キュレーターズノート
ベルリン、アート鑑賞備忘録
角奈緒子(広島市現代美術館)
2013年03月15日号
今夏開催予定の展覧会準備のため、短期滞在ではあったもののベルリン訪問の機会を得た。人の取る行動に対する寛容な態度のみならず、家賃や物価の安さも手伝い、どこか住み易さや居心地のよさを感じさせ、それゆえいまだ世界中から多くの作家たちが集まってくるベルリン。雪という天候の悪さも手伝ってか、街中に派手さや賑々しい要素はいっさい見られずむしろ地味な雰囲気の都市で、現代アートはしっかりと市民の生活の一部として受け入れられているという印象を受けた。今回のレポートはベルリンで見ることのできた、おもに美術館での展覧会を取り上げ、備忘録風に紹介することとする。
クンストラーハウス・ベタニエン
ベルリンが壁を挟んで東西にまだ隔たれていた1974年よりアートセンターとしての活動を開始したベタニエンは、アーティスト・イン・レジデンスプログラムにおいても老舗であり、いまだ多くの芸術家たちを魅了している施設である。ここではレジデンス作家のうち、三名の個展を観覧。マイケル・リー(シンガポール)は「孤独」をテーマに、さまざまな理由で打ち捨てられ、置き去りにされた建造物の平面図や秘密基地のような樹上の家に着想を得たという構造物などを発表。ネットを通じて限りなく世界中の人々とつながることを可能にするいまの世界における「孤独」の意味やあり方の考察をうながす。異様な思いと笑いとを見る者に引き起こす、強烈な表情の自画像で知られる松井えり菜(日本)は、「道」をテーマに自画像を重ね合わせた新作を発表。モチーフの大胆な構成力と見事な筆力を再認識できたものの、インスタレーションとして発表していた作品については、構成要素の必然性がいまいち伝わってこず、まだ模索中という印象を受けた。感情の赴くまま、手の動くままにドローイングを描き進めると話すジャスパー・セバスチャン・ストゥラップ(デンマーク)は、力強い人物の表情を生み出す細い線描のドローイングや、今回初めて試みたという、フラジャイルな印象を与えながらも同時に安定感や力強さをたたえた毛皮のオブジェなどを発表。ギリギリのところで成立している絶妙な感じのドローイングとオブジェはたいへん魅力的であった。
Michael Lee, "Some Detours"
Erina Matsui, "Road Sweet Road"/a
Jasper Sebastian Stürup, "Nothing Will Corrupt Us, Nothing Will Compete"
ノイエ・ナショナルギャラリー
言うまでもなく、ミース・ファン・デル・ローエの建築で知られる、一面ガラス張りが特徴的なこの美術館では、「Divided Heaven, The Collection: 1945-1968」と題されたコレクション展を見ることができた。20世紀美術のコレクションだけで5,000点以上を所蔵する同館では、前世紀を1900-1945、1945-1968、1968-2000の三期に分け、各時期の作品を紹介するシリーズを2010年より開催しているとのことで、筆者が見たのは第二期にあたる。展覧会タイトルは、クリスタ・ヴォルフの小説『引き裂かれた空』にちなんでおり、第二次世界大戦後、地形的またイデオロギーにおいて世界が東と西に分かれ、それにしたがうようにアートも政治利用されていった様子を再考する内容となっている。政治的プロパガンダでの利用を目的に東で好まれた具象絵画と、自由のシンボルとなっていったおもに西で制作された抽象絵画との対比などにも言及しながら、全16セクションからなる展覧会の構成力には脱帽だが、一点、些細なことかもしれないが注文をつけるとするならば、順路があまりにもわかりづらかった点。基本的に年代を追って時代と作品を概観する展示となっているのだから、見る順番が途中で図らずも狂ってしまうのはとても残念。何度も軌道修正が必要だったのは、私だけだったのだろうか。なお、1階では、ベルリン派と呼ばれる新古典主義彫刻の一群が展示されていた。この展示、来館者の心をあまりとらえていないようだったが、日の光を浴びた白い肌の大理石彫刻同士が会話しているような光景はある意味一見の値あり。
Divided Heaven, The Collection. 1945 - 1968
In the White Light Sculptures from the Friedrichswerdersche Kirche on show in the Neue Nationalgalerie
ハンブルガー・バーンホフ
かつてハンブルクとベルリンを結ぶ鉄道の駅舎だった建物を改築し、1996年から国立美術館の現代美術部門として開館したハンブルガー・バーンホフでは、2名のドイツの巨匠作家個展ほか、充実したコレクション展などが開催されていた。美術館に入って正面のメインホールではマーティン・ホナートの個展「Kinderkreuzzug」が開催中。幼少時代の記憶がテーマの各オブジェは、作家の幼少時代の体験や家族写真と結びついている。作家の心の中が具現化されたオブジェばかりにもかかわらず、自分の幼少期を彷彿させる錯覚を覚えるという不思議な追体験(?)も楽しめるが、どこか釈然としないという後味の悪さを抱きながら(おそらく展示方法に対してそう感じたのだと思うが)、別の個展、マーティン・キッペンベルガーの「Sehr Gut/ Very Good」を鑑賞する。こちらはさきほどとは一転、抑えきれない激しさが溢れ出ているような作品群が並ぶ。まだこの世に存在したならば、今年で60歳を迎えることになった画家、俳優、執筆家、ミュージシャンなど、既存の枠にとらわれず、むしろはみ出ることを信条に活躍し、破天荒な生涯を送ったキッペンベルガーという、同世代のなかでももっとも傑出した一人として見なされるアーティストの作品と生涯とを紹介する展覧会である。展覧会タイトルは、キッペンベルガーが1978年に出版した同名の雑誌にちなんでいるとのこと。久しぶりに軽い興奮を覚えながら、むさぼるようにキッペンベルガーの作品を網膜に焼き付けたものの、いまなお私のなかで消化不良を起こしているようで、残念ながら、あるいは情けないことに、この作家の素晴らしさを的確に述べる自信がない。とはいえ、つねに具体的ななにかに抗うことを原動力としているかのような、どこか破壊的なパワーをたたえつつも、同時に繊細さを持ち合わせた、ウィットに富んだ表現に惹かれているという確信はある。若くして亡くすには惜しい作家であったことは間違いない。
駆け足となってしまったが、同館が誇るマルクス・コレクションも堪能。アンディ・ウォーホルの大作にも息を呑んだが、ヨーゼフ・ボイス、アンセルム・キーファーといったドイツ作家による作品群には圧倒される。こちらも必見である。
Martin Honert, "Kinderkreuzzug"
Martin Kippenberger, "sehr gut | very good"
マーティン・グロピウス・バウ
かつてゲシュタポ本部が置かれていた跡地に建つトポグラフィー・オブ・テラーを訪れるついで(といっては失礼だが)に、隣接する美術館、マーティン・グロピウス・バウも訪問。ヴァルター・グロピウスの伯父にあたるマーティン・グロピウスが設計したルネサンス様式の建築では、二名の写真家による個展を見ることができた。一人はドイツの写真家、ミハエル・シュミット。近年、産業化された食料システムに関心を抱くシュミットが、野菜、果物、肉(肉になる前の家畜含め)、卵、パンなどとにかく食料品を被写体に撮影した写真が並ぶ。食料以外のものはなにも写っていない、無造作かつ計算されたアングルで切り取られた食料の写真は、私たちになにを問いかけてくるのか。見る者の関心の先によっては受け取り方が変わるであろう対象のとらえ方に考えさせられるものがあった。もう一人は、戦間期に活躍し、世界中へ赴いた女性報道写真家のパイオニア的存在であり、『ライフ』誌の表紙も飾った写真家、マーガレット・バーク=ホワイト。月並みな感想で恐縮なのだが、あの時代に女性が戦場に踏み込んでいったという事実には感服する。
Michael Schmidt, "Lebensmittel"
Margaret Bourke-White, "Photographs 1930 - 1945"
各館とも、それぞれ特徴のある展示室をうまく利用し、たいへん美しい展示がなされていたことに、センスの良さを見せつけられたような若干苦い思いを感じもしたが、今回私は、そのキュレーターの展示技量よりも、企画内容および作品のクオリティの高さよりもなによりも、来館者たちの熱心な姿にじつは一人でいたく感動していた。年配(または初老)の夫婦、ベビーカーを押し、腕には子どもを抱えた若いカップル、家族連れ、友人同士などまさに老若男女が、一見ではなかなか理解が困難な作品を目の前に、時に静かに時に連れと意見を交換し合いながら、じつに楽しそうにアートを鑑賞しているのである。彼らのドイツ語での会話を理解することができないのは残念だったが(じつはたいしたことは言っていないのかもしれない)、解釈不能なものに憤慨し、未知のものを拒絶するのではなく、それらを理解しようとする(ように見えた)姿勢は、その人々のもちうる文化度の高さと直結するのではないだろうかと、我が国の実状をつくづく嘆くこととなったということを最後に申し加えておきたい。