キュレーターズノート
「MEDIA/ART KITCHEN AOMORI──ユーモアと遊びの政治学」「美少女の美術史」「成田亨──美術/特撮/怪獣 ウルトラマン創造の原点」
工藤健志(青森県立美術館)
2014年10月01日号
2014年4月29日に起きた不幸な事故から約3カ月、7月1日に活動を再開した国際芸術センター青森(以下、ACAC)。同じ青森の文化事業に携わる人間として、その再スタートに安堵するととともに、「MEDIA/ART KITCHEN AOMORI──ユーモアと遊びの政治学」と題された軽やかなフットワークの展覧会に、以前と変わらぬACACの「意思」を感じ、ひそかに喜びをかみしめた。
本展は日・ASEAN友好協力40周年記念事業のひとつとして、2013年から今年はじめにかけ東南アジア4カ国を巡回した「MEDIA/ART KITCHEN」展(国際交流基金主催)のキュレーターをつとめた服部浩之が、自らのホームであるACACでそのコンセプトを発展させて開催したものである(ちなみに山口県のYCAMでも山口独自の切り口による同展が期日をほぼ同じくして開催されている)。アジア巡回展の参加作家から12名が選出され、うち5名はACACでレジデンスを行ない、新作を発表。若い世代の仕事をとおして、「メディア・アート」のいまを伝える企画である。キーワードとなるのは「ユーモア」「遊び」「生活」「社会」「政治」など。「その入口となるように私たちの暮らしを起点とし、メディア環境を応用することで日常生活における知恵や創造性を、DIY精神に則ってかたちにし、『ユーモア』や『遊び』を大切にするメディア・アート/アーティストの魅力を伝える」というステイトメントのとおり、普段ほとんど意識することのない「日常」から、それを規定するさまざまな要素を抽出し、人間の生活や意識との関係性を考察しながら、現代を生きるわれわれの立脚点を見極めようとする作品が多く並んでいた。ただ一方では、科学技術の進歩にともない「表現」もまた先端技術への依存度を増し、「人間性」までそこに吸収されていくかのような印象も受けてしまった。それは「メディア・アート」という手法に対する作家の絶対的な信頼感に由来するもの? もちろん、それを肯定するつもりも否定するつもりも毛頭ないが、作品からは社会や人間に対する批評性は高く感じられたものの、メディア/アートという「手段」への懐疑というか疑問というか問いかけのような視点が希薄で、良くも悪くもそれが「現代アート」の大きな傾向かなと感じたりもした。
ということで、何点か作品を見てみよう。音楽家でもあるバニ・ハイカルの作品はDIYをベースに自作した楽器で、観客は自由に演奏ができるようになっている。さまざまな素材から音を奏でる装置を構築するその営みは確かに「遊び」の精神に満ちている。「音が出せるオブジェ」として、楽器を演奏できない人にも音を奏でることの喜びを感じさせてくれる作品であった。
フィリピンの作家であるレナン・オルティスは政治的な活動による失踪事件が多発している母国の状況を、作品をとおして告発。その問題を扱ったアレックス・マーティン・レモニーニョによる詩を多数の人間が朗読し、上部から無数につり下げられたイヤホンの群れの下で聞くというもの。頭上から降り注ぐ声の群れは、まるで雨か涙かのよう。あるいはひとつの主張を越え、天からの啓示のようにも思えるなど、先端のガジェットを用いた現代の表現から生じる、その呪術的、魔術的効果に強く惹かれた。
現代が強固な監視社会であることを自らの行為によって再認識した竹内公太の《録画した瞬間それは覗きになった》からはSNSなどのインターネット上のネットワークも含め、リアルに存在しない他者の視線まで意識して生きざるをえない現代人の姿が浮かび上がり、科学技術の進化が主体の存在を分断していく時代性について考えさせられた。また堀尾寛太のようなエンジニアとしての職能を活かしたキネティックな作品は純粋にエンターテインメントとして楽しめるものであり、メディア・アートの「入門」的な役割も担っていたが、このようにそれぞれの出品作のテーマには一貫性、共通性はないものの、それがむしろメディア・アートの多様性と、可能性の大きさを伝えていたようにも思う。
そして最後に触れておきたいのは毛利悠子の作品。ギャラリーBという空間いっぱいに構成されたインスタレーションである。空間のさまざまな箇所に設置された方位磁針が人の動きや空気の流れによって微妙に振れることで作品は作動し、世界各地で集められた音を発するオブジェがかすかに、ひそやかに音を奏でる。そのオブジェは世界各地の文化、自然、環境等と密接に結びつくものであり、そこではあらゆるボーダーが解体され、人間の本質的な部分にダイレクトに刺激を与えていく。そんな空間の「気配」を強く意識させられる作品であるがゆえ、今回のインスタレーションは空間の「意味」と強くつながって僕に迫ってきた。無機的なホワイトキューブに設置された場合はまた異なる印象を与えるのだろうが、今回展示に用いられた空間は過日の事故現場。空間にはりついた意味を知る者として、「その気配」が感じられ、「鎮魂」として機能する作品のように感じられたのだ。それはおそらく作家、主催者の意図するところではないだろう。しかしニュートラルな空間であっても見る者それぞれによってさまざまな意味が生じるし、空間に内包されるそうした物語が作品には大きな影響を与えていく。作家の意図とは異なるやも知れぬが、僕は今回この場所にこの作品が設置されたことをその点において評価したいし、まるでACACのこれからを予祝するかのように、その空間にいるととても穏やかな気持ちになったことを書き添えておく。
MEDIA/ART KITCHEN AOMORI──ユーモアと遊びの政治学
学芸員レポート
ということで、目の前にうずたかく積まれた仕事の山を悪戦苦闘しながら少しずつ崩していたら、今年もあっという間に後半戦、というか残り3カ月という驚愕の事実が。振り返ってみても仕事、先を見ても仕事という具合で、減ったと思ったらまた積み重なってきて山はいっこうに低くなりませぬ。完全に手を離れた仕事もなくて、「美少女の美術史」展は立ち上がりの青森県立美術館では会期終了したものの、9月20日に2会場目の静岡県立美術館がオープン、12月13日からは島根県立石見美術館での開催が控えており、まだまだ気は抜けない状況。一般的な巡回展であれば、会期終われば「はい、おしまい」となるところだけど、この展覧会はトリメガ研究所という3館の学芸員による仮想ラボ(笑)の企画で、相互に協力しながら運営を行なっているため、ずっと作業は続いていくのだ(大変だけどすごく面白くもある)。
ともあれ、おかげさまで青森会場は約3万4千人という多くの観覧者に恵まれた。地方の公立美術館の自主企画としては充分に健闘した数字と言えるだろう。もちろん来館者数が「絶対」ということはないが、少なくともフェイスブックやツイッターでの反応はすこぶる良かった。もともと3館の完全手作り企画で、企画会社や大手マスコミのバックアップもないので広報力は貧弱、ゆえに「トリメガ研究所」の名義を全面に押し出し、フェイスブックやツイッターといったSNSでやりたい放題の広報を行なってきたけど(担当学芸員のコスプレ写真など他では絶対に見られないと思う笑)、仕掛け方次第ではまだ可能性のあるメディアであると実感できたし、マスメディア主導型の展覧会から脱却する可能性のひとつを示しえたのではないかという自負もある。
今回の展覧会はいわゆる「巡回展」のフォーマットも崩してやろうと、印刷物のイメージを会場ごとに大きく変えたり、サブタイトルや展示構成、出品作も変化させて3館それぞれで印象が大きく変わるようにするなど、これまでにない共同企画展のあり方を模索している。青森会場は基本カタログに沿った展示構成をとり16のセクションからなる展示としたが、まさにこれは「序」。続く静岡会場は、「それは時と場合によります──歴史社会学ふうに」という少女の歴史を振り返るセクション、「すがたかたちも大切だと思います──観用少女(ときにいくばくかのあざとさや媚態を込めて)」という少女の姿、形の問題を考察するセクション、そして「心と口と行いと生きざまもて──少女美術における精神的なるもの」という少女の意識を探るセクションの大きく3部構成をとり(そのセクションタイトルや解説文では担当学芸員の村上敬節が炸裂!)、作品の配列もさらに展覧会のコンセプトに深く寄り添ったものとなるなど、まさに「破」的な展開を見せている。じゃあ島根は「Q」なのか、と突っ込まれそうだけど、そこは見てのお楽しみに、ということで(笑)。
ともあれ、「美少女」という刺激的な言葉をあえて選び、美術だけでなく、アニメや漫画、フィギュアも紹介したため、「流行りのサブカル展」ととらえられることも多い本展であるが、けっしてそうではなく、「表現」のジャンルを縦横無尽に横断し、「少女」というモチーフが持つさまざまな要素を近現代の世相と重ねあわせながら考察しようという目論見の展覧会であり、「少女」という概念が近代になって定着したものであるがゆえ、「近代の再考察」という意図もそこには込めている。さらに「美術」という枠のなかでも、浮世絵から近代の日本画、洋画、雑誌のイラストから、戦後美術、そして現代美術までをないまぜにすることで、従来の美術史の記述や価値判断についても再考のきっかけをつくりたいという狙いもあった。うまく仕掛けられたかどうかはまだわからないけど、少なくとも、集客性と学術性が対立するものでないことだけは示しえたと思う。
「美少女の美術史」展
その意味においては、富山県立近代美術館で8月31日まで開催された「成田亨──美術/特撮/怪獣」展についても同様のことが言える。約1カ月半の会期で観覧者数は約3万人を記録し、展覧会にあわせて作成した作品集も5,000円という高額ながら約1,000冊が売れたという(ちなみにこの『成田亨作品集』は一般販売もされているが、7,000部刷った初版の販売から1週間で二刷が決まるなど異例の売れ行きをみせている)。福岡市美術館の山口洋三氏が前回のレビューで展覧会についてレポートしているので、展覧会の内容についてはそちらを参照いただくとして、富山展が終了して思うことは、この一般(あえて「一般」という言葉を使いたい)の反応と美術業界での評価がいまだ大きく乖離していること。本展を「マニア向けのサブカル展覧会」という色物的な認識でとらえている美術関係者はまだまだ多いのではなかろうか。これだけ話題になったにもかかわらず、美術雑誌でのレビューや特集は皆無だったという驚愕の事実。山口氏と2人で連続4回も書いているのはそうした業界の無関心に対するささやかな抵抗でもある(のか?)。実際にアートとサブカルチャーの狭間でもがき苦しんだ成田の想いと残された作品群は「近代」という時代性を検証するうえでも重要なものであるし、成田が孤独と闘いながら開拓した地平の上に現代の多くの作家が立脚していることをわれわれは忘れてはならない。
700点にもおよぶ膨大な出品作が映し出すのは、次々と新しい形を生み出していく卓越したセンスと、表現としての圧倒的なスピード感。本展を見ることなく、成田の仕事を軽々しく「アートより低いもの」と片付けてしまうのはあまりに早計だし、その一方で無自覚にウルトラマン展のような営利コンテンツ展を開催する館にこそ、成田が終生抱いた苦悩を知って欲しいと願うばかりである。