キュレーターズノート
「ス・ドホ、西野達、柳幸典」、特別展「斎藤義重」、N COLLECTION「テセウスの船──鏡のあちらとこちら」、「日章館」こけら落とし
角奈緒子(広島市現代美術館)
2015年12月15日号
尾道から船でおよそ40分。瀬戸内海に浮かぶ百島(ももしま)を久しぶりに訪問した。港の小さな桟橋に降り立って、以前と変わらない風景に少しばかり安堵を覚える。港から10分くらい歩くと「アートベース百島」にたどり着く。2012年にオープンしたこの施設もまたその姿を変えることなく、堂々、アートのための「基地(ベース)」らしく、作品、アーティスト、鑑賞者を迎え入れる。今回は、このアートベース百島で11月末まで開催されていた三つの展覧会とひとつのプロジェクトを紹介したい。
2018年の実現をめざした長期プロジェクト
ひとつは、「ス・ドホ、西野達、柳幸典」展。国際的に活躍する韓国作家のス・ドホと、ドイツと日本を拠点に活躍する西野達、そして百島をまさにベースとして活動を続ける柳幸典の三作家による展覧会である。スといえば、実寸大の韓国の伝統的な家屋が空から降ってきて、ビルとビルの間に墜落した、というとんでもない設定の作品を思い出すし、西野は、広場など公共の場に立つ大型の彫像や石彫を囲うようにして部屋やホテルを出現させる屋外型のプロジェクトを世界中で展開する作家として知られている。そして柳といえば、かつて銅の精錬所だった産業遺構をアート作品として再生させるという、着想から10年以上の年月をかけた犬島アートプロジェクトを実現させた強者である。そう、この三者はいずれも、いわば持ち運び不可能、その場所でしか実現されえない、スケールの大きなプロジェクト型作品を手がけるアーティストである。ちなみに、柳とスは、イエール大学の先輩後輩(在学した時期は重なっていないそうだが)、柳と西野は武蔵野美術大学の同級生と、三者は柳を軸につながっている。
展覧会に話を戻そう。「将来構想」という文字がフライヤーに見られるように、今回の展示は、「構想」のプレゼンである。スと西野の両氏は今年の夏、柳とともに尾道と本土との間に橋はかかっておらず船で渡るしか行く術のない、人口約600人足らずの小さな百島を実際に訪問し、この土地の風土や古くは朝鮮通信使の渡航ルートであった瀬戸内海の歴史などを見聞したという。このリサーチを兼ねた訪問において、それぞれがある場所を選び、そこで実現したい作品のアイデアをドローイングとして発表する、というところまでが今回の展覧会である。西野は、宿泊施設がない百島に、既存の公衆トイレを利用した「ホテル百島」を提案。スは、自分が育った韓国の伝統的な家屋を紙にこすって写しとり、実寸大のペーパー・ランタンとして百島に出現させるというプラン。柳は、空き家再生プロジェクト「百島銭湯・五右衛門風呂の家」ほか、島内で展開するプロジェクトの構想の一端を提示した。もちろん、アイデアの提案だけでは終わらない。このアイデアは今後2018年を目処に、実際に作品として実現される予定という長期にわたるプロジェクトの幕開けである。それにしてもこの三人、瀬戸内海に浮かぶ島の基地で、なにやら大きな企みを謀る少年のようにも見えてくる。百島に宿泊できる日がくることを楽しみに、プランの実現を見守りたい。
現代の自己同一性について考察
二つ目に紹介したい展覧会は、「N COLLECTION『テセウスの船──鏡のあちらとこちら』」。柳幸典が企画者として、尾道出身の現代美術コレクターであるN氏のコレクションのなかから選りすぐった作品を紹介する展覧会である。テーマはタイトルにあるように「テセウスの船」。ギリシアの英雄テセウスがクレタ島から帰還した船は、長期にわたり保存されていたが、時の経過とともに朽ち果ててしまった。そこで、この船を構成していたオリジナルの木材は徐々に新たな木材に置き換えられていったが、すべての木材が新しいものに取り替えられたとしてもまだ「テセウスの船」と同じものと言えるのかという「同一性」を問う伝説である。会場には、O JUN、袴田京太朗、泉啓司、生島国宜、金氏徹平らによる、おもにペインティングと彫刻(またはオブジェ)が並ぶ。多くの作品に共通するのは、人物(または人物のような形をした存在)が表されている点。また、絵画や彫刻という、描き方や木の彫り方など、作家によってそれぞれ特徴づけられる手業によって、その作品がアイデンティファイされる点。ここで紹介されている作品は基本的に、当然といえば当然なのだが、その作家でなければ生み出されえない、つまり、他者によって再現することはできない、作り手の交換が不可能という性質をもつ。
こうした「作り手(作家)」と「作られたもの(作品)」の関係性を問うに至る前提および対比として、三つ目の展覧会「特別展『斎藤義重』」そして、パーマネント・インスタレーションとしてアートベース百島でつねに紹介されている、原口典之による《物性》に目を向ける必要が出てくる。シンプルに一色に塗られた複数の板で構成される斎藤義重の作品も、巨大な鉄でできた容器とオイルだけで構成される原口典之の作品も、「テセウスの船」展で紹介されているような、その作家にしかできない技巧や術が作品を成り立たせるのではない。これらの作品においては、なによりもまずコンセプトこそが重要であり、極論すれば、作家による指示書に従いさえすれば、他者による再現も可能である。こうした再現可能な作品の「同一性」は、過去に発表した作品がさまざまな理由でのちに再制作される際、しばしば問題を露呈する。なお、「テセウスの船」展には「鏡のあちらとこちら」というサブタイトルがつく。企画者の柳によれば、人間は鏡に写った自分の姿を見て、「私」と同定するが、何をもって同じと認識しているのか、上述のような「現在のアートのあり方とパラレルに現代の自己同一性」について考察しつつ、これらの展覧会を企画したという。柳氏から企画意図を聞き、生物学者の福岡伸一氏の言説を思い出した。生物の体は、細胞レベルでつねに壊されながら新しく作り変えられており、身体の各パーツを構成する細胞はものすごい速さで入れ替わっているため、「細胞レベル」では、今日の私はもはや昨日の私と同じではなく、1年後にはまったく別人になっているという。自分の身体ながら、細胞レベルでのこうした自身の変化を私たちは意識していない(または、できない)だろう。細胞レベルではなく、例えば、物事の捉え方や世界の認識において、いまの私は数年前の私と確実に異なると意識する場合、その変化をもたらした出来事や要因は人によってさまざまだろうが、筆者は優れたアート作品との出会いも、大きな一因となりうると信じている。
最後に、百島からもうひとつ、「『日章館』こけら落とし」を紹介しておく。かつて島内に唯一あった映画館「百島東映」の廃墟を改装して「日章館」と名を改め、作品展示スペースとしてオープンさせた、ある意味、空き家再生プロジェクトのひとつである。もともとスクリーンがあったと思しき場所には、柳幸典の《ヒノマル・イルミネーション》が設置されている。アートベース百島から歩いて5分くらいのところにあるので、柳によるスペクタクルをぜひ体験していただきたい。