キュレーターズノート
あいちトリエンナーレ2013/反重力──浮遊|時空旅行|パラレル・ワールド
能勢陽子(豊田市美術館)
2013年09月01日号
対象美術館
あいちトリエンナーレ2013は、これまで開催された国内の国際展のなかでも、もっとも明白なテーマ性と特色を打ち出していたのではないだろうか。会場となる建築や街を背景に、その特色を活かしながら、3.11というテーマが、一様にではなく多様な文脈のなかでみせられていた。
今回は名古屋市外の岡崎会場が増え、大きく五つのエリアに分かれているが、来場者がまず足を運ぶのは、栄の愛知芸術文化センターだろう。展示の内容からしても、ここが今回のブレーンのように思える。まず1階に足を踏み入れると、床面と壁面にカラーテープで図面が描かれている。どの階に行ってもこの図面に出くわすことになるのだが、これは建築家・宮本佳明による福島第一原発の原子炉建屋を、原寸台で建物内にトレースしたものである。そこから10階に上がって8階に降りると、爆発した原子炉建屋の、あの青空に雲を描いたような壁面の一部が再現されている。それを横目に進むと、その異様な光景にぎょっとする。そこにあるのは、福島の原子炉建屋に和風屋根を冠して神社にした建築模型と、同じくいまいる愛知芸術文化センターが原子炉建屋を内蔵して巨大な神社になった姿である。これまでみてきたカラーテープの図面が、そこで身体感覚をともなって立体的に立ち上がる。それは悪ふざけの過ぎる冗談のような、神格化が目論まれているのではないかという疑念を生じさせるような、極めて収まりの悪いなにかである。それほど、日本固有の神を奉る神社の表象と、人類規模といっていい災厄をもたらした原発のイメージとの結合は、不穏で危険なものである。しかし宮本によればそれは、「事故を起こした原子炉を鎮める」ためのものだという。もはや人類では制御できなくなったあらぶる力に対する禁忌の標、そして畏怖や祈りの念を向ける対象としての原発神社。それは上階でみた、もはやどこの国のものかわからない教会に、最大級の明るさと希望を込めたヤノベケンジの《太陽の結婚式》と、相似対称をなしているようにもみえる。この原発神社のイメージは、容易に解決できない不穏さを生むからこそ、長く心のうちに留まり、それは一体なんなのかと自問させる。そして愛知芸術文化センターが巨大な原発神社と化して市街地に鎮座するイメージは、その不穏さをいったん自らの生活圏内で引き受けてみることである。その後に続く被災した気仙沼市にあるリアス・アーク美術館の学芸員による詳細な記録、そして原子力発電所の建設途上を淡々と撮影したミカ・ターニラの映像等をみると、華やかな国際展の雰囲気とは引き離され、自らを含めた人間が3.11後に置かれている状況を、ざわつきと祈りのような心地で受け止めることになる。
続いて向かった名古屋市美術館は、それとはまったく異なる作品、空間体験を与えるものであった。ここでは建築家の青木淳が、25年前に開館した黒川紀章設計によるこれまでの美術館の空間の使用法や導線を読み変えて、別の空間に変質させていた。来場者は、いつもの正面入口を右に迂回して、裏側から細長い家型の通路を通って中に入る。1階ではアルフレッド・ジャーがゆったりとした空間を取って展示され、イ・ブルの作品が吹き抜けに下がっている。そして2階に上がると、そこはまったく異質の純化された空間のようであった。2階のレベルを仮設の階段でさらに上ると、真っ白な箱の中にカラフルな色彩が広がっている。階段を下りると、色とりどりの透過性のある布が空間を区切り、また繋げるように何層も垂れ下がっている。このインスタレーションは、建築家・青木淳と画家・杉戸洋によるもので、震災により実現できなかった2011年の青森県立美術館での二人展のプランであったという。杉戸の絵画における、風景と重なる幾何学形体、カーテンの中に広がる宇宙のような不思議な距離感、また夢の記憶の一部のような空想力が、そのまま空間になったようである。そこは場を多層的に示しつつ繋げて、詩的な抒情性と遊びへと誘う建築家と画家の個性が相乗してできあがった、親密かつ豊かな広がりのある空間であった。美術館を出るときには、今度は2階から非常口と思しき細い階段通路を通って外に出る。その空間体験全体が、これまでの名古屋市美術館のものとは異質であったし、どこの美術館とも違っていた。いわば公の建前を取り払い、個々の空間体験に丁寧に寄り添ってできたような美術館。威厳のある正面エントランスは回避され、通路や導線は大勢では通れないほど細く、そのぶん内部に入ったときには繊細で細やか、かつ豊かな空間が広がっているように感じられる。このような場が、祝祭性の強い国際展の一会場として、それも美術館の一時的なリノベーションによって実現されていたことは、驚きだった。そして、当初「揺れる大地」というテーマを聞いたときに抱いたわずかな疑問──芸術は社会に起きたことの応答だけでないはず──という思いも払拭された。こうした繊細で豊かな空間は、どのようなときにも、人間にとって必要なのである。
そのほかのエリアでも、元ボーリング場であり、モデルルームの展示場であった納屋橋会場は、壁をぶち抜いてボーリングレーンが飛び出すリチャード・ウィルソンや、アスファルトの上に雲のような泡を大量発生させて人工的な風景を現出させる名和晃平など、施設を壊さんばかりの勢いを持った作品が圧巻であった(ほかに、アンジェリカ・メシティ、ニラ・ペレグ、カリスキ&オルローらの映像作品も秀逸であった)。また長者町は、地域の人々を巻き込み架空の映画製作所をつくったNadegata Instant Partyや、奈良美智や森北伸によるカフェ「THE WE-LOWS」など、町中展開を活かして地域の人々との交流や来場者の気軽な立ち寄り所となりうる場が創出されていた(原稿執筆時、名古屋市外の岡崎会場のみ未見)。あいちトリエンナーレ2013は、これまでも、そしてこれからもそこにある建築や街をフレームに、3.11からみえてきた問いを、現時点での応答に留まらない多様なかたちで構築していた。そこから発されているのは、いまそしてこれからも絶えず問われるはずの「われわれはどこに立っているのか」であろう。
あいちトリエンナーレ2013
学芸員レポート
現在、9月14日から始まる「反重力──浮遊|時空旅行|パラレル・ワールド」展の準備中で、連日慌しくしている。出品作家は16組(うち当館のコレクションから5名)、1920年代から80年代生まれの幅広い世代、文化的背景に属する作家たちが参加する。本展は、「あいちトリエンナーレ2013」の特別連携事業でもある。次回の学芸員レポートでは、この展覧会について詳しく報告する予定。