キュレーターズノート
種差──よみがえれ 浜の記憶
工藤健志(青森県立美術館)
2013年10月01日号
対象美術館
青森県立美術館の今年の夏の企画展は、「種差──よみがえれ 浜の記憶」。単館開催の自主企画展でありながら約17,000人の観覧者を記録し、「興業」としても大成功といえるであろう。キュレーションは当館で写真や西洋美術を担当している高橋しげみ学芸員。これまで開館記念展の「シャガール──《アレコ》とアメリカ亡命時代」(2006)や「小島一郎──北を撮る」(2009)等の企画展をはじめ、沢田教一の常設展示や常設展内小企画で「六ヶ所村開拓写真×小島一郎」(2008)などを手がけてきた学芸員である。
開館記念のシャガール展は、マスコミや企画会社を一切通さず、海外の美術館や関係者と直接交渉して展覧会を作り上げた、国内で開催される海外展としては希有の事例であった。もちろん単館開催であり、観覧者数も18万人を越えて大きな話題となるなど、青森県立美術館開館の印象づけに大きく貢献した展覧会である。
高橋は西洋美術担当と並行して写真についての調査・研究を続け、その成果を前述の展覧会で次々に披露、なかでも「小島一郎展」はカタログである『小島一郎写真集成』(インスクリプト、2009)および小島一郎研究によって2009年の「第21回写真の会賞[写真の会賞展]」を受賞している。地方の埋もれていた作家を発掘、広く普及するとともに、小島自身の身体感覚を独特の焼きこみによる造形で力強く表現したその写真をとおして、青森の風土とこの地が歴史的に背負わされてきたさまざまな問題を考察しようとする展覧会であった。「六ヶ所村開拓写真」についても同様で、庄内酪農農業協同組合(現:らくのう青森農業協同組合)が保管する、アマチュアカメラマン川村勇が撮影した六ヶ所村の開拓時代の写真は、荒涼たる厳寒の大地を鍬一本で切り開く開拓村民のたくましい暮らしぶりが内側からのまなざしで切り取られており、写真における「場所の力」について考えさせられるものであった。
やや余談になるが、高橋は当館の学芸員6名のなかで唯一の青森出身者であり(あまり表には出さないし、本人は意固地になって否定するだろうけど)、青森に対する思い入れは人一倍強く、実際彼女の近年の企画はつねに「青森」とともにある。しかし、それを声高に主張したりはしない。展覧会の「底流」として浮かんでは消え、消えては浮かび上がるような配慮がなされ、観覧者は明確に言語化されないまでも、無意識のうちに、そのことを了することになる。
こうした高橋の問題意識のひとつの総括として、今回の「種差」展はあるように思う。「種差海岸」という青森県八戸市東部の太平洋岸に位置する12キロの海岸線。奇岩怪石と美しい砂浜が続く景勝地であり、今年の5月24日には種差から宮城県の松島に至る南北220キロに及ぶ海岸線が「三陸復興国立公園」に指定されたが、それでも全国的には知名度の低いローカルな地域であることに変わりはない。しかし、この地が歴史的に興味深いさまざまな物語を有していることも確かである。
この地から発掘された縄文時代早期の遺物からは、約8,000年も前から人々が連綿と海との暮らしを営んでいたことが理解できるし、国立公園法が施行された1931年に前後して当時の八戸市長を中心に種差の国立公園指定に向けての推進運動が行なわれ、当時人気のあった鳥瞰図絵師の吉田初三郎がこの地に招かれたりもしている(結果は十和田湖のみが指定されることになったが、こちらの指定には鳥谷幡山という日本画家が深く関与していたことも興味深い)。また、海岸沿いに建てられた葦毛崎展望台はもともと太平洋戦争中の海軍のレーダー基地であったり、戦後直後には東山魁夷の代表作である《道》(1950)の取材地となるなど、人間と自然の関係性や、生活、文化、政治のさまざまなトピックに富む地域である。種差のこうした古来からの歴史を「人生の節目に作られる記念のアルバムのような、種差海岸の記憶を綴った一冊のアルバムを作ってみたい」(高橋のカタログテキストより)というコンセプトで編まれたのが本展である。
展覧会は大きく五つのセクションに分かれている。「浜の古層 海からのめぐみと脅威」と題された最初のセクションでは、縄文期の遺物から沿岸防備の絵地図、仏像といったこの地に残る文化財をとおして、海(高橋はより古来より親しまれてきた「浜」という言葉を使う)と人間の関係性を探っていく。それぞれの資料はそれぞれの事実のみしか語らないが、例えば縄文遺物の「石錘」は漁網の錘として使われたと考えられるし、貝塚から出土しているアワビ等の貝類やカツオの背骨、サメの脊椎、ウニのトゲなどからは縄文人の食が理解できる。さらに明治時代に海運祈願のために奉納された船絵馬、そして船絵馬にも描かれている北三陸で漁に使用された木造船「カッコ」の現存資料、廃仏毀釈により現在は近隣の浮木寺に安置されているものの、かつては蕪島神社において豊漁、海上安全を祈願された弁財天、常現寺に「航海安全と海漁満足」を祈願して奉納された魚籃観世音菩薩立像など、歴史やジャンルを自在に横断しながら人間と海の暮らしを多角的に映し出すことで、この地に秘められたさまざまな海の記憶をわれわれに喚起させていくのだ。海との共存がけっして人間にとって容易でなかったこともそれら資料は伝えてくれよう。一方、種差の海岸線が江戸末期から第二次世界大戦まで外敵を食い止める最前線としての役割を持たされてきた資料もあわせて展示することで、現在の風光明媚な観光地が持つ、いわば「負」の歴史も明らかにしていく。このセクションは導入部でありながら、縄文から近代に至る種差をめぐる自然、人間、政治の問題が的確に総括されており、歴史のなかに埋もれてしまった「記憶の古層」が丁寧に発掘されている。もちろん、こうした手法は「種差」という一地方を越えて、そこに含まれる問題は東北、日本、そして世界の各地で共有できうるものであろう。ゆえにローカルなテーマの展覧会でありながら、本展はどの地域の人が見ても納得できる、ある種の普遍性を有している。
そんな種差の歴史に想いを馳せつつ順路を巡っていくと、リチャード・ロングのインスタレーションが、続く10メートルの天井高を持つ展示室Cの大空間いっぱいに広がる。題して「リチャード・ロング、種差を歩く」。本展のためにロングはまず今年3月28日から4月3日までの7日間、単身で種差海岸を歩行している。ロングは2011年3月11日にこの地を襲った津波という自然現象と人間の営みについて思考したのであろう、10メートルの壁面にはマッド・ペインティングによってまるで津波の水しぶきのようなイメージが立ち現われ、両脇の壁面には《青い海から》と題された「地球は回り/月は欠け/潮は引き/大陸は漂い/海底は滑り/津波/海底は鎮み/大陸は漂い/潮は差し/月は満ち/地球は回り」というテキスト作品が配置された。このインスタレーションからは、巨大津波もまた大自然の循環のなかに組み込まれたひとつの現象であること、人間はその前に無力であるが、だからこそそこに人間の「生」の意味が生じること、避けられない自然の摂理であるがゆえに「破壊/死」から「再生/創造」へのつながりが意味を持ち得ることなどが強く感じられた。一段天井の低い空間に控えめに展示された写真作品《津波海岸線歩行》には、種差の砂浜にロング自身が足で痕跡を付けた螺旋が写し出されている。その作品は、自然と同様に人間もまた、おおいなる円環構造のなか「個」としてではなく、「種」として記憶や身体を継承していく存在なのだということを物語っているように思えた。
そんなロングのインスタレーションを抜けると、小さなまばゆい空間のなかに笹岡啓子の写真が並ぶ。2012年の秋から2013年の春にかけて撮影された種差海岸の景観群である。そこに写し出された種差は「風光明媚な観光地」ではなく、驚異や畏怖の念を呼び覚ます自然の本質、すなわち人間の存在を脅かし、人間に対して牙をむくような一瞬をとらえた、厳しい自然の造形美を見せている。笹岡の写真から受ける威圧感は、地勢のもっとも先鋭的な光景の定着に由来するものとも思えるが、それは「観光地」にまとわりつく安穏とした印象をくつがえし、本来自然とは人間の接触を拒み、容易に与するものができない対象であることに気づかされる。総じて「観光地」の景観が、地震や大噴火、地殻変動といった、いまでいうところの「災害」によってつくられたものであることを思い知らされよう。
本来の構成上はロングとは笹岡のあいだに、大正〜昭和期に活躍した鳥瞰図絵師の吉田初三郎と日本画家の東山魁夷のセクションが入るのだが、展示としては上記のような順路をめぐることとなり、ロングのインスタレーションが全展示室の中心に位置することで(ここは動線上、何度も通ることになる)、過去、現在と未来を自在に往復する運動系が成立する。当館の展示室の複雑な配置の特徴を活かした、おそらく高橋の意図的な仕掛けであろう。
残る二つの展示室では吉田初三郎と東山魁夷が特集される。京都と種差にアトリエを構えて活動した初三郎が描く独自の視点と構図による鳥瞰図の数々を紹介するとともに、鳥瞰図に込められた初三郎の思想を探る。そして東山魁夷がなぜ種差の《道》を描いたのか。そうした美術史的な問題を検証するとともに、2人の芸術家が活動した時代の背景、すなわち近代化の歩みと、やがて戦時体制に突入し、結果「敗戦」という傷を負いつつ戦後の歩みがはじまる日本の社会性を描き出していく。
まずは初三郎。鳥瞰図、すなわち空から見下ろす視点で描かれた絵画は日本でも平安末期の縁起図や参詣図、近世の洛中洛外図や各種名所案内図など、多くが存在する。名所案内図が江戸期の旅行ブームを受けて大量に生産されたように、明治に入ると鉄道や道路の整備にともなって大衆の旅行熱が増し、鳥瞰構図を採る観光案内図が多数出版されるが、なかでも人気を集めたのが大正〜昭和期に活躍した吉田初三郎であった。平行透視図法を用いる一般的な俯瞰構図ではなく、モチーフの中心に沿って大きくデフォルメされた構図をとることが初三郎作品の大きな特徴であるが、これは江戸後期の鍬形蕙斎らが手がけた俯瞰図からの影響も指摘できよう。制作の前には自ら現地を歩いて入念な事前調査、写生を繰り返しており、その土地の見どころや観光のポイントが一目でわかるように配慮されているが、近隣の名所も同時に織り込まれた多視点的な描写である点は興味深い。近代的な科学的な目と、浮世絵の伝統を受け継ぐ絵画としての魅力とを併せ持つ点には初三郎の個性のみならず、未来派が指摘したような「飛行の視座がもたらす多中心性」という、大正〜昭和初期の時代精神が反映されているように思う。さらに、大正〜昭和初期にかけて初三郎の制作動機に「彩管報国」があったことも高橋によって指摘されているが、青森を描きながらも東京や富士山から遠く朝鮮半島まで包含された昭和初期の作例を見ると、確かにその鳥瞰の構図からは「絶対者」の視線が読み取れる。しかし、戦時下の鳥瞰図制作の規制、そして敗戦という挫折を経て、初三郎の心境には大きな変化が生じたと高橋は言う。それを受け、戦後に描かれた鳥瞰図がどのように変化したのか。次の機会にはぜひその点を深く掘り下げてもらいたい。
そして展示の最後を締めるのは東山魁夷と《道》。時代は戦中〜戦後に移る。ここでも画家の戦争体験と種差との関係や、《道》が完成するまでの詳細な経緯が各種作品、資料をとおして明らかにされている。高い象徴性を持った作品でありながらも、種差の道でなければならなかった理由や、その制作の過程を追うことで画家の意識のありようも探られていく。「敗戦」という時代の大転換に多くの芸術家たちは苦悩したが、展示を見る限り、東山魁夷においては、種差という土地と対峙し、実風景を心象風景へと昇華させることで、価値体系や社会構造が劇的に変化していく混乱した時代のなか、画家として生きる「道」を見出したように思えてならなかった。
このように、近代美術から現代美術、そして遺物や民俗資料までをないまぜにし、ジャンルを自在に横断しながら、しなやかな発想と大胆な構成で編まれた本展覧会。「種差」というモチーフをとおして、土地が持つ歴史とその意味、自然と人間の暮らしのあるべき姿、地域と芸術家の関わり方などを考察しつつも、「われわれはこれからどう生きるべきか」という未来を志向する根底の視座に揺らぎがないため、ジャンルの違いによる各セクションの唐突さは一切感じられなかった。そして「未来を志向する」という意味においては、直接的な言及こそないものの、震災以降の「曖昧な状況」がこの展覧会を立案する大きなきっかけとなっていることに疑いはないだろう。震災以降も変ることのない(と信じさせられている)日常を乗り越え、現状を深く認識し、未来の展望を切り開くための思考法がこの展覧会には確かに示されていた。
以上はたんなる身内贔屓ではない。こうした取り組みこそが地方館のはたすべき本来の役割だと思うから。正直に言えば、僕は高橋しげみという学芸員を同僚に持つことに複雑な感情を抱いている。そう、悔しいのだ(笑)。しかし、今回ばかりはその悔しさがむしろ心地良く感じられた、と正直に書いておく。