キュレーターズノート

YCAMアート企画プレリーディング[前半]

阿部一直(いずれも山口情報芸術センター[YCAM])/渡邉朋也

2015年09月15日号

 今回から二回にわけて、山口情報芸術センター(YCAM)の今年度後半の事業についてこれまでの歩みを踏まえて語る。

「研究開発」主導型のプロジェクトへ

渡邉──YCAMの今年度オリジナル企画を先読み的に、コンセプトから読み解いていこうと思います。YCAMは開館以来、委嘱作品やプロジェクトの制作を中心に事業を実施してきたわけですが、それぞれ事業の過程で生み出した技術を派生的に展開するかたちで、オリジナルワークショップなどの開発を行なってきています。例えば、三上晴子「Desire of Codes|欲望のコード」から多視点共有の「コンガラカメラ」ワークショップdoubleNegatives Architecture「Corpora in Si(gh)te」から共有作業を前提にした「パスタ建築」ワークショップが生み出されたといった事例です。つまり「作品をつくること」だけに留まらないプラットフォーム化させるような取り組みを行なってきたわけです。その傾向は近年ますます強まってきていて、例えば2010年からダンサーの安藤洋子とともに取り組んでいる「Reactor for Awareness in Motion(RAM)」では、オープンソースのソフトウェアやハードウェアを開発し、インスタレーションから、ダンス作品までを制作し、さらにワークショップ開発とその応用展開など、その都度多岐にわたるベクトルの制作物に拡がっています。今年度の方向性はとくに、基本的スタンスとしてどれもプラットフォーム型というか、RAMのような、派生的に多領域内容が生み出されていく事業がベースになるわけですね。

阿部──時代的な背景として、大学や研究機関でも文系・理系が融合したプラットフォーム型の教育制度を急速に整備しだしていますね。その共通点はすべて、理工系のアカデミズムのなかに感性工学的な実装性や社会的モニターモデルを組み込もうとしたアプローチです。興味深いことにその逆はほとんどないと言っていいかもしれません。研究環境を考えると、非常にクローズドななかで分化された研究だけに専念できた高度成長時代の終焉と共に、情報化革命が突如グローバルに起こって、世の中のほうが圧倒的にハイブリッド化したリアリティが高速に進んでしまい、現時点ではそうした安定成長型の目標値や過程プランを凌駕してしまったとも言えます。そうなると、実験室の中だけではなくて、一般性に開かれたパフォーマティブに展開されるタフネスさが基礎耐性の必要性として出てくるわけで、そこでの別なる精度みたいなものが問われてくる時代に一斉に突入したと思うんですね。一般より10〜15年ぐらい先走った秘匿技術を研究開発する軍事とか宇宙技術とかと、それと連動するMITのような研究方向みたいなものが先行的存在としてあり、そのなかのある技術が一般の社会のなかで、民製化されてグローバルに公開されると、パンドラの箱的に当初とは使用目的がまったく違うような現場で、その開発用途が波動的に予想を超えて拡散・変質する。それがここ数年、特定の利益を目指す企業内開発などに回収されない、社会貢献的な地平にも圧倒的な広がりを見せ始めてきており、高速度に展開されていく現場のパフォーマティブな要素や新たな利便性が、逆に研究性というものを規定し始めている時代になってきたとも言えるかも知れません。そこにどのように芸術表現レベルが関わるかということですが。
 概観すると、それに対してのこれまでのアカデミズムとか、教育とか、研究開発とか20世紀型の制度が対応しえていないということがあるんじゃないか。それを補完しインターフェースするものこそが、アートとかデザインと言われているような──ある意味では広い領域と時間性、デジタルとアナログ双方にまたがって、具体的に形を与える、動きを与えるものをデザインできるような──機能・技能が求められている、あるいはプロデュースの人材も含めて求められているということかなと。その意味では、YCAMは、理工系から向かうのではなく、応用感性的なデザインから出発してプラットフォームと現場をつくっていった比較的珍しい例とも言えます。

渡邉──デザインとかアートとか、それを包括するような文化といったものは、人間の日常生活さらには社会において、ひとつの「ゆとり」とも言えると思うのですが、であるからこそ多様な領域が混淆しうるし、そうした領域横断性に関する実践の場として非常に重要であるということでしょうか。

阿部──そうですね。その「ゆとり」とか「あそび」いう表現が言わんとするものは何なのか? それが21世紀になって大幅に質が変化している気がします。結局、デジタイズがすべての世界の前提となった結果、反対に「もの」の位置づけへの目線が高まったということでしょうか。一方で、デジタル・マテリアリズムということも言われ始め、また新規の消費対象や商品アイデアの必須要素として、情報コネクターとか情報エージェントとかが単純なインターフェイスの役割を超えて振るまいだす新たな社会的効果が大きくある。社会学者のブルーノ・ラトゥールが言及するような「準-モノ(quasi-objects)」化したものたちが、情報ネットワーク化のなかで全体のアーキテクチャを大きく変質させていくという役割です。ラトゥールの謂いでは、いまだに世界はモダンには至っていないというわけですが、そこではデザインとかアートはもはや余白的な「あそび」要素などではないわけです。
 YCAMは、メディアテクノロジーとその応用を探る研究開発(R&D)を中軸に据えて、10年前からアート表現を展開してきました。そのなかで、R&Dの技術的要素はつねに非常に複雑なハイブリッド性を内包しているけれども、当初はブラックボックスのなかに投げ込まれたようなかたちになっていて、作品性だけが氷山の可視的部分のようにアウトプットされていた。いまでは、それがブラックボックスのなかのほうが濃くなり面白くなってきて、アルゴリズム的デザイン思考やプロクロニズムの優位性を主張する人たちも出てきて、その世界を部分的にでも可視的にオープンにしていく傾向になってきたというのがモチーフにあると思います。そのため、YCAMの今年の方針としては、作家主義・作品主義という表現の妥当性の看板を少し下げて、水面下のR&Dのパースペクティヴから年間の各活動を主導的にネットワーク化させ、シフトしてみたというのが大きな転換ですね。作品が存在して初めて始まる教育ではなく、教育ワークショップの開発の過程で作品やアートプロジェクトが創発的に生み出されるプロセスがあってもいいのかもというような。また、R&Dは親和的に波状化して連携し合うことが可能という側面もあります。作品とR&Dと、そのどちらにフォーカスをあてたほうが面白いのかということですよね。もちろん一概に決めきれない点も多々ありますが。

渡邉──プラットフォーム型のプロジェクトにおいて非常に重視しているプロセスが、サーベイであるとかフィールドワークであるとか、いわゆるリサーチの部分だと思います。どの美術展においてもリサーチに数年を費やすということは一般的だと思うのですが、YCAMの場合、作品を制作し、発表するためのリサーチに限定していないというところが特徴かなと思っています。

阿部──最初に、なんらかの基想観念によって規定されたものを実現化するというのが、これまでの西洋中心的なアートのあり方だったと思うんですね。それは音楽で考えてみればよくわかるわけで、「こういうふうにつくりたい」といった頭のなかで完全に規定された観念や観想をノーテーションし、それを絶対化して位置づけたうえで再現として具体化するのが音楽行為であり、その構図は、ジョン・ケージですらそうだと思うんですよ。ケージが偶然性やノイズに音楽の方向の視野を開いたとはいえ、結局は、何分何秒まで細かく時間を規定して、スコアリングしているというのは、観念の指示世界の現われでしかないということです。ところが、リサーチというのは、観念の追い付かない行為というか、むしろ観念や先験性を棄てにいく営為なのです。重層する組織状の時空間が混濁、逆走するような予想のつかないものの感覚を研ぎ澄ますのがリサーチであって、根底のアプローチの仕方そのものを一度違うものに書き換えていく作業といってもいいかもしれません。それが、実体の世界だけでなく、情報化世界のなかでもアプローチせざるをえない厄介な状況が生まれている。プロクロニズムの表象もそうですが、多重時間化した現実のなかでの断続的に浮上するリアリティを、どういうふうにスキャンしていくのかというところが現在の問題なのだと思います。R&Dというわけだけれども、R<Dのはずだったものが、R>Dに逆転しているというのは、さきほども述べたとおりの事態だと思います。

アグリ・バイオ・キッチン

渡邉──それでは、個別の事業の話を取り上げていきましょう。まず食を切り口にした「アグリ・バイオ・キッチン」について。


アグリ・バイオ・キッチン/2015年から始まった新しい研究開発プロジェクト。メディア・テクノロジーの応用範囲を、生活のより根源的なレイヤーまで拡大し、新しい生き方や暮らし方の提案を行ななう。おもに人間の生活に不可欠な〈衣食住〉の三要素のうち、〈食〉にフォーカスを当て、市民と協働しながらリサーチと開発を展開していく
URL=http://www.ycam.jp/projects/agri-bio-kitchen/

阿部──テーマとしての「食」ですが、例えば、「もの」との関係を考えると、ポスト遺伝子工学というような意味でのバイオテクノロジーが、すべてにわたって縦横無尽に駆使されていて──ものを食べるというのは人間にとって非常に主体的な行為と考えられていたことが、または、可視的なオブジェとしての「もの」を食べているはずが──不可視のものを食べている要素のほうが大きくなってきた。主体が客体を包摂する行為が、中和されるというか和解されるというか、ある意味ではバイオ的なプラットホームでは主体も客体もなくなってしまうという意味では、「食べる」ということはまったく違うものとしてとらえられる可能性があるかもしれない。ビオス/ゾーエといった2項的な人間観への回収から脱却していくような次の異なった視点に、いまおかれている食の問題から一歩変換できるような気もしています。サステナブルデザイン的な環境要素における意味ももちろん大きいですし、スマートアグリ、キッチンの要素も入れて、やはりこの企画もコーディングと「もの」との新たな関係性巡りと言えそうです。

渡邉──YCAMでは2011年にLabACTという展覧会を開催しました。「The EyeWriter」というオープンソースのソフトウェア/ハードウェアがあって、それを使った作品展示です。ようするに、アーティスト側にまずテーマがあってそれを実現するのではなくて、その前にあるテクノロジーをアーティストに与えて、それを使って作品をつくってくれと。そういう展覧会でした。このプロジェクトでも今後はそういう展開もあり得るのかなと思ったりしました。

Think Things

渡邉──次は7月から公開の新プロジェクト「OPEN LAB」シリーズの「Think Things──『もの』と『あそび』の生態系」です。


Think Things──「もの」と「あそび」の生態系/YCAMが展開するさまざまな研究開発プロジェクトを「あそび」を通じて紹介する体験型の展覧会。研究開発プロジェクトを進める過程で開発したソフトウェアやハードウェアのデモンストレーションや、子ども向けワークショップを多数開催するなど、YCAMの活動やビジョンに気軽に触れる機会を創出する。2015年7月18日(土)〜9月28日(日)、10時〜18時
URL=http://thinkthings.ycam.jp/

阿部──ユーザーと世界の繋がり方から考えてみると、2013年の10周年記念祭のときにやった、contact Gonzo「hey you, ask the animals. / テリトリー、気配、そして動作についての考察」で、道もない山中に籠ってデジタルカメラを回しっぱなしにし、動物の生態系から学び得ることを分析抽出してみるといった野生の思考のプラクティスみたいなものが、今回のひとつのヒントになっているのかなと思っています。あれは、まさに予想のできない野生かつ野蛮な、山の論理みたいな環境に人間が投げ込まれてサンプリングしてみて、そこから「あそび」という新しい文脈を切り出しうるかみたいなことをやってみたということですね。それを山の中ではなくて、まさにテクノロジーとかツールとかがごろごろした現場をつくり出しているYCAMの中でいわば山あそびをして、解放してもらうみたいなことなのかなと。そこで、子どもたちやユーザーが、いろいろ発見したもの自体をピックアップして、アーカイブ化も同時に行なって、有効な方法論や論理が抽出できるかどうかみたいなことを、ラボの生態系としてやってみようということです。「あそび」は、ホイジンガの「遊びはものを結びつけ、また解き放つ」ではないですが、そこからカイヨワといった伝統的解釈の流れがあって、ちょっと落としどころが決まっている感があるのですが、そこに情報化や電子データベースが加わることでまったく別のフェーズというか、オルタナティブや野蛮さへ移行するような期待をしたいというのがあります。
 むしろ、個人的に面白いと思っているのは「もの」の側面のほうです。じつは、いまのリアリティで考えると、「もの」というものが、ネットワークと発想として繋がっていない「もの」はほとんどないわけですね。さまざまなタグ付けを背負った「もの」の世界で、いろいろな意味での関連性をマッピングした「もの」であるみたいな。それを人間主体からでなく、それら「もの」たちの視点から世界をみたらどうなるのかみたいなことだと思うんです。背景的には、いまの思想界は数年前ぐらいから世界的にスペキュラティブ・リアリズム(思弁的実在論)といったムーブメントが急席巻しているわけですが、これらの出自の面白いところは、思想的な発想が最初にあって、社会的な帰納や演繹が影響され出したのではなく、情報のビッグデータ問題や、コンピュータ言語のオブジェクト指向、生命論の進化などのリアリティがまず先にあって──これらは人間主体の無力化に繋がっているのですが──むしろそれが、整理・思想化されていった、とっ散らかった結果としてスペキュラティブ・リアリズムが出てきたというようなところがある。冒頭でも述べたように、あくまで現実社会がスライドする大幅な変化のほうが圧倒的に先にあると思えるわけです。それが、ドゥルーズ、ホワイトヘッドの読み直しとか、ラトゥールのアクター・ネットワーク論(ANT)とか、マニュエル・デランダとか、ちょっと少し前から起こっているものを巻き込みつつ英米圏から急浮上してきた、という感じでしょうか。
 ラトゥールは、90年代からすでに、ミシェル・セールの概念を援用して、quasi objectsとか、quasi thingsみたいな、「準モノ」みたいなことを提示しており、さらにANTで多様に活用していますが、イメージとして、多層相互唯物性みたいな、潜在的にネットワーク化される要素を帯びていくような「もの」、逆転的にコトもハイブリッドな「もの」たちに即して見ていくみたいなことを言うと行き過ぎでしょうか。主体/客体というような単体の2元論での人と「もの」との関係が無効になり、複数化・多数化が前提となって、しかも「もの」たち側のパフォーマティブな側面から変わらざるをえないというか、一種のコミュニケーション変調というか、そこにメディア・テクノロジーを可視的に使うことによって「もの」たちの分節と存在と記憶の仕方が変調して扱われていくのは、面白い試みではないのかなと思えます。それを目標値を決めない「あそび」の実践の束から起こしてみるというのが、この「Think Things」の発想と言えるでしょうか。

渡邉──会期中に、継続的に変化する環境をつくり出す工夫がなされると聞いていますので、ぜひ現場に何度もあそびに来てほしいですね。

[後半に続く(2015年12月リリース予定)]

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