キュレーターズノート
YCAM Re-Marks
阿部一直(山口情報芸術センター[YCAM])/丸尾隆一
2011年10月15日号
対象美術館
山口情報芸術センター[YCAM]では、新しいウェブサイト「YCAM Re-Marks」を、この9月から立ち上げている。YCAMは、オリジナルの企画を発表することが多いことが特徴であり、このようなややユニークな公共文化施設における、メディアアート、パフォーミングアーツ、教育プログラムなどから生まれるプロジェクトにとっては、こうしたウェブサイトは資料性を確保するだけでなく発信力を備えるという点でも意義があると考えている。さらに、一般的な意味での「デジタルアーカイヴ」に対する意識を高めようというねらいもある。開館以降から遡り、YCAMで開催される多くのプロジェクトのなかから委嘱作品を含むいくつかを選び、継続してアップデートしていく予定である。ここでは、記録公開とデジタルアーカイヴのさまざまな課題について若干触れながら紹介していきたい。
YCAMは複合文化施設と呼ばれるように、市立図書館が併設されていることもさることながら、大小3つのスタジオではアートプロジェクトやパフォーミングアーツ公演、オープンスペースを加えたエリアでは事業と関連した教育普及イベントを開催している。さらに、アートプロジェクトとしては、サウンドイベントやサウンドインスタレーションに大きな比重を置いているほか、映画館では独自の映画プログラムが上映され、教育ワークショップ、レクチャー、シンポジウムも、年間を通じて開催されている。メディアテクノロジーをめぐるアートと身体表現に関する新しい芸術表現と教育普及活動のために、独自の制作機能を備えて、アーティストと共に新作を制作し公開していることも特徴的である。一貫した文化的コンセプトのもとでのこうした多種多様なイベントの共存は、YCAMの存在そのものといえる。また、通常の美術館とは異なり特定のコレクションを持たないため、制作された作品を公開すると同時に、オリジナルワークショップなどの教育普及との連携や、メディアアートに特徴的な作品のバージョンアップをフォローしながら国内はもとより世界各国を巡回することで、多様な交流を地域にもたらすこともミッションのひとつである。
YCAMでアーカイヴを遂行する第一の目的は、ここで制作された作品がどのような作品であるかをさまざまなメディアで伝えることである。しかし、今回はそこからさらに踏み込み、事後的に作品性を検証可能にする記録が可能なのか、それらの作品の文化的な背景を含めたかたちをどのように保存し後世に伝えることが可能か、といった問題意識のもとでその可能性を検討してきた。その成果の第一段階として「YCAM Re-Marks」をオープンしたのである。
YCAMで制作される作品
YCAMで制作される作品の多くはサイトスペシフィックであり、作品単体としての保存は困難な場合が多く、多くのプロダクションがテンポラリーな(=一過性という)特徴と問題を抱えていると言えるだろう。鑑賞または体験可能な期間が限られるなかで、作品が発表された当時のコンテクストを理解したうえで、より長期的な視点からの評価や価値体系づくりはなかなか難しい。これは、収集・保存・展示のサイクルによって鑑賞可能で、ある時代における美術の歴史を現代の視座を通して編集し鑑賞可能にするといった美術館の制度には、YCAMで制作される作品がはじめから相容れない特質を持っていることも要因のひとつと言える。
とくにメディアアートの分野においては、作品を同体保存するアーカイヴィングの難しさは周知の事実となっている。そのうえで重用視されているのが、再展示(アップデートやリメイク)を念頭においた作品制作に関する詳細なドキュメンテーションとなる。ある意味、メディアアートはアップデートしない作品のほうが少ないといっても過言ではない。このドキュメンテーションとアーカイヴを混合してしまうと、さまざまな状況におけるコンセンサス(著作権など)が困難となり、まとまった記録を収集することすらできない。
Re-Marksの意味
そのような背景もあり、YCAM Re-Marksでは、慎重に「アーカイヴ」という言葉を避けている。そもそも「アーカイヴ」とは、特定の主題や物事に関する1次資料を収集し、保存、管理しつつ、その資料が持つ価値を理解し2次利用をうながす機関や組織である。また、欧米のそうした組織には「アーキビスト」といった専門職が当然のごとく存在している。
しかし、コンピュータやインターネット上において、この「アーカイヴ」という言葉は多様な意味を持つものであり、それはたんにデジタルデータの圧縮や履歴をさすこともあれば、Internet ArchiveやGoogleアートプロジェクトといった「アーカイヴ性」を象徴するようなさまざまな取り組みにも用いられる。また、「デジタルデータ化」といった意味でのデジタルアーカイヴ(書籍や古文書、絵画の高精細記録)のような、アナログからデジタルへ変換するための規格化されたアーカイヴ化がある一方、YouTubeに代表されるような、パーソナルな映像記録の集積としてのインターネット上の莫大なデータ群といったアーカイヴも存在する。そして、デジタルデータは、その性能を数十年にわたって保存することは難しく、マイグレーション(データ移行)の問題はビデオメディアを始め、単純に継続して保存する点においてもさまざまな問題を抱えている。
舞台においては、(パフォーミングアーツ・ステージアートのプラットフォームとして)劇場の運営と修復の履歴がある種のアーカイヴとも言え、ダンサーにおいては、現在の身体そのものがすべてを物語るといってよいほど、個別の身体が凝縮されたアーカイヴとする見方もある。画像、映像、サウンド、といった各種メディアフォーマットに加え、作品を文化財として記録するためのフォーマットはさまざまに存在しているが、YCAMにおいてはこれまでに述べたような作品の特性から、記録や収集を始める前の段階において、突如、作品のあり方をめぐる本質的な問題が晒されてしまうことが少なくない。
こういった背景も意識し、YCAM Re-Marksを、まずは公共施設における「企画(事業)」のドキュメンテーションとして機能させることを念頭に置いている。その企画のもとで制作された「作品」の記録をベーシックな方法で実現させ、さらには、YCAMの複合的な各種事業に対応させながら継続的な記録、公開、PRが可能なプラットフォームとしてもとらえている。作品(欧米におけるメディアアート)の性質や特徴、再展示に必要な情報のテンプレートを提案しているMatters in Media Artのような試みはすでに各国に存在しているが、舞台芸術やメディアアートの作品において、はたしてどのようなドキュメンテーションとアーカイヴが可能か、または必要なのかが議論されるのはまだまだこれからと言える。
「remarks」には、「注意をむける、述べる」といった意味と、「Re」が強調されることによる「再びマークする」といったニュアンスが含まれている。新作をつくり続けるYCAMにおいて公開当時は触れることのできなかった点の解説や、テンポラリーな性格の強い作品に対して、作品が展示されていた時代に再度注意を向けることを目指している。今後は批評性やジャーナリスティックな視点を持ち込むことで、ドキュメンテーションとしての側面をさらに強化し、それこそが、将来においての作品の再現性と検証を可能にする〈アーカイヴ的な試み〉ととらえている。
ここで、いくつかの事例を映像を中心に見ていきたいと思う。
中谷芙二子+高谷史郎《CLOUD FOREST》
中谷芙二子+高谷史郎による《CLOUD FOREST》は、1970年の大阪万博ペプシ館での初めての発表以降、40年間にわたって世界各地で注目を集めてきた中谷芙二子の代表作《霧の彫刻》を中心に、高谷とともに大幅なアップデートを行ないこのようなプロジェクト名となった。YCAMの館内外を使った大規模なインスタレーションとなった。
中央公園と、中庭、ホワイエで展開される作品の要素はおもに「霧」「音」「光」である。「霧」は、環境と密接な関わりのなか、瞬間的に彫刻され刻々とその形状を変化させる。ホワイエで展開される「音」は、9基のポール状の超指向性スピーカーが鑑賞者と緩やかに関わりながら、回転を続け、館内の構造体に反射しさまざまなサウンドスケープを展開する。そして、天候や時間帯によってさまざまに変化する外の「光」が、中庭の霧を通してホワイエに差し込み、床に敷き詰められた鏡によって拡散することで、空間の表情が刻一刻と変化する。映像記録では、各インスタレーションにおける霧を微速度撮影によって記録することで、環境によって刻一刻と変化する霧の姿を記録し、ホワイエの音は、長時間のバイノーラル録音と同時撮影を行なうことで、あるポイントに立った際のサウンドスケープの録音を行なっている。
霧の彫刻は、瞬間的にまったく異なった造形を見せながら変化し続け、ホワイエの音は、超指向性音が多重に反射していくため、鑑賞者の立ち位置でまったく異なったものになる。その点を踏まえると、この作品には無限のバリエーションがあるように思える。また、現在のパーソナルコンピュータ1台の性能が、40年前には莫大なスペースと機材の山を持ってしか実現できなかったことなどを考えると、再展示の意義のありかを示唆しているともいえる。
1974年にE.A.T.の中谷芙二子やディヴィッド・チュードアが構想したプロジェクト「島の目、島の耳(Island Eye Island Ear)」の時代とは違い、現代では非常に安価に、環境情報をもとに噴霧量をコントロールしたり、ホワイエでの自在に環境音を取り込むといったサウンドスケープが実現してしまうため、むしろ、そのことがいったいどのような音へのリアリティの違いをもたらしているのか、そういった記述がむしろ重要なのかもしれない。
梅田宏明「Holistic Strata」
梅田は、観る者への体感に直接訴える空間と、即興的なダンスがシンクロした「ビジュアル・パフォーマンス」が高い評価を受けているダンサーである(作品コンセプトはRe-Marksのページを参照)。
この作品では即興的なダンスに反応するインタラクション・システムが劇中に使用され、人間の知覚を突き詰めるような光と音響のパフォーマンスが特徴と言える。
そのためこの作品においては映像記録に比べて、舞台空間全体を介した知覚は圧倒的な体験であり、それは、人の身体を基準とした、スケール、振動、さらに、観客の視線を一身に浴びた踊る身体があってこそ成立するものと言える。そして、コンセプトとシステムの核のひとつを成してもいる、「ひとつの点(パーティクル)が、複数動くことによって生まれる『動き』」を知覚できる量やサイズは、今後、テクノロジーの進化と共に変化していくはずである。だが、そのような技術的な表現力より、むしろ梅田本人が本作の舞台環境に適合させながら進化させていく身体感覚やダンスの進化が語られなければ、この試み自体が残る意味も半減してしまうのではないかと考える。
Re-Marksからアーカイヴへ
このように、作品における映像ドキュメンテーションをとっても、さまざまなアプローチが可能である。それらは、あくまでドキュメントであり、所蔵品でもなければ映像作品でもなく、ましてや実体験に肉薄するような視聴体験でもない。そして、これらの作品群の記録やドキュメントがどういった文脈を築くことで「アーカイヴ」となりえて、あるひとつの領域を切り開いていけるのかはまったく見当がつかない。一方で、世界で似たような体験に根ざした表現は無数にあり、それらはそのまま似て非なるものとして成長を続け、インターネットを中心としてその記録を共有していく状況のなかで、次の場が生まれ続ける環境は出来上がっているようにも思える。さらに、目新しいテクノロジーやメディアが今後、ますます人々の身体感覚を、ごく自然に拡張させ、そのことに自覚的になりつつある現在、これまでは、目新しいメディアが目の前に現れる度に感じていた領域や属性のようなものに対する意識は、いかに身体を拡張しうるかを軸とした現実的な判断が中心となり、ますます薄れていくように思われる。道具やメディアが身体に馴染み血肉化したさきに、表現の成熟があることは歴史を振り返れば間違いないが、YCAMが掲げるメディアテクノロジーと身体をめぐる新しい芸術表現の追求について、「相対的に新しいとされるメディアや道具」を扱っているだけではなくその意味を記すことが、ドキュメンテーションを超えてアーカイヴとなりうる唯一の手段のようにも思う。