キュレーターズノート

冬のみず、山あるき──東島毅+本田健 展

伊藤匡(福島県立美術館)

2013年12月01日号

 いま、平面作品を意欲的に制作している同世代の画家の二人展。本田健は、モノクローム大画面に山村のくらしや里山の風景を描いている。東島毅は、巨大な色面の作品を描くことで知られている。同世代でともに大画面という共通項はあるものの、その他の点では対照的とも思える二人の作品が、ひとつの展示室内でどのように見えるのかにも興味が湧く。


岩手県立美術館

 展示点数は東島が18点、本田は22点。ともに旧作を含む出品だが、今年制作した作品が本田が1点、東島は9点も展示されている。基本的には入口側半分に東島の作品、出口側半分が本田の作品という構成である。会場は天井が高く、東島の巨大な作品もうまく収まっている。東島の作品は、展示室のほかエントランスに続くロビーや屋外の中庭にも置かれている。展示場所は作家自身が決めたものだという。展覧会のサブタイトルになった《冬のみず》は、中庭の石の床に平置きされ、キャンバスの上には雨滴が水たまりとなっていた。盛岡はさほど雪が多くないとはいえ、それでも年明けには雪に埋もれてしまうだろう。この作品が見られるのは、雪が降るまでかもしれない。作品の設置場所は各所に別れているが、東島の個展で見られるインスタレーションは、展示室内では見られなかった。このあたりは、二人展ということで多少の遠慮があるのだろうか。
 一方、本田の展示はオーソドックスで、作品を見せることに徹している。岩手県遠野市在住の本田は、自宅周辺の里山を歩いて見つけた光景を写真に撮り、それをもとに鉛筆で丹念に描き込むという、非常に手間のかかる手法で制作している。《山あるき》の連作は、杉林を照らす木漏れ日や岩にあたる細流の水泡の秀逸な表現が魅力である。視覚的情景だけではなく、温湿度の変化や空気感などの目に見えないものも伝わってくる。


展示室内。本田健作品


展示室入口。台車に乗った東島毅《近音》


中庭に置かれた東島毅《冬のみず》

 美術館では、経費や手間、集客見込み等の現実的な条件から、二人展を選択することが往々にしてある。しかし現役作家の二人展は、一見楽なようだがじつは難しい。作家同士が「じゃあ、今度一緒に展覧会をしましょうか」とでもいって自分たちで二人展を開くのであれば、単に会場をシェアする程度で済むかもしれない。だが、美術館学芸員のような第三者が仕掛けるとなると、「なぜこの二人なのか」という疑問が、作家にも鑑賞者にも生まれる。展示の現場でも、一方が目立ちもう一方が沈んでしまうなど、バランスをとることが難しい。お互いの影響力を避けるために別々の部屋に展示して「二つの個展の同時開催」にすると、わざわざ二人展に仕立てた理由が希薄になる。またバランスがとれているだけでは、無難にまとまったというレベルである。二人を組み合わせることで発見がある、あるいはなにかが生まれるという二人展は、なかなか見られない。
 展覧会を担当した大野正勝学芸普及課長は、これまで接点のなかった二人の作家を選んだ理由を「直感」の一言に込めた。その意味は「学芸員としての経験で培った独自の視点で二人を選びました。結果は、展覧会を見て判断してください」ということだろう。妙に説明が多かったり、無難な組み合わせが多い昨今、この姿勢は学芸員の原点に立ち返っていて潔い。
 この二人の作家は異質という印象は変わらなかった。タイプが異なるということは作家自身も感じていたようで、初日に行なわれたトークショーで東島が「僕は絵を描くために酒を飲むけど、本田さんは絵を描くためにジョギングをするタイプ」というジョークを飛ばしていた。トークショーの最中に震度3程度の地震があったのだが、「とても怖かった」と告白した東島に対して、本田を始め聴衆のほぼ全員は東日本大震災を経験しているためまったく動ずることなく、話し声も辺りを見回す人もいなかった。トークショーの内容も、司会者が二人の共通項を引き出そうとするのに対して、作家たちは話せば話すほど姿勢の違いが浮き彫りになった。しかし、異質な二人が出会う場をつくること自体に意義があり、岩手での二人展が彼らのこれからの制作活動になんらかの影響を及ぼす可能性もある。そのようにとらえると、この二人展がどのような成果をもたらすか、長い目で見なければならないだろう。


作家と担当学芸員によるトークショー

冬のみず、山あるき──東島毅+本田健 展

会場:岩手県立美術館
盛岡市本宮字松幅12-3/Tel. 019-658-1711
会期:2013年11月16日(土)〜2014年2月16日(日)

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