キュレーターズノート

北海道の美術家レポート⑦久野志乃

岩﨑直人(札幌芸術の森美術館)

2015年02月15日号

 北海道にしっかと根を下ろして活動するアーティストは数多い。そのなかでキラッと光彩放つ実力者もまたあまたいるから、この地は興味深い。本連載では、年齢性別ジャンル等一切問わず、独断で、しかし、おおいに賛同を得られるであろう優れた作家とその作品を取り挙げ、紹介していきたい。

 今回取りあげるのは、久野志乃。30歳代半ばの女流画家である。北海道教育大学、および同大学院にて油彩画を中心に絵画を学び、以来、札幌を拠点にデザインの仕事も多数手がけながら精力的に作品の制作および発表を続けている。また、大学院在学中より他者の記憶に取材するプロジェクト、およびその他者の思い出の衣服を身に纏うなどのパフォーマンスも断続的に行なうまた別の側面も持つ。現在は、北海道文化財団(札幌市)の一角にある展示コーナーにて個展「あたらしき島」が開催中だ。また、北海道様似(さまに)町中央公民館内のギャラリースペースでもやはり個展「冬に降るゆめ」が先月末より開かれ、故郷に錦を飾っている。
 さて、彼女の手に成る一枚の絵[図1]。縦横比がおよそ1:3という横長の画面の大半を占めるのは、黄金色に輝く水面だ。画面左のほうでは、一艘の小舟がその水の原にたゆたう。これを心許なく漕ぐ少女が一人。対照的に大型の船舶が上部に配される。タイトルは《世界とその半分へ》と意味深長だ。その題名はそこに描かれているものが観念的であることを示唆してもいよう。ならば、ここに認められるものは湛えられた水ではなく、光の原かもしれない。あるいは彩雲であろうか。いずれにしてもその景色を実風景としてただ漫然と眺めるわけにはいかなそうな、いわくありげな様相が醸し出されている。
 この作品と同じ2012年に描かれた作品に《真夜中、音のない光》[図2]がある。画面中央を潔く垂直に走る幹線、それが地と交わる一点から放射線状に行き渡る色面が軸となる構成。先の《世界とその半分へ》同様、十分な溶剤を得て薄く伸びやかに行き渡る暢達な運筆は、観る者の視線を滞りなく流れさせ、画枠を越えてなお風景のさらなる広がりを感じさせる。描かれる3人の子らは皆、手に葉、もしくは放射状散形に咲く花を持つ。その植物の異常な大きさからして、舞台はやはり架空性を帯びている。


1──《世界とその半分へ》2012年 油彩、パネル 65.0×182.0cm
*久野志乃展「あたらしき島」出品作品


2──《真夜中、音のない光》2012年 油彩、パネル 65.0×182.0cm

 現実味をそなえつつも、しかし非現実的な要素が画中に散見される作例をもう少し見ていこう。同じ衣服を纏った二人の少年が並び歩む絵[図3]がある。少年たちの向かう先には大きな山がそびえ立つ。裾に広がる湿地帯には湖が点在し、その周縁には赤いコーンを支柱とした結界が張られている。なるほど、青と緑を基調とした画面において点景として布置されたこの赤はじつに効果的だ。これによって画がほどよく引き締まっている。いやいや、そもそもここにあってはならない物であった。工事現場などでよく目にする注意喚起物はこういった麗しき山岳風景画には似つかわしくない。いよいよ、久野の制作動機を知る必要がある。聞けば、これはとある少年が、親元を離れたった一人で遙か遠方に暮らす祖母を訪ねたという話を元に制作されたものだそうだ。久野はその話を聞くにつけ、道中心細かったであろうその少年に絵の中では分身を加え、勇気づけた。さらに旅の途次に潜む危険を湖になぞらえ、その周囲に防護柵を巡らすことで行く手の安全を図った。もう大丈夫、寂しくもないし、怖くもないよ、安心しておばあちゃんに会いに行こうという計らいが込められた一枚なのである。
 他者の話を元にしつつ、膨らむイマジネーションを画に起こすこの手法がさらに複層的に展開されたのが《mist》[図4]である。いまは亡き妻とかつて登った山について述懐する男の話が典拠。山頂から見た景色の美しさに妻が嘆息して漏らした「まるで天国のようね」というシーンに感銘を覚えた久野は、自身の想像のなかでその夫婦の足元に視線を落とし、眼下に広がっていたであろう高山植物群を切り取った。物語の主人公たちではなく、一連の物語を見届けた植物たち、すなわち舞台背景にここでは焦点を当てている。もはや、伝聞の物語は繁茂する植物に集約され、それに象徴化された。白花の輪郭を赤い描線であえてずらして縁取ったのは、隣り合う夫と妻が見た景色の僅かな距離差を示しているとも、また此方と彼方の時差であるとも作者は言う。語り手との会話のなかで、その語り手が記憶を辿っているときに浮かべているであろう景色。話中の別の登場人物が同じ場面をまた別の視点で捉えているであろう景色。ひとつの場面を複数の視座からとらえ直して得られるイメージの絵画化をここでやってのけている。


3──《ふたつの透明な山》2011年 油彩、キャンヴァス 140.0×90.0cm


4──《mist》2007年 油彩、キャンヴァス 65.0×100.0cm

 一般的には、作者自身の実体験や確たる思想がその制作のモチベーションとなったり、あるいは表現の到達点であったりする。しかし、久野の場合はこのように他者の物語をきっかけとするところに大きな特徴がある。南極に浮かぶ氷山が時に天地反転するというネイチャー雑誌の記事であったり、村上春樹小説の印象的な一場面などの書物も制作契機となる。伝聞、文物に拠って、そこにたくましい想像と豊かな心情を加え、時に、エピソード上の場のすげ替えや時間の変転をも自在に試み、久野は固有の物語画を生み出している。
 最初に掲げた《世界とその半分へ》《真夜中、音のない光》もまたその手法に沿って生まれているということは、もはや言うまでもない。この2点は同じエピソードが元になっている。話者は、80歳代の婦人。その女性が幼年期を過ごしたサハリンでの思い出話がベースとなっている。そこにはいろんな国の人がいて、夏は浜辺で、冬はスキーをして一緒に遊んでいたという。12歳でこの地を離れてからは、一度も足を踏み入れていない。もう二度と戻ることのない故郷。久野はこれを「ある島」と仮定して、物語を構築した。その後、いかなるプロセスを経て、これらが仕立てられたかは、もう追わなくてもよいだろう。それを解くことは、確かに久野絵画の楽しみ方のひとつとも言えるのだが、なによりこの画家の手になる絵画はじつに心地よい。画面構成も確かである。その描かれている内容については上述のとおり、けっして絵を見ただけではわかりにくいものの、観る者をとらえて離さない魅力がある。謎かけを押し付けてくるわけでもなく、かといってわからなくて結構というように冷たく突き放したり、遮断もしない。到底知り得ない赤の他人のエピソードは、さらに久野の頭と心と手を通じて、絶妙に普遍化されている。故に、皆に共感されやすく、親和性が高い作品がここに示されるのではないだろうか。
 ひとつの対話が契機となって、そこから複雑で重層的なプロセスと操作を経て、生み出された物語画。本文冒頭、彼女の略歴を記したなかで、「パフォーマンス」を「また別の側面」というように紹介したが、そう、じつは絵画制作に密接に関係しているし、もしかしたらそのほうが本分とも言えるのかもしれない。


5──《光の測量》2006年 油彩、キャンヴァス 112.0×194.0cm


6──《We found a boat》2011年 油彩、キャンヴァス 130.0×194.0cm

久野志乃 展「あたらしき島」

会場:北海道文化財団アートスペース
会期:2015年1月8日(木)〜3月10日(火)

久野志乃 絵画展「冬に降るゆめ」

会場:様似町中央公民館ギャラリー21
会期:2015年1月31日(土)〜2月15日(日)