キュレーターズノート
「伊東宣明《アート》」「てくてく現代美術世界一周」「京都市立芸術大学作品展」
中井康之(国立国際美術館)
2015年04月15日号
しばらく前に本レポートで取り上げた伊東宣明が2月から4月にかけて愛知県美術館の常設展示室に設けられているプロジェクト型のイベントスペースで新作《アート》を発表していた。そのレポートでかつて紹介した作品は《芸術家》というタイトルで、一人の女性が芸術家への道を歩もうとしている姿をドキュメンタリー風に作り上げていた。
今回の新作は、伊東自身が国内の美術館施設等を背景に芸術論を鑑賞者に対して解説するようなビデオ作品となっていた。多くの美術愛好家などに良く知られる作品を前に、それが架かった(あるいは設置された)状態の美術館内でご高説を唱えるというその所作は、なんとなくアメリカ型のギャラリートークに見て取ることができるアカデミックな世界を戯画的に表わしている面があるだろう。また、熱弁を振るう伊東の動きは連続しながらも、背景としての美術館施設が次々と変化していくその映像は、ミュージック・ビデオ等に典型的に見ることのできる手法であり、そのような編集技術を取り入れることによって彼の語りが一種のエンターテインメントであることを暗に示すのである。また、その新作のタイトル「アート」の英文タイトルが、“ĀTO”となっているのは、椹木野衣の近著『後美術論(ごびじゅつろん)』冒頭部で述べている「空虚な表音語『アート』」(『美術手帖』2010年11月号、130頁)を意識的に用いているものと思われる。椹木によれば「アートは、ARTとは異なる固有の領域を持つことになる」(同前)わけであり、おそらく伊東は日本固有のイミテーション文化を高らかに嗤うがごとく、この作品を制作したのだろう。
じつは本作品を鑑賞したのち、岐阜県美術館で開催されていた個人コレクションによる現代美術展「てくてく現代美術世界一周」を見学する機会があった。とくになにかを期待したわけではなかったが、元を正せば美術館の起原のひとつは、ある個人の趣味や美学に基づいたコレクションによるものであり、また、そのようなフィルターを通すことによって、現代美術に対して予備知識のない観衆へのコードが用意されたことになるのだろうと考えたのである。はたして、そのような読みは少しはあたっていたのではないかと思う程度にさまざまな世代の鑑賞者が少なからずいたことをまず述べておきたい。ところで、そこに展示されていた多様な作品群のなかに二つの映像作品があった。ひとつはポール・マッカーシーの《ペインター》という現代美術界を揶揄するかのようなビデオ作品であり、もうひとつは韓国人作家ムン・ギョンウォン&チョン・ジュンホ《妙香山館》という作品であった。後者は、韓国ドラマさながらに、北京の北朝鮮レストランで働く女性と北京で個展を開いた主人公のミニストーリーであった。要するに、伊東の《アート》のハリウッド版と韓国版を見ることができたのである。これは偶然というより、このコレクターが作品を収集するひとつのコードとしてメタ・アート的な作品の選択という項目があったことによるだろう。
APMoA Project, ARCH vol.13 伊東宣明《アート》
タグチヒロシ・アートコレクション パラダイムシフト──てくてく現代美術世界一周
この時期、例年楽しみにしているのは京都市立芸術大学の作品展である。恒例の行事なのだが、定点観測をするかのように毎年見ているとなにかしらの変化を感じるときがある。今年は、日本画の保存修復模写と彫刻科にそのような変化の兆しを感じた。ただし、保存修復模写に関しては原本となった画の典拠が容易にはわからないことによる。おそらくは中国や韓国等の東アジアの学生が本国や中国等にある古典を原本としているのだろう。とくに今年はそのような模写が多くなっていた。
彫刻科に感じた変化というのは、個々の学生が自らの立脚点を認識したうえでオリジナリティを確保し、それらが相乗効果をともない、自信を持って表現行為を行なっているように感じたことである。いくつか例示しよう。京都市芸大のキャンパス中央に大学会館という円筒状の大きなホールを備えた施設がある。とくにその円筒形のホールは展示空間としては絶望的と言ってよいほどに使いにくい施設で、これまでまともに展示空間として機能することはなかったと記憶している。そこを展示会場とした用いた今尾拓真は、その醜い空間、例えば床のカーペットに施された意匠等、を消すために空間を暗転させて大きな円形構造のみを認識させるようなライティングを行ない、空調装置に最小限度の装置を付加することによって巨大な作品としていた。この空間で建築家が当初志向していたであろう当該建築物の構造が備えているある美しさを、今尾の仕事によって初めて実感できたのは私だけではないだろう。
また、そのホールの周囲の階段状の部分があるホワイエは、一見ホールよりは使い勝手が良いように見えるのだが、視点の高低が刻々と変化せざるを得ない階段の特性に飲まれてしまうような作例をこれまで数多く見てきた。過去の展示例としては、階段を昇りきった空間に設置した作品群が、まるで吹き溜まりに打ち捨てられた廃品のように感じたこともあった。今井菜江は、そのような空間の特性を逆手に取るように、その歴史的な澱が溜まったような空間のなかに、意識的に脱ぎ捨てた衣装を積み上げ、あるいは大きな筺に積み込み、さらには無雑作に衣紋掛けに洋服を掛けたのである。そのような日常的な所作を見せる作品をその場所に置くことによって、これまで見捨てられてきた空間が見事に生き返ったのである。この感覚は、おそらく毎年この空間と向き合ってきた者にしか得ることのできない感覚かもしれない。もちろん、そのような効果は他の場所では無意味化するという指摘が予想される。しかしながら、今井の持つ、空間に対する鋭敏な感覚は、他の場所においても必ず活かされるであろう。また、彼女の作品は、その脱ぎ捨てられた衣装の集積だけによって成立しているわけではない。ホワイエに辿り着くまでの階段の踊り場に打ち捨てられたように塊になっている衣装は、彩色された木彫作品となっている。そのようなメディアの転換が行なわれたオブジェが紛れ込むことによって今井の作品は全体として完成しているのである。
上記2人に見られる禁欲的とも言える表現は、彫刻という領域では典型的なスタイルであるととりあえずは考えることができるだろう。そのような表現に抗うように、過剰な要素とさまざまな表現様式を兼ね備えた作品を披露したのが本田彩乃である。本田の作品タイトル《ridiculous / irrelevant combination》は、こっけいな、ばかばかしい/不適切な、時代遅れの組合せ、といった少々自虐的な意味を示している。それは、本田の表現スタイルが周囲に理解されてこなかった状況を垣間見せてもいるのだが、いずれにしても、本田の作品は、必要以上に広い空間に、歴史や物語を示唆するさまざまな意匠を積み重ねることによって独自な空間を生み出していると言えるだろう。本田は当初はテキスタイルデザインを志向し、異なる素材を組み合わせることによって生み出される異化効果を好み、また、そのような趣味志向の延長線上に、ソットサスが率いたデザイン集団メンフィスのような仕事を実現したいと夢見た時期があったようだ。デザインと美術が上手く融合した先例というのは寡聞にも多くを知らないのだが、もしかしたらなんらかの可能性を持つのかもしれない。そのような未知なる可能性を感じさせる表現であった。また、蛇足になるが、80年代後半に関西ニュー・ウェーヴという表現主義的な傾向の作品が数多く生み出されたことがあったが、そのような歴史を再認識させる装置になりうると思った。