キュレーターズノート

YCAMアート企画プレリーディング[後半]

阿部一直(いずれも山口情報芸術センター[YCAM])/渡邉朋也

2015年12月15日号

 今回は、前回に引き続いて山口情報芸術センター(YCAM)の開催事業を、内部スタッフトークとしてレポート的に対談で紹介していく。

YCAMスポーツリサーチプロジェクト

渡邉──今回は、すでに開催中のものもあるので、プレリーディングではなくなっていますが、前回もお話しした通り、R&D(研究開発)的な進行プロセスは、企画事業全体にわたっているわけですね。ですから通常の美術展開催とはやはり、かなり異なった企画の外容であったり、進め方であったりが目に付きますが、まずは「YCAMスポーツリサーチプロジェクト」から。


YCAM Sports Research Project/2015年から始まった新しい研究開発プロジェクト。YCAMが開館以来取り組んできた〈メディア・テクノロジーと身体〉という問題を身体表現から拡張して、スポーツというより生活に身近な領域に応用していく。今年はおもに、アスリートやプログラマーなどとコラボレーションをしながら、〈新しいスポーツ〉の開発と、その普及を行なう
URL=http://www.ycam.jp/projects/ycam-sports-research-project/

阿部──僕は、前々からスポーツとアートは、すごくパラレルな部分が多いと思っていますが、その関係性を本質的なテーマとして、今後も度々取り上げていきたいと思っていますが、このプロジェクトはその前哨線みたいなものでしょうか。最近亡くなってしまいましたが、ハルーン・ファロッキの数年前の映像作品で、FIFAワールドカップ・ドイツ大会の決勝試合における出場全選手の個人の動きの個別分析とゲーム全体の俯瞰を、すべてパラレルにリアルタイムでコンピュータデータ解析処理し表示していた作品がありましたが、そこでは、最終的に生理を突き詰めた先に見えてくるはずのメンタルコンディションも、リアルタイム・データ化できないかという問いかけが含まれていた気がします。ものすごくニュー・サイバネティクスに接近したアプローチですね。
 スポーツという様式は、非常にパフォーマティブであり、あらゆる用意周到な準備を一瞬で一掃してしまうような、爆発的な破壊、創発、知見がもたらされる分野といえますね。その反面、スポーツ・サイエンスという、スポーツをどれだけ地道に細かく科学化、記録化、分析化して詰めていくかという要素があります。実際のパフォーマンスと分析が、リアルタイムで高速循環していく時代となり始めましたが、一方でディープ・ラーニングのような情報解析のなかだけで生まれる新たな知性との協働まで想定すると、その循環回路全体をさらに跳躍する新たな次元のイマジネーションが欲しくなってくるような気もしてくるわけです。ステージ・アートにも繋がることですが、ターゲッティング技術の進化によって、これからのワールドカップ、オリンピック中継などでは、俯瞰した試合中継から勝ち負けを見る目的からかなり離れて、ある選手の特別な筋肉のミクロの動きの連続性のような対象だけをセレクトできてリアルタイムで何十分も中継で見続けるみたいことも出てくるのではないかと。そしてアウトプットの解像度4K 、8Kがスタンダード化されたならば、高解像度・高フレームレートテクノロジーを通した人間の知覚、感覚的回路や運動の知覚への質、分解脳といったものが明らかに大きく変わってくるはずで、スポーツが基点になって、スポーツとアート、あるいはメディア・テクノロジーと知覚の4項関係の絡みは面白い接点を持ってくるのではないのかと考えています。もともとこのプロジェクトの発想は、超人オリンピックとか、ロボット・オリンピックみたいなものが引き金になっているのですが、その超人性が、人間のコピーや延長といった単にヒューマノイド型のロボティクスの進化の問題だけではとられきれない、実は隠れた人間の本質的なものにどこか触れているという気もします。

渡邉──超人的な判断とかムーブメントといったものは、人それぞれに微細なかたちで潜在しているというか、他者には見えないかたちで発露しているのではないかという実感があります。他者には観測できないから、自分は凡人扱いされているわけです。しかし、メディア・テクノロジーを駆使して、そういう微細な超人性を取り出して、共有できるようになると、スポーツの上達も早くなるだろうし、それ以上に、スポーツの楽しみ方も変わるのではないかという気もしますね。今回のYCAMでのイベントは、最初の2日間は、新たなスポーツ競技を提案して、内容やルールを試してみようという「スポーツ・ハッカソン」、それを受けて、そこで実装性が確保された競技をやってみるというのが翌日の「未来の山口の運動会」ですが、そこに超人スポーツ学会やニコニコ学会βなどにも協力をいただいています。

阿部──一般性の概念が変わりますね。「攻殻機動隊」ではないですが、すべての人は超人性を持ち得ているのではないか。「スポーツハッカソン」には全国から30人以上の参加応募があったということですが、ハッカソンのディシプリンの進行を見ていると、どこかトライブ的なノリがあるんですよね。かたや、小学生のサッカー・ファンのほとんどが、レアル・マドリッドのことを熟知しているような、グローバリズムが浸透している現実がありながら、このトライブによる少数共有のDIY精神がスポーツから立ち上がってくるダイナミズムがやはりあるという、ギャップに充ちた共存が面白いですね。

プロミス・パーク・プロジェクト

渡邉──次は、3年間継続的に発展させてきて、今回最終形の作品発表となった「プロミス・パーク・プロジェクト」です。


プロミス・パーク・プロジェクト/2013年からアーティストのムン・キョンウォン氏とYCAMが展開している研究開発プロジェクト。人類にとっての「公園」の役割と意味について幅広いアプローチから構想しており、新しいインスタレーション作品を制作し、2015年11月末から展覧会を開催している。下図はホワイエ床面全面を覆う絨毯のインスタレーション・ビュー
URL=http://www.ycam.jp/projects/promise-park-project/
写真提供=山口情報芸術センター[YCAM]、撮影=古屋和臣

阿部──「プロミス・パーク」は、YCAM10周年記念祭に際して開催したグループ展「アートと集合知」が発端となっていて、それ以来、研究とリサーチを継続してきたプロジェクトです。このグループ展に参加したアーティストはどの人も非常に興味深く、ほとんどがYCAMの委嘱作品だったので、すべての参加者と発展型を考えたかったのですが、とくにムンの場合は、その後、非常に多くのディスカッションを重ねてきたことで、「Park」の概念を公共空間とか近代のサンプルと見なす視点が面白くなってきて、技術開発系の展開だけではなく、「囲い込まれたもの」という意味論的な軸としての「Park」に取り組もうとしたプロジェクトです。その意味でこのプロジェクトは、ほかの企画より異なる文脈を総括していく性格を持っています。今年は、一応の完成形を試みようということで、インスタレーションとしての側面と、データベースとしてのリサーチの側面──これはパーク・アトラス(公園のアーカイヴ)という形態に結果的に進化したのですが──の二つのアスペクトから詰めていくというものになりました。

渡邉──それは単純に構成が二つあると判断していいんですか?

阿部──「公園」といってもまさに漠然としており、リサーチの要素は非常に多岐なのですが、感覚と直観性の空間化であるインスタレーションと、ビッグデータ時代のデータベースに対してどのような基準で可視性を与えるかというパーク・アトラスの問題が、相互にどのようにオーヴァー・ラップするかということですね。さらには、アーティストとラボという、二重の研究推進のエンジンに対するプロジェクト・バランスのあり方みたいなものもマネージメントの側面から重なってきます。結果的には、インスタレーションも内部的にさらに二重化し、山口県〜長崎県端島(軍艦島)をめぐる西日本の近代産業遺構を、上空からのドローンによってミニマルな移動撮影した映像作品、これは床面投影で上から観客が覗き込む形式になっていますが、いわゆる映像による絨毯ですね、それと対称的な西陣織(京都の老舗西陣メーカー、株式会社細尾とのコラボレーション)による巨大なオールオーバーに床面を覆う物質的な実際の絨毯による作品、この二要素がパーク・アトラスを前後に挟み込むような全体構成になっています。
 ムンのなかでは、近代はすでに廃墟であるというイメージが決定的にあり、そこからスタートしているという発想がプロジェクト全体を支配しているのですが、インスタレーションでは、「アートと集合知」のときに描き出した──東日本大震災の影響もあり強くイメージ化された──廃墟を経験した都市の現在が未来社会においてどのような公共性が可能になるのか、それと公共空間としての公園の可能性は何なのか、という問題がまず出てくる。廃墟は、複雑系であり、しかも空間的も時間的にもさまざまなものが織り込まれたテクスチャなのです。そこがひとつのきっかけとして、編み物のような組織に対するイマジネーションが、映像と絨毯の二重の廃墟の表現として対置されます。絨毯やタペストリーは、東洋にも西洋にもさまざまな起源があり、それ自体がポータブルなシミュラークルでもある。文脈移動可能な表象面、織物としての公園といったような発想へと繋がることを考えているのです。さらに編み目の経糸/緯糸のパターンの増殖を想定すると、アナログでありながらバイナリーの元祖であったりもする。フーコーは「ヘテロトピア」のなかで、絨毯は移動するユートピアであると見なしている事例があり、織物は非常に興味深い要素です。しかも、公園は、拡張する方向ではなく、何かを要約・跳躍する、空間を折り畳む──東洋の神仙思想では「縮地」と言ったりしますが、韓国でもこの概念がかなり強く伝搬していたらしいです──そうしたパラメータもある。折り畳む行為は織物に繋がります。
 また、公園/庭園というのは楽園思想と根源的に近くにあることは容易に察しがつきます。それはどのような文明・民族にも存在している要素であり、楽園と公共圏を繋ぐルーツも含めたリサーチ・パートであるパーク・アトラスは、膨大なデータ・アーカイブの紡ぎ出すうねりにどのような可視性、形式性やパラメータを与えるかという普遍的な課題を飲み込まねばならないことになります。アビ・ヴァールブルクの「ムネモシュネ・アトラス」やアンドレ・マルローの「ミュゼ・イマジネール」などは、美術史上真っ先に思いつくアーカイブのビジュアル化の例ですが、むしろこれらは謎を深めている例とも言えます。われわれはそこで、国際連盟を発祥させたポール・オトレの「ムンダネウム」に注目しました。オトレは「世界書誌目録」という壮大な計画を1910年代から構想し、最終的に、ル・コルビュジエを巻き込んで20年代に世界記憶都市である「ムンダネウム」を計画するのです。これは現在、ベルギーのモンスという地方都市にあるのですが──googleヨーロッパもその隣にあるので何か面白いですが──ここにも実際にリサーチに行きました。オトレは、いまではどの図書館でも見かけるカード型インデックスの世界最初の発明者なのですが、まさに20世紀の情報データベースの元祖ですね。オトレの、無限に発展する記憶史宮という空間構想は、回り回って、ニューヨークのグッゲンハイム美術館や上野の国立西洋美術館の空間設計にも影響を与えているのです。公共的都市空間と公共的アーカイブという問題は、壮大なデータベースの可視化の歴史になるわけです。「プロミス・パーク」のパーク・アトラスでは、生成的な動きをもった「ムネモシュネ・アトラス」と言うような、多様なパラメータやタグによって、公園のデータが並び替えられるプログラムを試験的に実装しました。そのデータ・サンプルとしては、ロンドンのハイド・パーク、ニューヨークのセントラル・パーク、東京の上野公園、そして山口盆地をひとつの公園的空間として見立てて、歴史的テキスト、図面、古地図、歴史的なビジュアル資料、写真、フィールドワークによる映像、そして、山口では32個の史跡的な石のモニュメントを選び、その周辺の地勢地形データとの関係、3Dモデリングデータ、表面の拡大映像などを実際にリサーチしてアーカイブし、その歴史的データベースを題材に、それらが場所別のみのカテゴリーだけではなく、共有パラメータやタグごとに比較ビジュアルとして、さまざまな仕様にシャッフルされていきます。

渡邉──今年度の事業で、作品目的にアーティストと共同作業を行なうプロジェクトはこれだけで、ひとつの大きな柱だと言えると思うのですが、それだけ位置付けは特殊だということですよね?

阿部──そういう面では作家主義的な明らかなデンスを感じさせる部分もありつつ、ラボラトリーとのコラボレーションワークという非作家主義的な要素を含めながら、両側面から進めているプロジェクトとも言えると思います。ムンには、そのような進め方を非常に深く理解してもらって、アート・プロジェクトの未来形のあり方を運営面からも提案してみようと考えているところです。つまりアウトプットを、「展示」だけではなく、「ワークショップ」「人材育成」「ラボラトリー」をフラットで等価な四位一体のものとして当初から組織化し、循環的に絡み合ったつねに更新されるものを提示していく構想です。YCAM以後の展開も考えており、巡回先でその都度リサーチが追加されていく形態になると思います。

YCAM Film Factory

渡邉──次は、「YCAM Film Factory」です。


2015年から始まった新しい研究開発プロジェクト。YCAMのプロデュースのもと、柴田剛監督の新作映画を山口で製作するほか、映像制作集団・空族が現在製作中の新作『バンコクナイツ』のメイキング映像を製作する。完成した映画は2016年に、YCAMをはじめとする国内の劇場や国内外の映画祭で発表する予定
URL=http://www.ycam.jp/projects/ycam-film-factory-vol1/

阿部──映画はいまや、大資本がバックとなっている大規模で商業志向のものから、本当に驚くほどのミニマムな予算で、監督自身がデジタル・ハンディカムで撮ってしまうようなものまで、完全に両極化現象を起こしていて、それらがある意味同列に上映されているという、配給としてもカオスになっているような分野ですよね。それはもちろん映像文化とは確かに言えるのだけれども、「映画」と定義できるものは何なのかという疑問もある。なぜ「映画」と言わなくてはいけないのか。予算と機材とスキルのサポートがあれば、映画や映像作品はつくれてしまうよねということで、ついにYCAMも、映画コミッションを開始したわけです。
 空族の富田克也さんや相澤虎之助さんの場合、タイをテーマに、さらに東南アジアの周辺地域までをフィールドワークして、文字通り現地潜入して制作しているわけですが、彼らは16ミリテイストも積極的に取り入れたりするので、東南アジア、移民、ブラックマネー、戦争、といった意味論的な主題だけではなく、リサーチ+ルポルタージュ+演出のアクチュアリティと、映像テクノロジーの組み合わせといった視点で次に何を出してくるか、それがメイキング作品や小品であったとしても、成果は非常に興味深いですね。空族の作品『サウダーヂ』『RAP IN TONDO』とか、何回見ても、結局終りまで見てしまうくらい引き込まれる面白い展開力を持ちながら、同時に非常にリアルな現実分析眼がある。実際、制作の方向から見ると、作品の存在の仕方は非常にハイブリッドになっていて、現代アートなのか、映画なのか、メディア・アートなのかわからない状況になっているというのも否めないかと思います。そうした意味ではYCAMでやる意味は好適かもしれません。この委嘱作品公開と同時に、空族によるキュレーション展も考えています。
 柴田監督は、非常にディープな映画作家であることはいうまでもありませんが、今回のUFOをテーマにしたロードムービー・テイストの作品も、予想を超える作品としてかなり期待大です。こちらがサステナブルデザイン会議でお世話になった山口の人たちを紹介したら、根底的な考え方に強調するところが多分にあったのか、結果的にロケ対象に組み込まれて、かなり盛り上がってしまったりしたこともあります。柴田作品は、これまでの作品のレトロスペクティブの定期的な連続上映の流れの延長上に、委嘱作品も公開できるのを楽しみにしています。

渡邉──YCAMの以前の例で言うと、白井剛さんの「Choreography filmed」では、ビデオダンス作品をつくりながら、その過程で撮影方法を試行錯誤したり、公開方法を試行錯誤したりして、最終的には撮影素材のすべてにクリエイティブ・コモンズ・ライセンスを付与してオンライン上で公開しました。そういう見えない部分まで踏み込んでいくかどうかという話もありそうです。ただ実際には作品自体は今年度でつくって、公開は来年度以降ですから、すぐには完成した映画が見られないんですけど、いろいろなかたちでプロセスが見えてくればいいなと思います。

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