キュレーターズノート
札幌大通地下ギャラリー 500m美術館
鎌田享(北海道立帯広美術館)
2013年02月15日号
札幌中心部の地下空間を活用して、一昨年の2011年11月に「札幌大通地下ギャラリー 500m美術館」というギャラリースペースがオープン。さまざまな現代美術の企画が展開されている。
札幌市街の中心に位置する市営地下鉄「大通駅」と、そのすぐ東隣にある「バスセンター前駅」のあいだ1キロ弱は、地下歩行空間によって結ばれている。この連絡通路は2006年以来、現代美術作品の展示空間として活用され、毎年11月の1カ月間限定で「500m美術館」という企画展が開催されてきた。そして2011年には、連絡通路の片側に立体作品展示用のウォールケースや平面作品展示用の壁面が整備され、現在では常設のギャラリースペースとして運用されている。
札幌で活躍中の作家たち50名あまりの作品を前後期にわけて紹介した「オープニング企画展」(前半=2011年11月3日〜2012年1月28日、後半=2012年2月4日〜5月6日)。北海道をはじめとする日本各地の若手作家たちを紹介した「日常の冒険──日本の若手作家たち」(2012年5月12日〜7月27日)、「Excessive!──過剰化する表現」(2012年8月4日〜11月2日)。3人組のアーティスト・ユニットNadegata Instant Partyによるワーク・イン・プログレスの要素を含んだ個展「The Wall Street Diary」(2012年11月10日〜2013年1月25日)。札幌に新たに生まれたこの施設では、興味深く意欲的な企画が展開されており、今後どのような作家や作品が紹介されていくのか、目が離せない。
常設ギャラリー「500m美術館」の設置目的は、「市民が国内外の多彩な芸術文化に触れる機会を増やすとともに、札幌で活躍するアーティストを内外に発信していく」ことと、簡潔に述べられている。特に前段の「多彩な芸術文化に触れる機会を増やす」という部分は、筆者が勤める既存の美術館とも、軌を一にするものである。しかし……既存の美術館と「500m美術館」とは、やはり決定的に異なる性質を備えている。
いわゆる「美術館」や「ギャラリー」は、「美術作品」を展示・公開するための専用施設として、現代社会のなかで機能づけられている。そして当然のことながら、美術館やギャラリーに足を向ける方々は、そこに行けば美術作品があることを前提として行動する。企画の内容にさまざまな意見をいただくことはあっても、そこに美術作品が展示されていること自体に苦言を呈さることは、まずないであろう(こうした施設の必要性について議論されることはあっても……)。したがってこれらの施設において「芸術文化に触れる機会を増やす」ということは、企画内容をより精緻に練り上げるとともに、それをより魅力的かつより広範な層にアナウンスすることに、いわば尽きる。これまで美術館やギャラリーに足を向けなかった層に、これらの施設の、展覧会企画の、そして美術・アートそのものの意味や意義を伝えていくことに、重点が置かれるのである。
一方の「500m美術館」が開設された場所は、もともと、そして現在でも、一義的には「歩行空間」である。1キロ弱の駅間を、天候、例えば冬の積雪や寒気に妨げられずに快適に往来するために設置され運用されてきた場所なのである。すなわち、「500m美術館」という場に足を踏み入れる人々の過半は、美術作品や展覧会企画を見に来る合目的的な利用者ではなく、通りすがりの人々と解してもよい。その、ひょっとしたらこれまで美術作品と意識的に触れ合う機会を持ちえなかった人々に働きかけることができる、そうした可能性を含んだスペースといえる。
これは「バラ色の未来」のごとき理想像にも思われるが、本当にそうなのだろうか?
性根の曲がった見方ではあるが……美術作品を「鑑る」ことは、やはり相当に意識的な行為なのだと思う。美術館という施設や展覧会という場は、その意識的な鑑賞行為を前提に成立している。そして転倒して言うならば、例えそこに美術作品が設置されていたとしても、人々の能動的な意識と行動がともなわなければ、鑑賞という行為は成立し得ないことになる。歩行空間を往来することを主目的とする人々にとってはなさらのこと、展示された一連の物体が、美術作品としては認識されえない可能性すらあるのである。
その一方で、この歩行空間に置かれた作品は、そこを行き交う人々の視野に、否が応もなく入り込んでくることも確かである。
美術の今日的な意義のひとつに、政治や経済とは異なる視点から社会を見つめ、そこへの違和感を申し添えたり異議申し立てを成したり、いわば「未見のヴィジョン」を提示したりすることにある。そして、この未見のヴィジョンは、既存の枠組みや価値観とのあいだで、激しい軋轢を生じることもありうる。「表現の自由」や「芸術の自立性」を巡るいくつかの論争の根底には、そうした美術・芸術作品の現代的な役割が横たわっているのであろう。そして、例えばであるが、「500m美術館」に展示されたある作品が、それを美術という位置づけを持たずに見る者に対して、予想外の刺激や不快感を与えうることも考えられるのである。
「美術館」という閉じられた場に展示されたものが、「美術」という規制を与えられるがゆえに、鑑賞対象としての位置づけと表現上の自由を獲得する。一方で、「公共空間」という開かれた場に置かれたそれは、「社会通念」という広範な枠組みのうちに制約を受ける。なにやらパラドキシカルな状態が、生じかねないのである。
念のために記しておくが、この一文は「500m美術館」の存在について可否を述べるものではない。ただこの「特異」な施設をきっかけに、「見る/見せる」という行為は、社会のなかでどのような位置を占めうるのか、記したものに過ぎない。