キュレーターズノート
ゴー・ビトゥイーンズ展──こどもを通して見る世界
川浪千鶴(高知県立美術館)
2014年08月01日号
対象美術館
この展覧会は子どもをテーマにしてはいるが、子ども向けではない。可愛いわかりやすい作品満載でもなければ、昔、子どもだったおとなたちへ贈るといったノスタルジックな口上付きでもない。これは現代を生きるおとなのための展覧会、おとなが「生きる力」を取り戻すための展覧会である。東日本大震災以降の世界に暮らす私たちは、ぼんやりとした影のような不安をつねにまとっている。美術館は鑑賞教育を通じて子どもたちが「生きる力」を得ることに貢献できると私はこれまで何度も語ってきたが、いま「生きる力」は子どもだけでなく、おとなにこそ必要なのかもしれない。
文化を超えて
本展タイトルの「ゴー・ビトゥイーンズ(Go-Betweens)」とは、「媒介者、間をとりもつ者」を意味する。19世紀末、ニューヨークの移民たちの貧しい暮らしを取材した写真家ジェイコブ・A・リースは、英語が不自由な両親の通訳として、家族を支え仲間とともに懸命に働く移民の子どもたちをそう名付けた。
導入部に並ぶリースやルイス・W・ハインの古いモノクロ写真は、本展の出発点であり原点である。百年前の児童労働の写真が伝える内容を過去の一コマで片づけることはできない。働き、学び、疲れ果て、つかの間の遊びに興じる子どもたちの後ろには、家族や民族といった集団が存在している。大きな物語としての歴史を、子どもという小さな人間の単位で見つめ直せば、「つなぎ手」の出現が開いた可能性が浮かび上がってくる。
在日コリアン二世の父と日本人の母をもち朝鮮学校に通った金仁淑は、代々受け継がれていく固有の文化、日本の文化とミックスされたことで失われていったもの、若い世代が新たに形成したもの、それらをすべてを併置、共存させた作品を通じて、多文化をあくまで「個」の視点から見つめ続けている。
日系人収容所の日常生活を丁寧に写し取った宮武東洋、米兵とのあいだに生まれ見捨てられた混血孤児の養育施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を定点観測的に撮影した影山光洋。彼らの写真は時代の記録として取り上げられることが多いが、本展では、それらを「イン・ビトゥイーンズ(In-Betweens)」=「間に生きる者(子どもたち)」の「記憶や思い出」という側面から見ることができて興味深かった。
中国が進めた一人っ子政策の結果、大勢の少女が養子縁組でアメリカに渡った。ジャン・オーの、中国人の幼い娘と白人の父親という組み合わせの家族写真を前にするとき感じる奇妙な居心地の悪さは、東洋と西洋、養われる者と養う者、女性と男性など、さまざまなステレオタイプの対立項が、日本人女性である自分に押し寄せるからだ。国家の方針や国際問題は否応なく、時に暴力的に人の生に介入してくる。しかし、たとえ翻弄されても人は生き続けなくてなならない。時に悩む時間も選択肢もない子どもたちは、現実を受け入れ異文化に順応しながら、新たな家族とともに自らの力で在るべき場所=「自分の居場所」を見つけていく。そこにはステレオタイプな幸/不幸の価値観を超える力が感じられる。
自由と孤独の世界
いま・ここに「在る」という確信は、なによりも自分自身の「肯定」につながる。個と「孤」は、表裏一体となってこれらを支えているといえる。
おとなにとっても孤独と自由はもちろん大切だが、子ども時代のそれは一種独特な輝きを放っている。小西淳也の《子供の時間》では、子どもたちは家の中の安心できる自分の居場所で独りゲームをしたり、寝転んだり、おもちゃを手にたたずんでいたりする。子どもたちの口は閉ざされ、目はどこを見ているかわからない。どこか威厳すら漂う、いわゆる「子どもらしさ」とは真逆の表情を浮かべている。
小西はこのシリーズ作品はドキュメンタリーではなく一種の構想写真だと語る。自分が思い描いたイメージと子どもたちとの微妙な掛け合いで作品は奇跡的に成立しているらしい。子どもの目線の高さを意識した構図には、誰のものでも、どこでもない、子どもの「孤」の場所と時間に立ちあった緊張感が漂っている。独り遊び、空想遊びが好きだった自分の子ども時代を振り返って、いまの自分の「個」につながるいくつかの原点がそこにあったことを、久しぶりに思い出すことができた。
痛みと葛藤の記憶
本展の出品作品の多くは写真や映像インスタレーションだが、優れたアニメーション作品もいくつか含まれている。ストーリー・コーとは、2003年にアメリカで始まった「さまざまな生い立ちの人々の家族や友人との対話を記録し、そのストーリーを共に分かち合い、後世に残してゆくプロジェクト」のこと。約5万件のアーカイヴ資料のなかから、本展では貧しいメキシコ移民の母と娘、アスペルガー症候群の息子と母の対話が選ばれ、それぞれの家族の歴史や自身の生き方が当事者の肉声とアニメーションで伝えられる。
つらい過去や厳しい現実を変えることはできなくとも、ひたすら向き合い、自分らしく「在る」ことを互いが認め、あなたと家族になることができて本当によかったと言葉で伝えあう。身近な人たちとの「信頼」が、さまざまな垣根を超える力につながる真実をかみしめた。
大人と子どものはざま
それにしても本展を見ていて、プライベートな家族の問題や人間の在り方を正面からテーマにしたアート作品が日本ではけっして多くないことを、いやかなり少ないことにあらためて気づかされた。
フィオナ・タンの《明日》では、大小2台のスクリーンにスウェーデンの高校生が数十人登場する。大スクリーンには、横一列に並んだ高校生の集団を順に映し出し、重なり合うような位置に配置された小スクリーンでは、さらにひとりひとりの顔がアップにされていく。十代の子どもたちの、こんな表情を撮ることができるとは思わなかったとタン自身が語ったように、民族、文化、宗教などの違いはあっても若者たちは自意識を込めて、挑戦的に自分をさらけ出し、私たちを見つめ返してくる。若さに満ちあふれた顔つきや身体、繊細さとふてぶてしさが共存する十代特有のまなざしは、「明日」そのものであり、目が離せなくなる。
異次元を往来する
子どものありのままの姿を思いがけないかたちで伝える作品としては、リネカ・ダイクストラの鑑賞教育をテーマにし、子どもたちを真正面からとらえた映像インスタレーションも印象に残った。イギリスの小学生たちは、ピカソの《泣く女》の複製画を前に、絵の中の女性は何者で、なぜこんなことになったのかを熱心に語り合っている。《泣く女》が置かれた位置にいる私たちには、彼らが話題にする絵は見えないが、見て感じたものからマイ・ストーリーを考え、膨らませ、真剣に語り続ける彼ら/彼女らの魅力的な表情やしぐさはよく見える。互いの想像力が伝染し、相乗し、子どもたちの妄想談義はとどまることを知らない。本作を見たあとに、本物の《泣く女》が見たくなった人は多いのではないだろうか。
記憶をテーマにした制作を続ける塩田千春の、3歳以下の幼児にお母さんのお腹の中にいたときや産まれたときの思い出をインタビューした《どうやってこの世にやってきたの?》でも、幼児たちが繰り広げる豊かな想像世界に、おとなは微笑みながらもじつはしっかり引き込まれてしまうのだから。
山本高之の、子どもたちとのワークショップ作品と映像で構成された《どんなじごくへいくのかな》には、子ども独特の「わからなさ」が充満している。子どもたちは自分の少ない経験の引きだしから、取りあえず出してきたものをいじりまわしなんとも知れない突拍子ないものに育てていく力を持っている。わからないことも丸ごと受け止め、楽しんでしまう力は「生きる力」にきっとつながっていく。
おとなが掲げた理想や希望、決めつけた限界を軽々裏切り、境界を行き来する子どもという身近な存在を、おとなはもっと注意深く観察し、そして遠慮なく刺激を受けるべきかもしれない。「生きる力」を思い出し、取り戻すために。
ゴー・ビトゥイーンズ展──こどもを通して見る世界
学芸員レポート
高知県須崎市に生まれ、小中学校の美術教員として教鞭をとるかたわら神戸市や西宮市を拠点に活動した画家・正延正俊(1911-1995)について、私は高知に来るまでほとんどなにも知らなかったに等しい。正確に言えば、今春西宮のご遺族宅をお訪ねし遺作をまとめて拝見するまで、1954年の結成から1972年の解散時まで具体美術協会で活動したメンバーのひとりという認識しか持ち合わせていなかった。
「彼の絵に冒険は起こり得ない」とかつて吉原治良が語ったように、インスタレーションやパフォーマンス、新素材の導入など時代を駆け抜けた華やかな具体のスター作家に比べて、正延は一貫して絵画の可能性を追求し続け、古風ともいえる描画スタイルを守り続けた異色の存在といえる。そのためか、これまで作品がまとめて紹介される機会はほとんどなかった。
しかし、今年から来年にかけて正延の画業を顕彰する大きな節目が訪れている。ひとつは今年6月正延正俊作品集刊行委員会によって、初の作品集『正延正俊 1911-1995』が刊行されたこと。もうひとつは、来年の没後20年に際して、高知と兵庫という正延のふたつの故郷の美術館で「没後20年 正延正俊」展が共同企画、連続開催される運びになったことだ。
吉原は、先の正延作品を評した言葉に「手なれた日常の手順のままで再び作品はいつの間にか充実しはじめるのである」と続けている。正延独自の抽象表現は、84歳で亡くなるまで静かに、しかし着実に進化を遂げていった。作品の大半は未亡人とご次男がご自宅で守っておられるが、その一端を3月に拝見させてもらい、サイズの大小を問わない作品の完成度の高さ、膨大な作品群に通底する絵画思想の深さ、誠実な創作態度、そのどれもに圧倒されたことがいまも忘れられない。「…なまなましい生の実感、その直接的表現としての芸術。又、それら一切を内部に秘めてあく迄も静かな世界」と正延自らが綴った芸術世界をぜひ多くの人にご紹介したいと、回顧展開催を決意した次第である。
作品集『正延正俊 1911-1995』には、図版や主要作品目録、年譜、参考文献、エッセイ等がコンパクトだが美しくまとまっている。加藤瑞穂氏ら編集に携わった方々の尽力がうかがえる。本書の成果を引き継ぎながら開催される、来年の初回顧展にも、ぜひご期待いただきたい。