キュレーターズノート
クロージングイベント×福岡市美術館ラストデイ&ナイト/アートフェアアジア福岡
山口洋三(福岡市美術館)
2016年11月15日号
対象美術館
福岡市美術館は、9月1日よりリニューアル工事のための休館に入っている。まだ工事は開始されてはおらず、われわれ職員は年内は館内で仕事をすることになっている。ヒマにしているのでは? と思われているかもしれないけれど(笑)、展示関係の仕事がないだけで、ほかは例年と同じ。そこに連日、作品の引っ越し作業の立ち会いと、PFI事業者との会議が加わり、実は意外と忙しい。
クロージングイベント×福岡市美術館ラストデイ&ナイト
まるで開館当初のころから現在まで経過した時計を巻き戻すかのように、館内収蔵庫では作品が梱包・搬出され、屋外彫刻もひとつ、またひとつ撤去されていく。すでに改修が完了している収蔵庫や撮影室などに、大型の作品を中心にできるだけ詰め込んで館外への搬出量を少なくし、残りを近隣他館の収蔵庫や、民間の常温倉庫に移送する。年末までには完了の予定だ。同時に、年末にはオフィスの引っ越しも開始する。どこに引っ越すかと言えば、福岡市美術館から歩いて5分程度の場所にある旧・福岡市立舞鶴中学校校舎である。約2年間の仮住まいの間に、美術館建築の工事が行なわれることになっている。
さて、がらんとしたロビーや展示室を眺めながら思い出すのは、休館前最後の開館日、8月31日のことだ。
常設展「This is our Collection/これがわたしたちのコレクション」、特別展「ゴジラ展」、クロージング企画展「歴史する! Doing history!」がいずれも最終日ということもあり、平日ながら多めの来場者を迎えていた。しかしそれはいつものありふれた光景だ。少なくとも午後3時くらいまでは、普通の様子の館内。一方、2階の広場(エスプラナード)では、前々日からイベントの準備が進み、この日に完成していた。紅白幕を巻かれた櫓から、電飾が仕込まれた提灯がぶら下がり、さながら地域の自治会主催の盆踊り大会の会場の雰囲気。そうまぎれもなく、われわれは、福岡市美術館最後の開館日を「盆踊り」で締めようとしていたのである。
正路佐知子学芸員のアイデアで、その役割はダンサー/振付師の手塚夏子氏と、現代音頭作曲家として活動する山中カメラ氏に託されることとなった。前者は、参加者数名と共に即興で振り付けと歌詞をつくり上げ、「間にあるもの音頭」を制作、披露。後者は、1カ月弱という短い制作期間にもかかわらず、作家の丁寧な取材により、見事な歌詞、メロディ、振り付けを付されて「福岡市美術館音頭」を制作。夜間開館の時間を利用してお披露目される予定となった。
このほかにも、お面づくりワークショップ、福引きなどを用意した。題して「クロージングイベント×福岡市美術館ラストデイ&ナイト」。実は予算も少なく、また開催決定がやや押したため、広報期間も短かったので、ちゃんと人が来てくれるか、関係者一同不安であったのだが、ふたを開けてみたら、イベント開始時刻の17時には、美術館ロビーは福引き目当ての行列ができ、ワークショップも大盛況。複数の地元テレビ局がTVカメラを抱えて館内を取材。市の上層部も見学に現われ、まさにお祭り騒ぎ。
そして18時すぎ。エスプラナードでは手塚夏子氏による振り付けワークショップが始まった。集まった皆さん同士のかかわりの間から生まれる言葉と動き。出来上がった「間にあるもの音頭」の歌詞を以下に記そう。
ちょっと前まで 普通でした
今でしょう 変わるのは
歩み出すぜ いくぜ
たくさん こどもが
まちがいなく オギャー といった時から
成長する 私がいる
そして19時過ぎから、山中氏の音頭取りで、「福岡市美術館音頭」のお披露目。歌詞の紹介、振り付けを即席で指導された来場者の皆さんは、時間が押して閉館時間が過ぎてしまっても帰ることなく、二度とは来ないこの最後の夕べを、美術館スタッフ、そして作家たちと楽しんでいた。その音頭を聞きたい方はこちらをどうぞ! 歌詞も書いてあるよ。
>> 福岡市美術館音頭 2016 BonDance/FUKUOKA-SHIBI-ONDO 2016
https://soundcloud.com/ymnk-camera/2016-bondance-fukuoka-shibi
振り返れば、エスプラナードでのイベントは過去にも多数行なわれてきたが、これほど、人が集い、参加し、そしてみんなで楽しんだケースはなかったのではないか。リニューアル後は「つなぐ、ひろがる美術館」がテーマとなるが、これを先取りしたかのような締めくくりとなった。やがて祭りは終わり、最後の挨拶。錦織亮介館長からは、音頭にあった歌詞と同じく「二年半後にまた会いましょう!」。
アートフェアアジア福岡
福岡市美術館の最後の開館日から間もない9月10、11日、「ART FAIR ASIA FUKUOKA 2016」がホテルオークラ福岡で開催された。購買層が極端に薄く、マーケットが成り立たないと言われる日本で、それもまだ購買層が多い東京ではなく、ただでさえ作家が生きていくのに困難で、さらに企画画廊も減少する一方の福岡市で、果たしてアートフェアは開催可能なのか? 主催者の中心人物のひとりであるギャラリーモリタの森田俊一郎氏の熱い思いを聞きながらも、筆者はそれを悪い冗談ではないのかといぶかっていたのだが、ソラリア西鉄ホテルで開催された昨年のアートフェアは、参加画廊も来場者も意外に多く、可能性を感じさせるものだった。
そして今年。筆者も客(見るだけではなく)として会場を巡った。昨年に引き続き盛況で、参加ギャラリーも増えている。表向き、これはうまくいっているのでは? という印象を抱いた。しかし、アートフェアは、展覧会と違って、売り上げもそれなりに出さなければ意味がない。つまり、数字が重要だ。この1、2回の推移を、森田氏に取材してみた。
参加ギャラリー数:1回目=27 2回目=38
来場者数:1回目=約2,200人 2回目=2,325人
参加ギャラリーが増えたので、昨年と今年とを単純に比較できないのかもしれないが、売り上げは予想を上回るものだとのこと。
しかし、参加ギャラリーからの参加料や、来場者の入場料収入、そして企業協賛などで資金を賄うが、十分ではなく、さらに専任スタッフの問題もある。自治体や企業の支援が得られ、東アジアを中心に海外での知名度や実績が伴っていけば、地の利を使っての展開が考えられるのではないか、という手応えを、森田氏は感じている様子であった。
筆者も今回は傍観者ではなく、関連イベントのお手伝いをさせていただいた。森田氏より、会場内で九州派の紹介をしたいという申し出があったので、さすがに福岡市美術館所蔵作品は貸し出しできないが、展覧会で使った多数の写真パネルならば可能なので、これらを一式貸し出し、さらにそこで、筆者が九州派についての講演会を行なった。アートフェアと九州派とは性格的に真逆で、数年前ならば絶対に結びつきようのない両者だが、時は流れ、海外から日本の前衛美術への(市場的)注目が集まっている。そうした状況のなかでのこのイベントは、案外時流にあったものでもある。まあ頼まれたので、軽い気持ちで引き受けたのではあるけれど、森田氏によれば、数あるアートフェアのなかでも、美術館の協力を引き出した例は希らしく、その意味で今回は「福岡らしさ」を出せたのかもしれない。
しかし、今後の展望を開こうとすれば、先に書いたように、支援体制の構築が必要だが、それはある程度の売り上げ、つまりお金が福岡に落ちるような仕組みと、そういった国内外の購買層へのアプローチが必須となる。ゆくゆくは福岡がアートマーケットにおける世界の中心に? アジア美術展(福岡トリエンナーレ)もミュージアム・シティ・天神も成し遂げられなかった九州派以来の夢再び!? 泡沫の夢に終わらせることなく、せめて極のひとつくらいにまでは、成長してほしいと思う。
ART FAIR ASIA FUKUOKA 2016
https://www.artfair.asia/
会期:2016年9月10日(土)〜9月11日(日)
会場:ホテルオークラ福岡9階
〒812-0027 福岡市博多区下川端町3-2
Tel.092-716-1032(ギャラリーモリタ内)
櫻井共和『零度』
人はどのようにして「画家」になるのか。同じようなことをこのレポート欄で書いたような気がするが、そのときのテーマはアール・ブリュットだったと思う。正規の美術教育を受けていない者がつくった作品をそう呼ぶ、という定義に従えば、ここに紹介する櫻井共和はアール・ブリュットの画家、ということになるのだろうが、それならば彼の父親である桜井孝身もまた、アール・ブリュットであろう。実際、九州派の時代をすぎ、米国滞在を経た桜井孝身の絵画は、晩年に至るまで膨大な量の絵画を描き続けても一向に洗練に向かわなかったがために、60年代前衛というよりはむしろアール・ブリュットといった方が早い。その父親から絵画の手ほどきを受け、彼と共に米国滞在を経験し、その後福岡で、そして2000年以降は東京で自らの画境を切り開いてきた櫻井共和を、どう評価し、位置づけるか?
おそらく、アートスケープ読者で彼のことを知る者はほとんどいないと思われる。それもそのはず。いま記したように、最近まで共和氏は福岡ローカル、それも九州派の事実上のリーダーであった桜井孝身の息子という冠つきだった。
東京で活動してすでに15年以上が過ぎた共和氏は、そうしたしがらみを離れ、ローカルのくびきからも脱しようとしている。
このたび、その共和氏が、自らの半生と絵画論を書き記した初の著書『零度』を出版した。本書のあとがきに書かれているように、共和氏に本書の刊行を薦めたのは筆者である。2010年以来の会話のなかで登場する父親との会話、70〜80年代の福岡の状況と彼自身のありようなどを聞くと、そのまま「九州派以後」のオーラルヒストリーになりそうな内容だったので、「本書いてみたらどうですか」と薦めてみた。まさか本当に書くとは!
「作品はつくり続けていればいつか誰かが見ていて、わかってくれる」となかば本気で信じている(どちらかと言えばローカルな)美術家の皆さんにうかがいたいが、自らの絵画論を、自身の半生に結びつけ、関連づけ、語ることが、できているだろうか。