キュレーターズノート
「記録と想起」展
伊藤匡(福島県立美術館)
2014年12月01日号
対象美術館
震災から3年半。被災地では震災の記憶の風化が危惧されている。風化させないためには、情報を発信し続けることが必要だ。情報発信の一例が、せんだいメディアテークの「記録と想起」展である。
この展覧会は、震災とその後の状況を記録した音声、映像、写真、文章などを、展覧会の形式で発信している。母体となっているのは、同館が震災から2カ月後に立ち上げた「3がつ11にちをわすれないためにセンター」(略称「わすれン!」)の活動である。これは、市民、専門家、スタッフが協働して、震災と復旧、復興のプロセスを音声、映像、写真、文章等で記録、発信し、市民協働のアーカイブとして保存している。記録したデータは、ウェブサイトで公開しているほか、DVDに編集されて同館内で視聴もできる。また書籍化の予定もあるという。
したがって、データ自体はすでに一般公開されているのだが、さらに展覧会という形式で発信する意図について、担当の清水建人氏は「脱コード化」と説明された。つまり、震災の記録を収集してウェブサイトに載せるという情報の流れが定形化しつつあるが、その流れを一度崩してしてみて、新たな流れの可能性を探りたいということだろう。ウェブサイトでの公開に比べて、展覧会は良くも悪くもショー的な性格が強い。期間限定ではあるが宣伝力が強いので人々の関心を呼びやすく、多くの人が同じ場所で同時に映像を見ることで、対話や議論が生まれる可能性がある。
一方で、展覧会は映像を集中して見るには、あまり向いていない形式である。その点、今回の展示構成は、かなり工夫されている。広いワンフロアの展示室内に、六畳間ほどの天井のない小部屋が不規則に連なる。各部屋は扉でつながり、入口の扉を開けて中に入り、ソファなどに座って映像を見る。出口の扉を開けて次の部屋に入り、別の映像を見るという仕掛けになっている。音の干渉はあるが、壁で仕切られているので複数の映像が混在することはない。各部屋には机や椅子、ソファやベッドなどの家具が置かれ、個人の居間や台所の雰囲気である。そこの壁やモニター画面に映された映像や、壁に貼られた絵画や写真、テーブルの上にノートなどを見ていく。
展覧会の副題「イメージの家を歩く」は、小部屋をひとつずつ開けて展示を見るという構成を表わしている。もうひとつの副題「対話の可能性」は、「わすれン!」のメンバーが共同生活をしている家の台所で、映像を見ながら議論を交わしたことから、この展覧会でも観覧者同士の対話が生まれることを願って付けられたのだろう。
部屋の数は全部で21室。映像やスライドは全部で17本。上映時間を足し算しただけで約8時間になる。とても一度の観覧ですべてを見ることはできない。主催者もそこは配慮していて、観覧料を大人100円ときわめて低く設定している。可能ならば何回か見に来てほしいということだろう。
今回の展覧会では、「わすれン!」の参加者のなかから19人の作家が選ばれている。藤井光、濱口竜介のような美術家、映像作家として知られる人もいるが、多くは一般の市民や学生である。
記録という性格上、出品されている映像は風景や人物へのインタビューが多い。津波で防風林や建物が流された海岸沿いの情景、地震で土地が崩れ電信柱が傾いている住宅地の様子、瓦礫の撤去や盛り土などの災害復旧工事でどんどん変化する景観を定期的に撮影した映像やスライド。被災した人々や支援に携わっている人々の語る言葉。反原発の集会・行進と、街頭での市民へのインタビューを収録した映像など。
とくに印象深かった作品をいくつか挙げると、佐藤貴宏《生きられる家 蒲生 渡辺さん宅》は、仙台市蒲生(がもう)で自宅が津波で流された被災者が、流された石灯籠や石彫、風速計などを拾って自宅のあった場所に集めている。自らの行為を「復元のようなもの」と語る被災した人へのインタビュー映像と、彼の集めたものの一部を会場内に再構成している。震災時のことを淡々と語る表情が印象的で、一見奇異とも思われる行動も不思議に人間の生きる力を感じさせる。
津波で実家と肉親を失った映像作家・川村智美は、実家のあった石巻市の過去と現在を写真と文章で綴っている。被災者の心情と被災地の現実を端的に語っている。
2011年6月1日
被災地で鎮魂のために踊ってもらうという企画がある
何カ所か場所を提案してほしい
という依頼があって
仲介者はその依頼への回答の報告がてら
「○○や○○、○○とか」
と津波がひどかった場所をあげ、そして
「あなたに言っていなかったけれど
あなたの家の跡で踊ってもらうとか・・
断ってもらってもいいけど」
と言った。
「もちろん断るつもりだよ」
即答した。
泥と肥料と瓦礫がまざったその場所は
かつて家があって人がいたその場所は会場ではない
津波が来たその時、
最後に見た風景は 音は 何をおもって往ったのか
怒りで涙が止まらなくなってしまった。
被災地のために
鎮魂のために
〜のために
「〜のために」を命題に
様々な長さの距離や温度差を持って人や企画が訪れる。
私は「大丈夫じゃなかった人」として
その度に、蓋をこじ開けて、失ったものについて説明する。
繰り返していくうちに、内容は端的に伝わるように編集される。
「命題」や「慣れ」が「失ったもの」を消費していく。
失ったものについて知ってもらうことは必要かもしれない。
「大丈夫じゃなかった人」として生きるのはけっこう大変で
説明で喪失を認識しながらも
説明で喪失が軽骨になっていくような気がする。
あの日をなくしては
あの日失ったものをなくしては生きてはいけない