最近、展覧会のありかたについて考えることが多い。それは、私自身がやってきたキュレーションも含めてなのだが、アーティストの活動の一部、つまりキュレーターにとって都合の良い部分だけを断片的にを切り取って提示してよいものだろうかということである。いわゆる、グループショーと呼ばれるものは多かれ少なかれこのような側面をもつものだが、それではアーティストの活動全体がもつ複雑なニュアンスが伝わらない。恐ろしいのは、見た人達――おそらく、そのアーティストの作品に初めて接する人も多いことだろう――が、このアーティストの作品はこういう意味なのだという単純で安易な答えを持ち帰り安心してしまうことなのである。本来、美術館がはたすべき役割りとは、作品と観者の初原的な出会いであり、それによってアーティストと観者の間で深く本質的な対話がかわされるようにすることではないだろうか。私たちは、ときとしてそれを忘れているように思えてならない。1970年代の終わり頃だったと思うが、日本の現代美術を紹介するうえで、「これもあります。あれもあります」といった総花的な展覧会ではなくもっとキュレーターの歴史観や視点といったヴィジョンを打ち出さなければならない。そうでなければ、見る方に何も伝わらないといったような議論があったと思う。それ自体、当時、外国において有名キュレーターの手による明確なコンセプトを打ち出した展覧会が催されたことに影響されてのことのようにも思われるが、いずれにせよ、そのような考え方が一般化していった結果、今日の現象として、コンセプトを優先し、それを打ち出すために、キュレーターの少々強引な、そして時としてアーティストの作品に陳腐なラベルをはってしまうような展覧会も目立ってきているよう思えてならない。
前置きが長くなってしまったが、本題の「電子時代の新たな肖像」展について、最初アナウンスを見たときには正直、多少イージーな企画のように感じられた。それでもトニー・アウスラーや森村泰昌がでているので見に行こうかと出かけてみた。結果は、すでにこの両者については見慣れた作品が出ておりそれほど新鮮ではなかったが、その他の作品で大いに楽しめた。だれでも思うような「この人は動物で言うと何かににている」といった感覚をホログラフィーにより顕在化させたマーガレット・ベニヨンや、人間の顔はどのような要素の変化で老いや若さを感じさせるかを示したデヴィッド・ペレットの作品などは、作者のなかにヨーロッパ的な類型学の伝統へと通じる興味があるように感じられ興味深かった。古池大介の歴史的名画の顔をキリストを中心にモーフィングでつないでゆく作品は文句無く楽しめ、いろいろと考えさせられるものであった。コスタス・ツォクリスのごく普通の人々のポートレートを記念碑的なスケールに拡大し静止画と動画の境界を示した作品も明快かつ重厚な作品である。エンニオ・ベルトランの廃墟のなかに自分の影を焼きつける作品、リュック・クールシェヌのコンピューターのなかのヴァーチャルな家族と対話する作品なども鑑賞者が参加する作品として展覧会に変化を与える意味でも効果的であった。リー・コックスの作品などは昔の「モンティーパイソン」のタイトルバックを思い出させるような毒を含んだ馬鹿馬鹿しさにイギリス独特の感覚があり楽しかった。私はあまり展覧会を見るのに時間をかけない方だが思わず長逗留してしまった。特にイギリスの作家であまり知る機会のなかった作家の作品の紹介が新鮮であった。
キュレーションについてであるが、この展覧会はイギリス・ナショナル・ポートレイトギャラリーのヤシャ・ラインハートが企画したものである。ヤシャ・ラインハートのカタログテキストは、最初に電子メディアが表現領域を広げたといったような多少おざなりな前置きがあって、その後は個々の作家解説がつづくといったこの種の展覧会ではスタンダードな形を踏襲している。その後に続く個々の作家のページに付された解説は丁寧で読みやすい。結論からいえば、電子メディアを使い人間の顔をモティーフにしていることといった比較的ゆるい縛りで展覧会をまとめたところがかえって作家の世界をそのまま自由に提示する結果となり作品の魅力を引き出すことができたといえるだろう。そこでは、電子メディアの斬新さよりもむしろ、基本的に人間を描くという美術の歴史を支えてきた意識の方が浮き彫りにされている。展示についても、他の作品と干渉しないように1人に1コーナーとしてスペースを独立させたことが効果的であった。そこにはキュレーターのアーティストに対する基本的な尊敬が感じられた。
このところ、国、民族、性差など政治的力関係によって強者から弱者に対し一方的にそそがれる眼差し、そこで一方的に当てはめられるイメージを考慮し美術史を相対的に読み直すこころみが盛んである。キュレーターや評論家についても、媒体や発表の場をもっているということで、アーティストに対し無意識の内にこの力関係の理論に似た一方的なイメージの押しつけをおこなっていないか、もう一度考えて見る必要があるのではないだろうか。
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