キュレーターズノート

渡辺英司──Vehicles(乗り物)/アーツ前橋プレオープン展示「コレクション+ からだが語る」

住友文彦(キュレーター)

2013年07月01日号

 私がケンジタキギャラリーの「渡辺英司」展を訪れたとき、ある海外のアーティストと一緒だった。彼は国際的な評価も高いアーティストのひとりで、いっぽう収集家でもあり、欧米の美術市場や専門家ネットワークにも通じた卓越した批評眼を持っている人物でもある。

 その彼はひと通り作品を眺めたあとで、「一人の同じ作家がつくっている作品とは思えないね」という感想をもらした。もちろん、制作年代も違えば一人の作家がいろいろな異なる性質の作品をつくりえるとは思っているだろうし、そのうえで複数の作品のなかにかすかに残存する一貫性を感じとろうとすると、どうにもとらえきれないなにかを見てしまったという反応がとても印象に残っている。彼の鍛えられた批評性とは、非常にロジカルなものであり、言語化されることで輝きを増すようなものであるに違いない。しかし、そこからこぼれおちることを、あえて意識的に行なっているように見える作品に対しては極めて正直な感想だとも言える。
 そう言う私にとっても、なにを見たのか言葉が宙に浮いたままのような感覚がこの原稿でなにを書こうか考えるときまでずっと残っている。なにかと作品を見ては、表現方法を形式的に、あるいはコンセプトの視点がどこに置かれているかなどを元に、つい職業的にすでに知っている複数の作品との関係性のなかに位置づけさせてしまう認識の枠組から逃れてしまう感覚だけが残っていた。渡辺英司の作品を知らなかったわけではないし、むしろ前回のあいちトリエンナーレでは長者町の建物全体を使った展示に強く惹かれた体験も持っている。
 展示は1階に、乗り物をテーマにいろいろな自動車が、模型、写真、絵画によって「再現」されている。特定の車種に必ず備わっている視覚的な特徴がこれみよがしに示されているという訳ではない。どうも対象の観察によって成立する作品でもなさそうだ。ほかには、おもちゃのミニカーも並んでいたが、それぞれ衝突事故によって無残に一部が壊れている細工を丁寧に加えている。他の壁には子どもが描いた3点の消防車の絵(の写真)があって、その前の床には不恰好に形や色の塗りを一つひとつ「再現」し、立体化させていた消防車がやはり3点あった。そして、《怒りのフォトグラファー》という題名がついた写真の連作と、英語で「vehicle」と記した青と赤の文字。
 作者の関心は自動車のどこに向けられているのだろうか、あるいは自動車をめぐって社会的に構築されている各種の約束事に批評的な眼差しが向けられているのだろうかという凡庸な解釈を向けていると、どこかするりするりと解釈の眼を通り抜けてしまうような感覚なのである。もちろん、そんな問いかけをどんな作品に対しても投げかけているわけではないが、目の前にある作品は適当に見過ごせるようなつくりのものではなく、造作的な完成度を持っている。


左=渡辺英司《- View-》2009-2013、ミニカー、プラスチック、アクリルほか、80 x 30 x h.91.5cm
右=渡辺英司《子供の絵のトレース》2007、鉄、クレヨン、写真、58 x 20.5 x h.44cm/ 24.5 x 30cm、S=1/43
ともにphoto : Tetsuo Ito

 2階にあがると、だいぶ若い頃の1980年代後半の書きなぐったように細かく震える鉛筆の線が画面を埋め尽くす作品が並べられていた。ひたすら鉛筆の線が秩序を生むことなく、運動し続けるように見える。この終わりがない感覚が、1階と2階の展示をふと結びつけるような気がした。なにかを「再現」しようと見せながらも、見る者に核心を提示せずに意味の空虚だけが示されるというのも、それがそれで形式化されがちなものである。しかし、「再現」には、どこかで形をつくるための終わりがあるものだが、1階の展示もただひたすら自動車があれやこれやの方法でなぞられていくように感じられる。つくるという行為が、なにかの意味を運ぶのではなく、手仕事的なものでもなく、市場経済やイメージなどの社会を構成している要素と私たちの生活が不可分であることを引き受けながら持続されていくような、言ってみればわざわざ誰かが眼を向けなくても人が生きているということに近づいているような気さえする。そのとき、眼を向けるということは、前述したロジカルな言語化行為と同義であるのであろう。
 はたして、またこうやって自分は解釈の枠組みをつくっているのだろうかと自己嫌悪するしかない。ちなみに渡辺英司は、伏見駅から長者町方面に出ていくことができる古い地下街のなかで星画廊という小さなスペースを運営している。そこで作品制作をしている姿を目にすることもあるし、さまざまな作家の作品展示も企画している。自分の作品を展示することと他の作家の作品を見せることが等価のように、その運営もまた終わることのない行為として眺めらるような気がしてならない。


渡辺英司《無題》1988-1989
紙に鉛筆、65.3 x 50.2cm
photo : Tetsuo Ito

渡辺英司──Vehicles(乗り物)

会場:ケンジタキギャラリー名古屋
名古屋市中区栄3-20-25/Tel. 052-264-7747
会期:2013年3月30日(土)〜5月11日(土)

学芸員レポート

 アーツ前橋は7月4日からプレオープンの展示「からだが語る」がはじまる。市がこれまで集めてきた収蔵作品をテーマに応じて展示し、それと関係する若手作家の作品を一緒に展示する「コレクション+(プラス)」というシリーズは定期的に開催していく予定だ。今回の出品作家である、中村節也はかなり独特の色彩感覚とフォルムが眼を惹く作品を残しており、もっと注目されていい作家であるし、動物でも人間でもない実在しない生き物の形をつくる下山直紀と原初的な衝動を強く感じさせるパフォーマンスで活躍する村田峰紀もかなりユニークな作家である。

グランドオープンまでの3年間

 10月26日のグランドオープンを前に、開館準備に追われているのだがこれを機会に少しこれまでの準備を振り返ってご紹介できればと思う。
 私が関わりだしたのは基本計画策定の終盤で、それから建築デザインのプロポーザル公募が実施されることになった。この計画の魅力は、百貨店をリノベーションするため街なかに立地する点である。歴史的建造物でもない建物の利活用には、脱成長経済時代への転換と重なり大きな可能性を感じた。こうした計画になった経緯に私は関与していないが、トップダウンの仕組みではなく、あくまでも身の丈で計画が練られてきたところが特徴だろう。また、中規模の展示室面積で使いやすいサイズであることや、立地も都心に通勤する人もいるいっぽうで新鮮な食材や山、温泉を身近に楽しむ、その両方ができる距離感が、たとえばアーティストが居住するのにもよいのではないかとも感じた。審査で選ばれた建築家は当時41歳と若い水谷俊博氏である。ほんとんどの提案が柱の多い既存のプランに対して展示室ごとに壁は可変でかまわないとしたのに対して、水谷氏はさまざまなプロポーションの展示室を連続させて回遊型の展示室を提案し、商業施設が持つ難しい制約をクリアした。そして、図面とサンプル素材を前に、実際にどのように作家や学芸員が使うかを繰り返し詳細に議論しながら細部を調整する日々が続いた。無理難題も多かったはずだが、水谷氏のチームも施工現場の方たちも厳しい工程をやりくりして知恵を絞ってくれた成果によって、昨年11月に無事完成した。
 私は美術館の開設準備は2回目だが、共通する一番の課題は、これまでの日常生活に美術館がなかった人たちにそれが必要なのかを考えてもらうことである。そして、ゆえに学芸員としても学ぶことが多い。地域に芸術への純粋な欲求や渇望があったとしても、公立美術館であれば美術館の開設は政治的に決められることである。また、シャッター街の活性化や人口流出といった地域の課題解決を求められることもあるように社会の大きな変化も芸術文化の現場と切り離せるものではない。3年間の準備において最大の出来事は昨年2月の市長交替であった。そのために計画の見直しを議論する運営検討委員会が設置され、約半年間、建築工事以外の準備は先送りになった。もちろん、焦点となったのはどのような計画を納税者としての市民が求めるものなのかという点である。その結果、これまでの計画はけっして否定されるものではない、ただし広報発信力と市民参加の仕組みがもっと求められるという提言がまとめられた。
 これはじつにもっともな内容であり、どのような計画か十分に知らせることには成功していなかったし、文化施設が継続的に活動するうえで地域住民にとって透明性の高い運営をするのはこれからますます不可欠になっていくだろう。それを開館までの期間限定で担っていこうとする組織として、会社員、経営者、演劇人、記者、アーティストなどさまざまな市民からなる前橋文化推進会議が設置され、私たちの準備を側面からサポートしてくれている。また、開館後に上記の課題を解決するためにはどのような仕組みづくりが必要かを一緒に検討している。

もっと身近で生きるために必要なもの

 私は東日本大震災の揺れを、改修前の設計下見の最中にこの建物のなかで体験した。それは、多くのエネルギーを消費し、しかし多くの文化遺産を残していく機能について考えるうえで大きな影響があったと思う。私たちは右肩上がりの成長経済時代のようにあれもこれも手に入れるような必要はない。そもそも、とてもそのような事業予算はない。前橋市近隣には群馬県立近代美術館、高崎市美術館、高崎市タワー美術館、ハラミュージアムアーク、渋川市美術館などが車で30分圏内にあり美術館集積地域とも言える。そのうえで、ここではどのようなモデルを選択するべきなのかをこれまで議論してきた。そして、芸術表現を「巨匠」や「名作」と呼ぶ方法で特別な領域に置くのではなく、もっと身近で生きるために必要なものとして提示することを目標にしたいと考えている。自分とは異なる考えを受け入れることや、人とは異なる自分の感じ方を伝える能力が私たちには必要だからこそ、近代以降の社会は芸術を必要としてきたと考えてみたい。おそらく巨匠と言われるような作家も技術を洗練させていくうえで、そのことが制作の動機づけになっていると言えるケースもきっと多いだろう。具体的には、展覧会だけではなくワークショップやスクールのような鑑賞だけではない、参加や対話のためのプログラムを充実させること、新しい作品制作の機会を創出することと考えている。おそらく、その成果は名作の展覧会と比べると眼に見えるかたちとしてはわかりづらいものである。集客というわかりやすい成果とどうやってバランスをとっていけるかは大きな課題だろう。新しい作品制作は試行錯誤の連続のはずで、私たちは理解しえないものも含めてともに生きていく寛容さがあると示す必要があると思うし、近代芸術の呪縛から自由になりつつある日本の芸術文化は、新しい可能性を後押しするための十分な条件を現在持っているとも思う。
 これまで23回のプレイベントを企画してきたのも、基本的にはこのような考えに基づいた内容だった。今後は建物を使って実施していくことになるし、展覧会を中心にしたプログラムになっていく。それでも、「見る」だけの場にはしたくない。異なる考えや感じ方がどんどん交換されていくようになってほしい。そのため、活動のためのコンセプトは「創造的であること/みんなで共有すること/対話的であること」の三つにした。また、前橋は環境に恵まれた地域の特性として、自然や植物から多くの影響を受けている。そんなこともあって、アプローチになる道の両側の植栽を変えて、街なかには薬草を植えるメディカルハーブマンカフェプロジェクトを実施している。時間をかけて、人々が楽しみ、手をかけて、工夫を積み重ねて植物を育てていくことと、文化を育てることはきっと似ている。それから、明治期の震災孤児を受け入れるためにできた民間社会福祉組織である上毛愛隣社の母子生活支援施設とは、そこの子どもとミラノ在住の廣瀬智央が空の写真を交換し続け、その写真を屋上看板として掲示している。先日の内覧イベントには参加した子どもたち同士で看板を見に来てくれる姿があった。
 まもなく、アートスクールもはじまり、開館展準備も佳境を迎える。暑い夏になりそうだが、さまざまなバックグラウンドを持つ多彩な若い学芸スタッフと、地域の人脈と課題に通じた役所の職員と、いろいろな支援をしてくれる街の人たちと一緒に乗り切りたい。秋には心地よい温泉とおいしい野菜が待ってますので、ぜひみなさんのお越しをお待ちしています。定期的な情報提供はウェブサイトからメールニュースの登録をしていただくのがおすすめです。


廣瀬智央《空のプロジェクト:遠い空、近い空》2013年
Photo by KIGURE Shinya


アースケイプ《メディカルハーブマンカフェプロジェクト in 前橋》2013年

プレオープン展示「コレクション+ からだが語る」

会場:アーツ前橋
群馬県前橋市千代田町5-1-16/Tel. 027-230-1144 
会期:2013年7月4日(木)〜9月1日(日)