キュレーターズノート
マチエールとの格闘──田口和奈/米倉大五郎 2つの個展から
角奈緒子(広島市現代美術館)
2017年07月15日号
今年もあっという間に、じめっとした重い空気がまとわりついて、じっとり汗ばむ季節がやってきた。そんな季節だからこそ、一見爽やかそうだが意外と粘度は高め、心地よい程度に頭にこびりついて離れず、作品と素材との関係を深く考えさせられる2つの個展を紹介したい。
「田口和奈 wienfluss」展
ひとつはカスヤの森現代美術館で開催中の「田口和奈 wienfluss」展。いきなり白状しなければならないが、この美術館、存在こそ知ってはいたものの、訪問の機会をもてずにいた。この機に初訪問が叶ったカスヤの森現代美術館は、横須賀市の住宅街に突如として出現する、作家の若江漢字さんが主催する私設の美術館である。私設とはいえ立派な建物は、本館と新館の2棟で構成され、ヨーゼフ・ボイス、ナム・ジュン・パイク、リ・ウファン、宮脇愛子など、現代美術という歴史におけるレジェンドたちを垣間見られる常設作品がところ狭しと展示されている。毎年5〜6本の企画展が開催される同館の、今年の初夏を飾る企画展は、現在ウィーンを活動拠点としている田口和奈の個展。彼女の日本での個展は8年ぶりという。
田口と筆者との出会いはもう10年以上前のこと、まだ東京藝術大学の大学院生だった彼女の個展を、2006年に広島市現代美術館で開催したことがきっかけとなり、それ以降、彼女の作品を追ってきた。国内外を問わず、これまでに多くの展覧会に出品している田口和奈の作品をご存知の人はたくさんいるだろう。彼女の制作は、雑誌やファウンド・フォトから、人物の目や鼻や口、肩や胸や手といった身体のパーツを選び出し、それらを組み合わせてひとりの架空の人物を描くところから始まる。その描いた人物を写真に撮り、プリントした写真を作品として発表する。つまり、彼女の写真の被写体は必ず、自作のペインティングである。この制作スタイルは基本的にいまも変わらず続けられている。
誤解を恐れずに言えば、私はかつて、田口の作品の面白さ、不可解さ、奥深さ、そして美しさは、無数のサンプルから選ぶことのできる身体のパーツを、彼女がどのように構成して人物たちを在らしめるのか、そして、その架空の人物の肖像画をどのように撮影するのか、もちろんそれだけとは言わないが、大きくはこの2つのポイントによって左右されると思っていた。しかしながらこの見解が恐ろしく認識不足で、それだけに留まるものではまったくないことを思い知らされたのは、彼女が2012年頃から制作し始めた、一連の小さいサイズの作品だった。結論から言えば、「プリント」という行為もまた、彼女の作品を大きく左右し、さらに奥深いものにする行程なのだ。
会場に貼り出されていた作家によるステートメントには、バライタ印画紙に魅せられたことが吐露されている。バライタ印画紙とは、ゼラチン液に硫酸バリウム(バライタ、バリタ)の白色結晶を分散させたものを塗布し、乾燥させた「印画紙」のことである。写真をものす者にとっては、印画紙もまた、作品の出来を左右する重要なファクターだろう。彼女曰く、「ペインティングは支持体の上にダイレクトに色と形をのせていくことでできあがっていくが、フィルムやデジタルから生まれた画像はなんらかのマテリアルと結びつかない限り見ることはできない。だとすれば、どのような素材と結びつくのかによって、その見え方が大きく変わることを意識するべきだと思っている」(先述の作家ステートメントより)。そのことをつねに心し、田口は、画像を定着させたバライタ紙から感光済みのハロゲン化銀をすべて抜き取る、カラー現像のときの現像処理を施してカラー発色させる、染料を用いて印画紙に着色を施すなど、画像と素材への果敢な挑戦を続けている。さまざまな薬品をも含む「素材」と発色との関係を追求する一連の実験を通じて、田口は自分の望む仕上がりを実現させるための方法を会得しつつあるようだ。
今回発表した新作では、さらに進化・深化した彼女の制作方法が垣間見られる。人物構成の段階において、自作の彫刻が初登場する。自作のペインティングと彫刻を1枚のフィルムに多重露光するという方法が試みられ、より複雑なエフェクトが画面を覆っている。彼女はあらゆる段階で──つまり、人物や対象を構成するとき、キャンバスにそれらを描くとき、キャンバスを撮影するとき、フィルムを現像するとき、そしてプリントするとき──、マチエールを操る。ゆえに、画面に現われているさまざまなエフェクトはどの段階で発生した(発生させられた)ものなのか、すぐには判断できない。
作家本人に確かめたわけではないが、特に2012年前後の一連の実験(マチエールとの格闘)は、田口にとって大きな転機だったのではないかと思わずにはいられない。というのも、それ以前の作品は、すべての行程において、彼女がマチエールの動きを完膚なきまでに支配しようとしていたように見えるのだが、近年の作品では、マチエールの動きに応じて自身の出方を選んでいるように見えるのだ。彼女の意図から外れて生じた偶然をなんとか排除しようとするのではなく、それらと向き合い、受け止め、そして受け入れ、自分のものにしている。田口にとってマチエールとの格闘は、偶然をも制御しうるというという自信につながっているに違いなく、その強さを湛えたいっそうの美しさが画面にみなぎっている。
「米倉大五郎─色水の折り目─」展
もうひとつの個展は、2015年9月、広島県安芸太田町に開廊したばかりの比較的新しいスペース、mm projectで先日まで開催されていた、「米倉大五郎─色水の折り目─」展である。
画廊オーナーの水野美奈子さんは、長年のアメリカ暮らしの後、出身地である安芸太田町に戻り、このスペースを始めたという。県外の人にとってはあまり馴染みのない地域だと思うが、広島県北部の山間部に位置する緑豊かな安芸太田町は、冬になると一帯が雪で覆われ、スキー客で賑わうことでも知られている。広島市内から決して近いとは言わないが、中国自動車道に乗ってしまえばたった小一時間で都会の喧騒を離れ、豊かな自然のなかでゆったりとした時の流れに浸ることのできる、エスケープには格好の場所だ。ちなみに、国の特別名勝に指定されている「三段峡」もこの地域にあり、観光も楽しめる。
米倉大五郎は、広島出身のアーティストである。広島市立大学で博士号取得後、ドイツに渡り、ベルリンを活動拠点としていたが、一昨年より地元広島に拠点を移し、作家活動を続けている。かつて米倉は、森林などの風景写真をどこにでもあるコピー機で繰り返し白黒コピーし、切り貼りするという手法で制作していた。かろうじて木々の姿をとどめつつ、断片となった風景をつなぎ合わせ、架空の風景や異様な人型をつくり出す。使用する素材を、紙とコピー機からパネルとアクリル絵具に変えて、近年は別のシリーズに取り組んでいる。研磨したパネルの上に、アクリル絵具を垂らし、絵筆の代わりとなるシリコンシートで、絵具を素早く動かして形状を生み出していく、という手法によるペインティングである。
今回発表された一連の作,品を大別すると、技法は同じなのだが、地色が白いものと黒いものに分かれる。いずれの表面も鏡面状に磨き上げられた作品は、謎の高級感を醸し出し、極めて工芸的な印象を受ける。画面に描かれたものだけに着目すると、最初はどれも身体に関わるもの──血液、内臓、頭蓋骨、骨格──を想起させる。特に黒地の作品はレントゲンかMRI画像のようにも見え、普段、私たちが見ることのできない体内に広がるミクロコスモスが映し出されているように思えてくる。画面への映り込みと戦いながら目を凝らして細部を捉えようとすると浮かび上がってくるのは、身体の末端まで血液を運ぶ毛細血管にしか見えないような物体。「A Piece of Waterfall」と題された2点の作品は、そう言われてみれば水煙を上げながら、上から下へと流れる滝のように見えなくもない。しかしながら同時に、水のように形なきものではなく、有形の構造体にも見えてくる。ちなみに、筆者が誘われた完全なる空想の世界は、蜃気楼の彼方に確認できる白砂でできた城郭のある広野だった。
これらの形象は、シリコンシートを介して画面上の絵具を掻き回すうちに立ち現われるという。とはいえ、何時間もかけてこねくり回して形成していくのではない。全体の描写に要する時間はほんの1分程度。一筆書きの要領で、手の動かし方、力の入れ具合、手を動かすスピードによって、絵具の分量や濃淡をコントロールしながら描き進め、ある瞬間に突然現われる立体感を伴った形象を見逃すことなく捉えることで、最終的な形を得る。この技法を確かなものにするまでに、パネルの研磨の程度、アクリル絵具の選定や薄め具合など、素材の試行錯誤を続けている。米倉もまた、マチエールとの格闘の末、得られた手応えと確信があるからこそ、マチエールに振り回されることなく、むしろコントロールし、向こうからふいに現われる形象を瞬間的に捕らまえることが可能となる。
同時期に見た田口和奈と米倉大五郎、2人の作品に偶然見出した共通点は、マチエールへの自信に裏づけられた強さの現われであった。
田口和奈 "wienfluss"
会期:2017年6月1日(木)〜8月13日(日)
会場:カスヤの森現代美術館
神奈川県横須賀市平作7-12-13
FOLDS OF PAINT─色水の折り目─米倉大五郎 個展
会期:2017年5月20日(土)〜6月28日(水)
会場:mm project
広島県山県郡安芸太田町加計5313