キュレーターズノート
ハルカヤマ藝術要塞2011、飛生芸術祭2011、夕張清水沢アートプロジェクト
鎌田享(北海道立帯広美術館)
2011年11月01日号
「北国の夏は短い」とよく言われるが、この20年ほどを北海道で過ごしてきた者の実感として、秋はもっと短い。今年はそれほどでもなかったが、例年お盆を過ぎるとにわかに空気が冷たさを増す。そしてこの原稿を書いている10月中旬には、紅葉もあらかた終わる。感覚的には、夏の終わりは、冬の初め、なのである。そんな短すぎる北海道の秋を彩るように、アート・イベントが北海道各地で相次いで開催された。今回はそのひとつ、「ハルカヤマ藝術要塞2011」から、筆をおこす。
「ハルカヤマ藝術要塞2011」の会期は、9月25日から10月22日にかけての約1カ月。これに先立つ7月30日から作品の公開制作はスタートしている。会場は、小樽市の東端、札幌市との境にある春香山の北側山麓、眼下に石狩湾を臨む約3万平米の土地。かつてここにはホテルが建っていたそうだが、30年前に営業を終えてからすっかり荒廃したという。
そもそも今回のイベントの発端は、小樽在住の彫刻家・渡辺行夫が土地の所有者と出会い、《春香山復活プロジェクト》と名付けて2009年4月に自力でこの地の整備を始めたことにさかのぼる。林立する樹木を間引きし、繁茂する下草を払い、山道を切り開いていった。そして今年、北海道在住の55人・組のアーティストが参加して、野外展が開かれたのである。
会場を一巡するなかで度々脳裏に浮かんだのは、「秘密基地」という言葉だった。なかば崩れたコンクリート造りの建物、ぬかるんだ山道に覆い被さるように繁る草木。個々の作品をゆっくりと鑑賞するというよりは、あの曲がり角の先にはどんな景色が広がっているのかを確かめたくて、早足で山中を歩いていた。もっとも、訪れた日は時おり霰(!)が降り注ぐ悪天候で、それ故に早足にもなったのだが……。それはともかく、著者が感じたのと同じ高揚感、子どもの頃に胸をときめかせたのと同じ感覚に心を占められながら、アーティストたちもまた、この山中で作品を制作し設置したのであろう。
さて、冒頭でも記したように、この秋、北海道ではいくつものイベントが実施された。
9月11日から18日には白老町で、「飛生芸術祭2011」が開催された。会場となったのは、飛生アートコミュニティー。1986年に、閉校した旧飛生小学校を共同アトリエとして改築しスタートした施設である。以来25年間にわたって所属メンバーを入れ替えながら、今日までこの共同アトリエは続いている。飛生芸術祭は、地域の活性化と各々の表現の拡大を目指して、現在のメンバーが3年前からスタートした新たな取り組みである。
9月17日から10月16日には夕張市で、「夕張清水沢アートプロジェクト」が開催された。中心となったのは、札幌在住の現代美術家・上遠野敏と、彼が教鞭を執る札幌市立大学の学生たち。上遠野はこれまでにも、2004年の「赤平炭鉱アートプロジェクト」、2009年の「幌内・布引アートプロジェクト」と、北海道空知地区の産炭地を舞台に、学生たちとともにアートプロジェクトを展開してきた。今回はいわばその第三弾といえる。
ほかにもまだまだあるのだが、正直に言って著者はこれらすべてに足を運べているわけではない(北海道は、あまりにも広い……)。したがって、その各々について詳細にコメントすることもできない。しかし、なぜ今年これほど多くのイベントが重なったのか、その点を不思議に思っている。
各イベントは、その組織体系も目的とするところもさまざまである。それでもなお共通する性質を探すとすれば、そのいずれもがアーティストの自主的な取り組みに端を発しているという点であろう。ハルカヤマは、ひとりの彫刻家が荒廃した土地と向き合い、彼を囲む作家仲間に呼びかけることでスタートした。飛生は、その地域にアトリエを構えるアーティストたちが住民に自らの取り組みを知ってもらいたいという想いから発した。夕張清水沢は、現代美術家が打ち捨てられた近代遺産と出会い、そこでの作品制作を大学教育とリンクすることで出発した。先にレポートした「落石計画」にしても「真正閣の100日」にしても、アーティスト自らのアクションとパッションを発端とすることでは同様である。
それではなぜアーティスト自らが自主的に、そしてこれほどまでに積極的にこうした取り組みを行なうのだろうか。アートを巡る現状への閉塞感、新たな表現への模索、いろいろと考えられるのだが、いまだ著者のなかでは明文化することはできない。ただ彼らが、自らの行為や存在をなんらかのかたちで他者(場やコミュニティ)と結びつけ、そのことによってアーティストとしての立ち位置を、そしてアートの立ち位置を、築こうとしていることは確かであろう。それはアートにとっての「自分探しの旅」なのかもしれないが、少なくとも自ら旅立とうとするその姿に、素朴なしかし堅実な存在感を感じる。