キュレーターズノート
呉夏枝×青森市所蔵作品展「針々と、たんたんと」
工藤健志(青森県立美術館)
2013年04月01日号
対象美術館
地方で暮らしていて最近思ったこと──。青森駅の駅ビルに某有名外資系喫茶チェーン店が開店し、初日に100名を超す行列ができたそうな。それはすぐさまニュースで報道されたが、口さがない都市圏在住者からは嘲笑、揶揄の対象となり、一方、地元ではさらに話題となっていく。ふむふむ、まず周辺(=地方)は相変わらず中心(=東京)を求め、その権威との同一化を図ろうとするんだな。そのことによって中心は中心であることをより自覚し、相対的に地方を「辺境」ととらえる意識が強くなるということか。
で、さらにそこから、地方の伝統文化や工芸品、名産品を再生させようとする動きについても妄想が広がっていく。消えつつある伝統工芸品や売れ行きの低下した名産品、特産物をいまの時代にふさわしい形で再生させようと、デザイン性を高めたり、他ジャンルの商材とコラボレーションさせたり、その筋の「偉い人」にプロデュースさせたりと、そうした動向は近年大層かまびすしい。いや、それらを一概に批判するつもりはないけど、はやりのこじゃれたデザインで処理されたそれら特産品、伝統工芸品をいくら眺めても、そこに地域性や個性を見出すことなどできないのだ。むしろ、中央の価値へ盲目的に追従する安易な発想のように思えて、なんとも暗澹たる気持ちになってしまう。でも、それだけで話題となり、(たぶん)売り上げも上がるのだろうから、目先の利益を求めるという点においては効果的なのだろう。しかし、一度「話題づくり」に傾注して効果をあげると、「もっと刺激を」、「もっと話題を」と考えちゃうのが人の常、(具体例を挙げたら怒られそうだからやめるけど)「なにもわざわざこんなことしなくても」と言いたくなるような現代アイテム化した伝統工芸品が登場したりして、いやホント、目を覆いたくなっちゃう。民芸運動に対する再評価の気運、また自然と共生するかのような北欧のライフスタイルへの憧れ、「エコ」、「スローライフ」、「ロハス」(はあまり聞かなくなったけど)といった言葉の普及など、時代の潮流に沿って、地方の伝統的な素材や技術を生かした家具や調度品、工芸品にも注目が集まってきたのであろうが、なによりもマーケティング・コンセプトを優先し、「良いもの」より「売れるもの」を追求してしまうと、それらの多くがファッションとして受容されるようになるのも当然であろう。まあ、ファッションとして消費されること自体は百歩譲って良いとしても、モノをつくる生産者、技術者よりも、それをプロデュースしたり、デザインする裏方に注目が集まりがちなのはどこかおかしい気がする。これって疲弊した地方を食いものにする権力の、新しい搾取のかたちじゃないかと思ってしまうのは僕だけだろうか。下らないことに付き合わされるより、社会の移り変わりのなかで消えゆくものは、そのまま消えていいんだと思う。下手な延命治療を施され、形骸化させられるよりは、遥かにマシであろう。
そして「遺物」となり、博物館に収蔵され、歴史化されていくモノたち。それは完結し、閉じてしまった世界ではあるものの、むしろ形骸化のはてに生きながらえているモノたちと比べると、そこには生活の記憶や人間の意識が封印されており、むしろわれわれの想像力を喚起したり、そこからさまざまな物語を紡ぎ出すことができるように思う。
以上はあくまで個人的な考えに過ぎない。ただ、自らの価値観を見失わないためにも、そうした流行にはどこまでも反発していきたいし、地方の美術館で働く学芸員の態度として、「中央」や「権威」を利用したり、あるいは無自覚に信奉することはせず、どこまでも地域に根ざし、地域のアイデンティティを尊重していきたいと考えている。
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2013年2月10日から3月17日まで国際芸術センター青森(以下、ACAC)で開催された「呉夏枝(お・はぢ)×青森市所蔵作品展『針々(しんしん)と、たんたんと』」は、アーティストの視点によって民俗資料を紹介する試み。アーティストという「権威」によって、遺物に対する新しい解釈と価値づけを行なうこと……、それはともすれば上記のように地方の搾取につながる危険性をはらんでいる。今回の展覧会もはじめはそうした色眼鏡でとらえていた。とにかく、まずは見てみよう。そして会場を一巡し、自らの短絡的な思い込みを深く恥じた。
呉夏枝は織りから染織、刺繍までを自ら手がけたファブリック作品で知られる大阪在住のアーティスト。「在日コリアン3世」の「女性」という出自から、国家、民族、性別といった社会的属性と、その内側と外側の関係性から生じる諸問題を、政治的に利用するのではなく、あくまで自己存在の一貫性、連続性への問いかけとして作品化する。例えば、着物やチマチョゴリといったそれぞれの伝統衣装をモチーフに、複雑にからみ、もつれた構造の糸を解きほぐしながら、再び多軸の視点で織り直すことで、呉はその表層的な意味と役割の奥にひそむ「精神の最深部」へ、深く分け入ろうとしているのではないか。
衣服=身体であること、そして衣服が意味を生成するとともに意味を付与される、相反する力によって成立するものであることを指摘したのは鷲田清一であるが(『モードの迷宮』、ちくま学芸文庫、1996)、確かに衣服は着る者の社会的属性を象徴的に表わすとともに、それを着ている人間をも自在に変化させ、さまざまな「物語」を作り出していく。ほんらい身体を隠し、防護するはずの衣服が、逆に身体性を露にさせるということ。つまり人間は衣服に拘束され、衣服によって存在が引き裂かれつつも、一方それなしでは〈わたし〉として成立しないのだ。呉はそうした衣服の両義的な特性に着目し、主が不在となった衣服やモードとしての衣装をとおして、失われた個の記憶と歴史を探ろうとしているように思える。
今回の展覧会のきっかけは、ACACで2009年に行なわれた秋のアーティスト・イン・レジデンス(AIR)プログラム「HOME」に呉が参加したことにさかのぼる。その成果展示で呉は、麻縄をかぎ針編みにしたカーテンのようなファブリックを天井から吊り下げ、壁や床に大きく、のびやかに展開させるインスタレーションを設置。カナダ国籍を持つ日系2世のジョイ・コガワが第二次世界大戦時の迫害体験をもとに記した『失われた祖国』(長岡沙里訳、二見書房、1983)から着想を得た《妹からのてがみ》という作品である。本書には日本とカナダという二つの祖国に翻弄された女性の半生が記されているが、悲劇にただ打ちひしがれるのではなく、かと言って声高に被差別の実態を告発するのでもなく、さらに感情に流されることもなく、どこまでも淡々と物語を綴ることで逆に揺るぎない強さが感じ取れる作品である。呉はこの自伝小説に自らのルーツを投影しながら、さらに「HOME」という概念に「女性」を重ね合わせながら、繊細でありながら大胆、しなやかでありながら強靭なイメージを作り出していた。それは、個と社会、口伝と歴史という両義的要素を「編む」という行為で同存させ、さらに編まれていない麻布との対比をとおして、それらに対する認識と解釈の余白をも見る者に与える、多義的空間を創出する営みのようにみえた。
呉は翌2010年、大阪府立中之島図書館で開催された「やっぱり本が好き! 国際ブック・アート・ピクニック」に参加し、《あるものがたり》と題された布のオブジェと音声作品を発表している。その音声作品は、レジデンスで滞在した青森、生活拠点の関西、さらにはトロントにおいて録音された音声を重層的に構成したもの。さまざまな国と地域、年齢の女性計41名によって、『失われた祖国』のとある1章が日本語と英語で朗読されており、その繭に包まれたやさしく穏やかな女性の声の連なりは、複数の独立した価値として、それぞれの個性を強く意識させつつも、同時に調和と統一の印象も強く受ける。それはまるで、民族、国、文化、言語といった社会的な境界で分け隔てられているものを表面的な理想主義で融解させるのではなく、異なる価値をどこまでも並列に、しかも等価に扱うことで、逆に多様な世界と複数の価値に気づかせてくれるような、まさに「織り」の発想と共通するものであった。
こうした活動を行なう呉に、青森市教育委員会が所蔵するこぎん刺し、菱刺しといった青森の伝統的な刺し子技法が施された仕事着や麻織物を紹介する展覧会のコーディネートを依頼したのは、2009年のレジデンスプログラムも担当した近藤由紀学芸員。同じテキスタイルを扱うアーティストという点を超えて、歴史資料のなかに封印された時間と記憶を引き出す「もう一つの視点」(同展チラシ文より)を呉に託し、呉も見事それに応えた良質の取り組みであったと言える。
呉は調査のため何度か青森を訪れ、青森市教育委員会が所蔵する伝統工芸品を1点1点丁寧に調査し、その「もう一つの視点」から出品作を選定していったという。そこでは民芸的な美の視点からは抜け落ちてしまうであろう不具合……、刺繍がズレているものや、糸が途中でなくなってしまったのか一部繊維の色が変わっているもの、酷使されてくたびれたものなどが多く選ばれている。しかし、その不具合が逆に人間性を強く感じさせ、すでに存在しない主の生活や意識がそこからにじみ出てくるかのようであった。無名の民衆の営みから「美」を抽出するのではなく、ありのまま、自然のままに提示することで、視覚を超えたところに身体を浮かび上がらせ、その記憶、物語へと見る者を誘う。まるで宙に浮遊するかのように天井から吊された衣服からも、通常のマネキンやハンガーを使った展示では失われがちな身体性が強く感得されよう。これは、白いオーガンジーの衣服が空間のなかに浮かぶ、「HIROSHIMA ART DOCUMENT 2008」でのインスタレーション《不在の存在》と共通する展示手法であり、展示品がたとえ呉の作品でなくとも、視覚をとおして、視覚でとらえることのできないものを顕在化させていくインスタレーションとして、今回の展示は自作と同様の強度を有していた。そもそも主体という存在じたいが他者の視線によって支えられるものだとするなら、「第二の皮膚」たる衣服と見る者のまなざしの間に「対話」をもたらすことで、「不在の存在」もまたわれわれに語りかけてくれるはず。そう、他者からどう見られているかによって〈わたし〉という存在が刻々と変化するように。
今回の展示では所蔵資料を撮影した呉の新作もあわせて展示されていたが、ここでは写真というメディアの特性を活かし、呉の言う「持ち主の記憶と身体の痕跡がつくる−布のしぐさ−」(同展チラシより)がより明確に打ち出されており、単体の写真作品としての魅力もさることながら、展示された実際の衣服を「どう鑑賞するか」のガイド的役割も担っていた。しかも、それら展示を構成する各要素をひとつに統合することなく、むしろ個々の存在を際立たせつつも、ゆるやかにつなげていくことで、無数の存在、意識が重層的に重なるポリフォニックな空間を作り出していた。
そして、そこから気づかされるのは、「過去」がけっして「不変」ではないこと。「残された物語」ではなく、「失われた記憶と時間」を想起し、そこから「新しい物語」をつむぎだす「未来のための過去」であること。「織り」という行為はその比喩に他ならない。会場の所々に、これもまた空間、他の展示資料と共鳴するように設置された呉の作品群──布をほぐし織り直すことで新しい価値を作り出す──が静かに、そして力強くそのことを伝えていた。
イマドキのアートプロジェクトの傾向として、「惹き付ける」ことより「寄り添う」ことに目的をおいたものはきわめて多い。いや、より正確に言えば、「寄り添うふり」と言うべきか。「地域のため」、「そこに暮らす人々のため」といった名目を付けてプロジェクトを行ない、アーティストはそれを利用してステイタスを高め、参加者は自らの存在を全肯定してくれる心地良い環境にどっぷりと浸るだけ。などという暴論のひとつでも吐きたくなるような状況。アートの大衆化がこうして進んでいくのだとすれば、僕はたとえへそ曲がりであってもそれを否定したいと思っていた。それは裏返せば、いかに地方が疲弊し、人々が日常に喜びを見いだせなくなっているかの証でもあるから……。その意味で近年のアートプロジェクトははじめに書いたような「地域興し」の発想と共通するところが多いと感じていたのだが、それらを頭ごなしに否定してはいけないことを、僕は今回の展覧会から学んだ。会場で静かに佇み、深く展示品と向き合い、じっと対話してみると、世界が〈わたし〉に語りかけてくる。鑑賞という行為の醍醐味と本質に改めて気づかされるとともに、地域と向き合う際の意識の持ち方についても大きな示唆を受けた企画であった。
と、ここまで書いて、最後にはたと思い出す。青森の五所川原市(旧金木町)には「川倉賽の河原地蔵尊」があるじゃないか。本堂には死者を供養するおびただしい地蔵に加え、天井からは死者が愛用したであろう一張羅がずらっと吊り下げられている。その異様な光景を見てなにも感じない人はおそらくいないだろう。そこで死という概念は個別的にも集合的にも把握され、小さな物語としても大きな物語としても迫ってくる。青森にはそうした習俗が至るところにまだしっかりと残されているのだ。と、そんなことにも気づかされた。