キュレーターズノート
シンポジウム「アジアの美術館の未来」、「Art Meets 01 津上みゆき/狩野哲郎」、「白川昌生 ダダ、ダダ、ダ──地域に生きる想像☆の力」
住友文彦(アーツ前橋)
2014年04月01日号
対象美術館
今回は展覧会ではなく、私がパネリストとして参加したシンポジウム「アジアの美術館の未来」で話し、当日のやり取りを経て考えたことを書かせていただく。これは学習院女子大学が美術評論家、美術館関係者、経営者などを国内外から招聘して約半年間かけて行なわれた「アートマネジメント国際セミナー」のひとつである。実際にどのような話がされたかは自分が参加した回しか知らないのだが、こうした国際的な議論の場が日本では他のアジアの国と比べても少ないと感じていたので、企画者の清水敏男氏の尽力によって貴重な事業になったのではないだろうか。一方で、どうしても海外からの参加者が多いシンポジウムにありがちなように、事前に議論の方向性や論点が整理されず、それぞれの話がうまく重なり合って互いの意見交換が行なわれたとは言い難く、各パネリストの話を反映した全体的な報告ではなく、あくまで私自身が考えたことを記すにとどめる。
このテーマを聞いて、まず新しい美術館を準備するうえで考えたことを振り返ることが必要と思い、「アーツ前橋」の実践例をスライドなどを使って説明した。開館準備をしながら比較のために想定したのは多くの場合は日本国内の美術館のあり方で、時折ヨーロッパやアメリカの美術館の動向を意識することはあっても、「アジアの美術館」という視点は薄かったので、私にとっては新鮮な発見があった。とりわけ、重要と思われた3点を挙げたい。
ひとつめは中産階級層との関係である。戦後の高度経済成長によって一気に増加した日本の中産階級層は、やがて文化的な豊かさを求める傾向が強まり、一般的に美術館の来館者の多くを占める。美術館が多く設立された時期も高度経済成長期の後半であり、その欲求を満たす目的があったと考えられるし、その後も展覧会や教育普及などの事業や、ボランティアなどの「市民参加」において意識されているのは、もっぱら中産階級層である。それは、美術館が公的資金をおもな財源としているという理由も大きい。アメリカの場合は特にそうであるし、ヨーロッパの美術館などでも、もっと美術館は富裕層のほうを向いていると言っていいのではないだろうか。もちろん、日本の美術館よりもむしろ多様な来場者へのアプローチが重視されているとはいえ、多額の寄付や支援をすることで富裕層が運営にも関与するなど重要なステークホルダーになっていることが欧米では一般的だろう。しかし、そのことによって昨今顕著になっているように市場と美術が密接になりすぎる事態を招いているとも言える。日本にももちろん富裕層は居るが、どちらかというと伝統的な技芸への関心が強く、美術館という歴史的に新しい制度に関与する人の割合は少ないように思える。その結果、行政が設置した美術館は人口として多い中産階級層向けの事業として、文化的な教養が浅くても接することができる平易さを求める傾向が強くなり、文化の深化を優先して求めるのではなく経済効率や透明性などが性急に要求され、予算削減や民間企業との競争に晒されるなど「冬の時代」を余儀なくされたのだと考えられる。だからと言って、欧米並みに富裕層を取り込むのがいいのかどうかはわからない。そもそも、経営の効率性や透明性に応えられなかったのは美術館側の問題として解決されないといけないし、社会の成り立ちが異なるからこそ、私たちは異なる文化を生み出しているわけなので、日本社会のなかにおける美術館の役割をあらためて考えることが大切だと思う。そうした観点から他のアジアの国との比較は大いに意味を持つのではないだろうか。そもそもは、これに先立つ一昨年、台湾のアジア現代美術館で行なわれたシンポジウムに参加したときに、この論点に関心を持ったことがあった。そのときはフィリピンと台湾のパネリストも参加していたため、アメリカの政治や経済、そして文化の影響を受け中産階級が興隆したという共通点も含めて比較できそうな気がした。そのときも同席していたタイのジム・トンプソン・アートセンターの芸術監督クリッティヤー・カーウィーウォンは、今回はバンコクで起きている政治対立において文化センターがデモ参加者によって占拠されている状況を紹介しながら、美術館は本当に考えや文化の異なる者同士が出会い、議論する場になりえるのかという問いかけをした。ハイカルチャーを守るよりも、自分たちの政治的な欲求をアピールすることが大事な場合に、多くの人が集まりやすい広いスペースを持つ美術館はそうした「広場」として機能しえるとも言える。しかし、実際に欧米では、以前にこの連載でも書いたようにベルリン・ビエンナーレにおけるKWの「占拠」のように制度の内側で起きるしかないだろう。そのような都市空間における役割分担が市民のあいだですでに了解されているからだ。ということは、アジアの「未成熟な」制度整備においては、美術と数々の社会問題のあいだに越境や逸脱が起こりうるのかもしれないが、私たちはそれを積極的に捉える思考を持ちえているだろうか。
さて、だいぶひとつ目に紙幅を割いてしまったが、第二の点に移ると前衛芸術運動の継承という視点が挙げられる。アジアの美術館は近代化の過程で各国が輸入した制度であるために、植民地化や軍事国家の成立、あるいは経済成長や民主主義政権の樹立などが美術表現に影響を与えてきた。前衛芸術運動はそうした体制への異議申し立てであり、それがどのように引き継がれているかという点がアジアの美術館を考えるうえで重要になるのではないだろうか。この点を比較するのに有効だったのは、やはり今回一緒に壇上に座ったキム・ソンジョンと以前に韓国で共同企画した展覧会の準備のために、日本の前衛芸術と韓国の前衛芸術を比較した経験だったと思う。民主化運動が1980年代に激しかった韓国と、1950年代から1960年代にルポルタージュ絵画や「反芸術」に大きな関心が寄せられた日本では、その後に美術館が整備されていくことも含めて、美術が社会とどのような関係を持つのかについての了解が異なるのではないだろうか。日本では、美術館が「冬の時代」を迎えているあいだに地域社会と密接にかかわる芸術祭が盛んになり、「異議申し立て」は時代的な断絶があって継承されないままに、芸術と社会との関わりが重視される傾向が、とりわけ東日本大震災以降ますます強くなっている。ここには過去と現代の美術がどのように連続、あるいは断絶しているかを考え、提示していくかという点で美術館に課せられている役割があるように思える。
最後の第三点は、あえて積極的な評価をするべきものとして、中規模の美術館が多いことを挙げたい。中国、韓国、台湾、香港、シンガポールと、アジアでも欧米にも負けない規模の大型美術館が増えている。それらは大きな展覧会を実施し、数多くの収蔵作品を持つことで歴史を展望する視点をつくりあげ、その求心力を発揮するための文化的な競争に勝つという役割を担っている。とりあえず、そこに日本は参加していないと言っていいだろう。国立の美術館でもそのような役割は、アジアの美術への影響という点では果たしていない。こうした競争に先駆けて1999年に開館した福岡アジア美術館は一定の評価や関心をいまでもアジアの美術関係者が持っているだろうが、いまは十分な支援体制がとられていない。十年後にアジアにおける重要なプレーヤーに日本の美術館が数えられているとは考えにくいのが現在の実情だろう。しかし、これだけ多くの美術館が丁寧に調査や作品収集をしてきた積み重ねは簡単に失われるわけではない。中規模の美術館が分散して作品を持つほうが、作品の調査や管理が行き届きやすいとも言えるし、広い地域を俯瞰するのは難しくても、それぞれの地域の文化と深くかかわることは可能である。作品の取り扱いや展覧会の実施においては、経験の積み重ねが必要であり、現実的な面で大きなアドバンテージがある。そして、なによりも大きな物語をつくりあげるのではなく、地域ごとの多様性を歴史的に確認していくうえでは有利な状況にあるとも言えないだろうか。そもそも、アジアはヨーロッパのように地続きの大陸だけでなく、海に隔てられた群島的な地域である。特定の美術の様式や価値が入れ替わり現われて歴史を形成していくのではなく、同時にさまざまな表現が生まれている事実を、集約的な視点によって狭めてしまわないほうが豊かな歴史を未来に伝えられるはずである。
すでに上記の合間に書き連ねてきたように、このシンポジウムで話し、考えたことは、文献や理論から得たものよりも、アジアの美術関係者との意見交換や作品と触れることで得たものが大きい。現場でまだ明確に言語化されていないような出来事に触れ、それについてなんとか言葉を与えながらお互いの考えや経験を交換することから得るものは大きいと実感するような機会でもあった。
シンポジウム「アジアの美術館の未来」(アートマネジメント国際セミナー:新しい時代のアートマネジメントを考える)
学芸員レポート
アーツ前橋では、「Art Meets 01」と称して津上みゆきと狩野哲郎の二人展がはじまっている。これは春に、実績や評価をある程度得て活躍している作家で、いまこの人の作品を見たい、見せたいと思う人を選び、真ん中に吹き抜けがある特徴的な展示空間に合った展示構成をする展覧会である。二人は、絵画と立体という異なる表現手段で活動しているが、風景やランドスケープを題材とした「眺め」という点で共通するテーマを設け、色彩豊かな展示空間ができあがった。
狩野哲郎は、そこにはいない「鳥」のためのランドスケープを食器などの既製品を組み合わせることでつくっているのだが、もともと展示空間にあるガラス面や窓への反射を効果的に使うことで、ここでしか成立しない空間を生み出している。陶器やプラスティックのつやっとした質感と木の枝が組み合わさることで、人工的な物と有機的な物が連続する感覚が、人間とそれ以外の生物とがどのように共存しうるのかについて想像をかきたてる。いっぽう、津上みゆきは色彩が重層的に重ねられる、視覚的にも魅力的な画面の作品を、連作シリーズからは会期に合わせて3月、4月、5月の風景として描かれた作品と、同じ場所で何度も描かれたスケッチを元に制作された大作を展示している。非常に興味深かったのは、同時に展示されたスケッチブックの存在である。津上がある時間にある場所で描いた何枚ものスケッチが、抽象画と言って差し障りないように見える絵画作品に移行するまでに、どのような想像力の跳躍があるのか、それにわずかでも触れられるようなそんな貴重な体験ができるのではないだろうか。実際にスケッチに描かれた風景の線を見ると、絵画として完成した作品のなかにその記憶が浮かび上がるような体験ができる。私たちは同じ風景を見ていてもそれぞれが異なる表現を生み出す──そのことに非常に基本的で大切な美術の豊かさと面白さがあると思うのだが、そのことをあらためて再確認させられるような思いがした。そして、そのことは誰もが自分なりの方法で描くことの自由さに開かれているような気がしてならない。
この感覚は、あまり確信を持って言えるわけではないが、同時開催している「白川昌生──ダダ、ダダ、ダ」展との共鳴効果だろうか。ごくありふれた物や資材をどのように配置していくか、どのように組み合わせるのか、それだけで「表現」が成り立つことを通して、白川は見る者それぞれに表現者たれ、とけしかけているように見える。同時に、とりたててメディアに大きく登場するわけではない無名の個人ひとりひとりがどのような考えや夢を持っているのか、その無数の生を見つめるような視線をあちこちにちりばめている。
この展覧会図録に毛利嘉孝が的確に記しているように、「D.I.Y.」的な精神によって、美術史を学ばずに日本の20世紀美術に関する先駆的な展覧会、「日本のダダ──1920−1970」展を1983年にデュッセルドルフ市美術館で開催するなど、白川は自分自身の立ち位置を周縁的なものとし、専門性や正当性を頼らずに発言や思考を繰り返してきたと言える。それは言ってみれば、専門誌や正当性に縛られた芸術を多くの者のほうへと解放しようとしている自由さに溢れたものであるし、制度への批評的な眼差しに貫かれたものである。
ちなみに、今回の図録には「日本のダダ」展に先駆け1979年に自主出版された『日本現代美術序説──その端緒的覚え書』(ギャラリー・メールド)を全文収録している。また、さらに1973年から開始された「コンセプト・ノート」も展示している。これは、作品制作の資金がない時代に、創造のためのアイディアや素材を描き留めたものである。作品制作のためのスケッチ、詩のような言葉、挿絵の切り抜き、思想/自然科学/数学などに関するメモなどが膨大な数残されている。そのほか、1981年にはじめて制作された《イエロー・プラン》の再制作など、多彩な作風ゆえに捉えがたかった40年間にわたる実践の一端に触れることができる展覧会になっているのではないだろうか。最後の空間では、新作2点を含む年代も違う彫刻作品が、十分に距離を置いて見ることができないくらいぎっしりと並んでいる。軽さに溢れ、円形が数多く使われるそれらの作品を眺めていると、白川の魅力的なドローイングに現われる線の運動を追ってしまうような感覚をおぼえる。じつに丁寧に独特の方法で物を配置していくが、それらが同時に動きを与えられているかのように見えるのだ。
また、この個展では白川以外の作品も数多く見られる。インスピレーションの源になっている雑誌『MAVO』に掲載された戸田達雄の《人間動物園》や、イヴ・クラインの《空虚の部屋》(映像記録)、そして「日本のダダ」展で展示されたパネル写真。それから、白川のことをよく理解し関心を持っていて、かつその仕事を次の世代に引き継いでいる30代の異なるメディアを用いる作家として、冨井大裕、中崎透、藤井光の三人も参加している。
白川はポスト前衛の世代として、自分の歴史観を鍛え上げている作家でもある。それゆえに上記において「アジアの美術館の未来」を考えるときに述べたように、考えや価値観の多様性をもとにした「異議申し立て」をどのようにして引き継ぐのか考えるうえで重要な役割を担っていると思う。例えば、特定の作品に普遍的な価値を認めるのではなく、表現する者が生きる地域の歴史や文化をどのように引き受けることができるのだろうかという多文化主義的な潮流から地域に関わるアートプロジェクトなどと白川の実践はなにが共通していて、なにが異なるのかを考えていくこともできると思う。そのときには、シュタイナー思想をはじめ、美術を単独の存在として他の生活と切り離すのではなく生全体をとらえるような視点の大切さに気付くことが欠かせないだろう。じつは『日本現代美術序説──その端緒的覚え書』で、すでにそのことが示されているほど白川の思想において、生と表現を一体化させる考えは一貫している。今回の展示で中心的な場所を占めているスノーボードやスケートボードの文化に白川が関心を向けるのは、それが高度経済成長期を終えた後のライフスタイルのあり方を示しているように感じているからと言う。先のソチ・オリンピックでも確かに競技で勝つのとは異なる価値観を選手たちが持っていることを覚えている方も多いだろう。自然との接触や身体的な悦び、他者との連帯など、近代的な合理主義から排除されているものが強く希求されていることを白川は発見しているのである。さらには、そうした共同体再生への関心と、地域の歴史を探究した結果、前橋の歴史を独自の物語によって紡ぎだした「駅家(うまや)の木馬」祭りを4月13日に実施する。ダダの精神は、権威や成長型社会へ否を突きつけながら、軽やかに言葉から彫刻までを自在に横断しているように見える。