シャッターを「切る」こと。ふだん何気なく使っているこの日本語が示唆する撮影行為の残酷な一面を、古屋誠一の写真は容赦なく浮かび上がらせる。英語のshoot(撮る/撃つ)にもやはりまた別の意味での残酷さが露呈しているだろうが、まさしく写真において撮影とは、「イメージ」やら「風景」やら「物語」やらといった抽象的な問題を一撃のもとに崩壊させ、主体と客体、視線と対象の馴れ合った関係を一閃にして切断するマテリアルな実践ではなかったか。それは文字通り、他者との結びつきを断ち切ることも、他者を傷つける刃物となることもあるだろう。妻というもっとも身近な存在を被写体としてさえも、抒情的な曖昧さを一切排し、触れれば血が出るような鋭利な緊張感を作品に漂わせずにはおかないこの写真家が、これまでも、自身の住むオーストリアと東欧諸国との国境地帯を捉えた《国境》、崩壊以前のベルリンの壁を東側から撮影した《壁》などのシリーズで、何らかの「切断」の場所をテーマにしてきたこともおそらく偶然ではない。つまりそこでは、「境界」を前提としてそれを越えることが悲愴さをまとうといった古臭いメロドラマが問題なのではなく、その場所が歴史的な「切断」の痕跡であることが重要なのだ。実際、確固たる境界線などもはや存在せず、むしろそれが呆気ないほど簡単に消失して、切断の歴史そのものが次第に忘却にさらされてしまう危うさこそ、その切断を反復するように歴史を刻印するそれらの写真が現在において告げていることにほかならない。いずれにしても「作品」とはつねに、ある切断に先立たれることで始動するものではないだろうか。
古屋誠一の妻、クリスティーネ・フルヤ=ゲッスラーは、1985年10月7日、東ドイツ建国36周年の記念式典が行なわれているさなか、夫と息子の三人で住んでいた東ベルリンのアパートの9階から身を投げて自ら命を絶った。「死」が究極的な切断であることは言うまでもないにしても、それが生から死へのゆるやかな移行ではなく、肉体の垂直な落下という一瞬の身振りによる生の断ち切りであったことが、いっそうその印象を強くしてしまう。一人の女性の生を身近で記録しつづけるという営みを否応なく途絶せざるを得なかった写真家にとっても、残された写真はその切断を境にそれまでとはまったく違った意味を持ちはじめる。過ぎ行く時の記録を忘却に抗ってとどめていたはずの写真が、逆に死という決定的な「過ぎ行き」そのものを際立たせてしまうという逆説。それゆえに、彼女をめぐる記憶に「切り」をつけようとする写真家の喪の作業は、一方でむしろ死者を「存在」させつづけていくことになる。古屋の写真行為がそれ以後、「切る」ことから、その切断面を「引き伸ばす」ことへと関心を移していった意味を改めて考えておかなくてはならない。
この写真展で展示されている亡き妻のポートレイト約400点のほとんどは、彼女の生前にはプリントされることはなく、多くは死後11年を経るまで現像されないままに放置されていたという。それらのイメージが写真家自身にとって他者として立ち現われてくるのにそれだけの時間を要したということかもしれないが、放置された写真のネガは、可塑的な生成物としての「記憶」のありようにも似ている。すなわち、当初の経験(撮影)においては明らかではなかった意味が、後の別の出来事(現像=想起)がもたらされたときになって初めて開示され、「それはかつてあった」という経験が新たに構成される。そのとき写真とともに引き伸ばされているのは時間であり、写真は長い時間をかけたその独自の知覚をそのつど編成しなおすのである。
二人の出会いから彼女の死に至る8年間の軌跡を辿るように厳密に時代順に並べられた写真に立ち会う者は、しかしそこで私小説的な感慨や感傷を抱くことなどできず、むしろ正面からじっとこちらを見据えた視線、そして決して揺れ動くことのないイメージにたじろがないわけにはいかない。現実の視覚においては「人間的」な情動のために決して見ることのできないものが、そこでは冷酷なカメラの眼によって時間の「外」で捉えられている。それを再び時の流れのなかに取り戻そうとする写真家の企図は、「切る」ことと「引き伸ばす」ことの間でどこまでも宙づりになるほかない。9つのギャラリーに作品が年代別に分けられた写真展のスタイルは、見る者にもその時間の切断と縫合を反復する契機を与えることになるだろう。 |
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クリスティーネ・フルヤ=
ゲッスラー メモワール 1978-1985
Izu,1978 |
Graz, 1980 |
Schattendorf, 1981
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Wein, 1982
copyright:古屋誠一
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