になってしまったけれど、それもまたワークショップというブラックホールの力学なのだということでご勘弁。
最後に研究会の方々に偽装ナショナリストからの質問をひとつ。どうして“オンナコドモ”ばかりなのでしょう。人生の淵を間近にする年寄りのためのワークショップというのはこの国にはないのでしょうか? それから本当の最後にCD-ROMタイトルのGUIについて一言だけ。ヨーロッパ風のレイヤー・デザインは綺麗だけれど、大月さんをはじめとする研究会の方々が書かれた楽譜に魅せられたのでしょう、ピアノの調律師が思いあまって舞台で演奏してしまったという感じです。何声あるのかすらにわかには分かりにくい。とりあえずは純正調を整えていただかないと……いきなりプリペアーされると戸惑います。マウスで演奏するのは僕なのですから。 |