キュレーターズノート
中岡真珠美 展/NATURAL SMELL
中井康之(国立国際美術館)
2013年09月15日号
この夏、個人的に注目した新聞記事があった。それは、近年の日本における国際芸術祭に焦点をあてた記事で、リードをそのまま使わせてもらえば「住民と交流、新興モデルに 日本発、世界が関心」という内容である。
アジアで先駆的な現代美術展を開催してきたバングラディシュの首相補佐官が、自国のビエンナーレに比して、瀬戸内国際芸術祭は「アートは市民のもとに届いて始めて生きた芸術になる。瀬戸内はそのモデルを示した」という発言を中心に、越後妻有アートトリエンナーレや9月から開催予定の十和田湖奥入瀬芸術祭を地域社会の再生モデルとして取り上げていた(『日本経済新聞』朝刊2013年8月10日)。それは、西欧起源の文化や制度に対して異なる脈絡によって築かれてきた我が国の文化が、国際的にどのように対峙していけるのかという普遍的なテーマととらえてしまえばそれまでだが、私自身は、また違った観点からこの国独自の表現が生まれてきているように感じていたこともあり、複数の経路によって、非西欧的な文化モデルをこの国においてもようやく考える季節が訪れたのかもしれないなどと考えた。
そのような独自の文化、というものが声高に唱えられたのは、第二次世界大戦後、しばらくの時を経て、日本が高度成長期を迎えようとしていた1968年頃であった。国内外で同時期に起こっていた反体制的な激しい動きを背景に、西欧から移入されてきた美術の体系から完全に脱却したような表現が生まれてきたのである。のちに「もの派」と呼ばれるようになったその運動は、近年、欧米のアートマーケットを賑わすようになってきている。それは欧米起源のシステムに陵辱されていると感じる一面もあるのだが、それはさておき、もうひとつの局面から見れば、「もの派」が、この国の独自な現代美術であるということが漸く認められてきたということであろう。とは言え、ある意味釈然としないのは、その美術運動がこの国のなかから認められてきた訳ではないということではない。そうではなく、「もの派」では実現できなかったことが、積み残されていると感じたからである。
「もの派」の活動時期は短かった。そのラディカルなスタイルは新しい様式として多くの者に受け入れられるという段階を経ることはなく、一部の者に多大な影響力を残しながらも、その運動の中心を担った者たちも、表現様式としては従来の「絵画」や「彫刻」へ収斂していったととらえることができる。そのようになった要因は、なによりも彼らが表現しようとしていたのが、なんらかの媒体を通してあるものを表現するという、ある意味、人類が築き上げてきた表現の基本原理を否定してからである。それは画期的な手法であり、また、欧米においても非表現的な美術活動が生まれていた時期でもあり、同時代的な動きとして認められた訳であるが、あくまでも、その表現は一回性を要求し、それゆえに表現スタイルが展開するという状況は許されなかったのであろう。
時代は移り変わり、「もの派」はアートマーケットによって再浮上してきた。いま、日本の若い作家たちは、その動きとは無関係に存在しているだろう。若手作家にとって、当初登場してきた際のスタイルが、ある意味消費されたと感じ取られるようになったころが、厳しい時期となる。たとえば、中岡真珠美は、風景の一部分を切り取って抽象化し、さらに鮮やかな色彩に置き換えて、白く硬質でなめらかにした画面上に再構成していく作品によって登場してきた。そのようなスタイルを続けておよそ10数年が経ち、順調に評価されてきたという一面と、作家自身そのスタイルを維持するために努力を続けてきたが、大きな変革を考えなければならない時期がきていると考えていると思わせるような作品を露呈したときがあった。およそ2年前に、ひとつの光景を縦4列・横8列に並べた32枚の30センチ四方程度の紙片に分解し、それぞれの紙片の中で独自な抽象化と色彩を与えることによって全体を構成する手法である。それは、自らのスタイルを再構築するために順当な手法であり、過去に相似した表現があろうとも、一人の作家の通過地点として有効であると思われた。
さらにその手法は、去年、今年と描く対象を「広島原爆ドーム」に代えて繰り返される。中岡がその対象を取り上げたのは「その形がとても魅力的である」という趣旨の発言を自らがしていた。と同時に、「それでも、この対象を、何かの説明をする必要もなく取り上げることができるのは、この時代だからかもしれない」という意味の言葉も口にしていた。2011年3月11日以前も、もちろん中岡は「広島原爆ドーム」を知っていたであろう。ただ、そのようなイデオロギーを感じさせる対象を主題とするような行為を忌避する感覚をこの国に生活する者は持つ傾向があった。それは、世代の違いを超えて共有しているであろう。いま、ここで、その問題を詳述する余裕はないのだが、いわゆる「戦争画」の顛末から、「富山県立近代美術館事件」に代表されるようなある表現に対する抑圧など、イデオロギーを感じさせるテーマを表現しにくい土壌がこの国にはある。それが3・11による福島原発事故を契機に、そのことを扱わなければならないという言い方は極端かもしれないが、制作する者も見る立場の者も、それを表現することを遠ざけるようなことがなくなったようだ。
正直な話、そのような事を強く感じたのは、「あいちトリエンナーレ」において、多くの作家がその問題を扱っていたからなのだが、「揺れる大地」というテーマのもと、それは当初から公認されていたことであり、別段、驚くようなことでもなかった。ただ、その会場で、1カ月ほど前に見た、中岡の「原爆ドーム」の作品を思い出したのである。それは、言うまでもなく、他者からそのテーマを扱うことをうながされて描いたわけではないだろう。
中岡真珠美 展
それでは、いま、芸術系の大学に在籍し、自らの表現スタイルを確立しようともがいている層はなにを考え、なにを表現しようと考えているのだろうか。思わず、そのような設問が頭に浮かんだ。やはり、少し遡るかたちで、「あいちトリエンナーレ」展開催のおよそ10日程前に見た、京都市立芸術大学の構内で油画の院生有志が開催していた展覧会「NATURAL SMELL」を思い返したのである。13人の発表した者それぞれが、はっきりとした問題意識を持ち、それを中心に自らの創作活動を行なっていることが読み取れる発表だった。
たとえば、森下明音は、立体物を用いているのだが、あるものが既知のものと概念規定される間際の、不分明な意識を形象化することを思考している、ようだ。また、そのようなメディウムが意味ある物に意識のなかで変換される様を絵画としてとらえているのかもしれない。高木智子の絵画も森下と同様に、絵具のメディウムがある事物として形象化する変容をとらえるということを考えているようだ。それは自我が形成されるころの記憶に基づくものである、そこから家族写真というモチーフを扱うようになったのだろう。九鬼みずほは、立体と平面の位置づけをとらえ直すような作品を思考している。その試みはフランク・ステラの言葉から示唆されたものだと言う。渡辺千明は、この展覧会のなかではメディアよりテーマに対してより意識的な作品を試みていた。それは「記号の古墳」といった作品タイトルからも類推できるように、アニミズム的な意識を喚起させることを考えているようだった。岸本光大は、絵画の物質性という点に着目し、さまざまなマテリアルを矩形に切り取り併置した、きわめてシンプルな構成の作品を発表していたが、意表を突くような効果を生み出していた。
彼らが、表現すべきテーマを見出すべきだとここで提案しようというのではない。それぞれが絵画というメディアに真摯に向き合うことが可能となっている状況を認めることのほうが重要であろう。そのような探求心が、あるきっかけを掴むことによって、表現すべきテーマを希求することにもなるだろう。日常的にそのような環境が整いつつあるように感じている。
NATURAL SMELL(京都市立芸術大学修士課程油画専攻 有志展)
学芸員レポート
前々回に記したように、今年度、ギャラリーαMで「楽園創造(パラダイス)──芸術と日常の新地平」という連続展を企画運営している。先日、その4回目となる「contact Gonzo」が始まり、恒例のオープニング対談に続いて(というか終わる間際から)、彼らのパフォーミングが行なわれた。事前通知がほぼ無かったので、対談を聞くために集まった者たちが、小さな空間で彼らの濃密なコンタクト・インプルヴィゼーションを体験することとなった。その様子はYouTubeでも確認することはできるが、やはり彼らのパフォーマンスは体験しなければ実感するところは少ないだろう。
また、現在、奈良・町家の芸術祭 HANARART 2013 (はならぁと)という地域振興プロジェクトにも関わっている。次回、レポートできればと考えている。