キュレーターズノート

合目的的不毛論

中井康之(国立国際美術館)

2017年12月15日号

マイケル・ジャクソンが写し出されたグラビア写真と不確定な物体。それが、澤田華の《Gesture of Rally #1712》を構成する基本要素である。その二つの要素は、全く異なる立脚点によって存在すると思われるのだが、澤田は、偶然にもその二つの相容れない要素が交差した瞬間を見出すことによって今回の作品を生み出している。

正体不明な白い物体

そのマイケル・ジャクソンのグラビア写真というのは、アメリカ、フロリダ州にあるウォルト・ディズニー・ワールドで70〜80年代にかけて催された主要なアトラクションを紹介する写真集に掲載された印刷物である。ディズニー・ワールドやマイケル・ジャクソンという対象と、作者である澤田に特定な関係性を伺わせるような説明は何も無い。要するにその印刷物は、20世紀以降にアメリカで飛躍的に発展を遂げた資本主義社会に於ける大量生産と大量消費という図式が大衆文化に敷衍した代表的エンターテインメント施設と代表的エンターテイナーであり、敗戦後アメリカ文化に追随することを志向する我が国の資本家と大衆が同時に羨望する対象を示し出す画像なのである。

もうひとつの要素である不確定な物体というのは、上記したグラビア写真のマイケル・ジャクソンの足許に写し出された大きな二枚貝状のかたちをした白い物体である。今回の澤田の作品と向き合った際、そのグラビア写真と白い物体がどのような関係性を持つのか、当初、容易には分からなかった。先のグラビア写真がディズニー・ワールドと関連していることを示すために、フロリダのディズニー・ワールドを紹介する資料とその施設で3Dによって映し出されたマイケル・ジャクソンの舞台資料等が数多く展示され、そして、それらの展示と対応するかのように、不確定の白い物体を題材としたさまざまな表現、動画や写真といった映像、素描やイラストといった画像、さらには立体化した造形物等、複数の媒体によって繰り返し表現されていた。そのような二つの素材が相対化されることによって、その関係性が等しい価値を持つものとして感覚的に受け止めることができるように配置されていた。

本作のタイトル「ラリーの身振り(《Gesture of Rally #1712》)」は、澤田によれば、「正体不明の物体を巡って繰り広げられる、不毛なラリー」を意味しているという。もちろん「不毛な」という形容は、このような表現に対するシニカルな物言いだろう。辞書に「不毛」が意味するのは「なんの進歩も成果も得られないこと」とあるように、その言葉は生産性を求める実利的な観点に立つ。澤田が、この作品の中で「不毛なラリー」を繰り返しているのは、正体不明な白い物体の映像をサイズや画像の質に変化を加えてさまざまに名称を代えていく、記号学的にいえばシニフィアンの随意性を示すような、映像であるのだが、しかしながら、その不毛な行為の連続によって、澤田の作品の独自性を保証されていることもまた事実であり、また、澤田が参加していた今回の企画展のタイトル『合目的的不毛論』につながるのだろう。


澤田華《Gesture of Rally #1712》展示風景
撮影:表恒匡


澤田華《Gesture of Rally #1712》
撮影:筆者


「不毛」なイミテーション・アート

同企画展には、同時に菊池和晃による、ジャクソン・ポロックに対するシニカルな観点による作品、大前春菜によるソフト・スカルプチュアを思い起こさせるような形状を有した作品が出品されていた。二人とも美術理論とは関係性を持たないといった趣旨の発言するのだが、20世紀後半の重要な美術動向を参照していることは事実であり、そのような動向を支えてきた、あるいは擁護してきた理論等とも無関係であると言う事は難しいかもしれない。

菊池の作品《抵抗》は、ポロックのドリッピング、あるいはポーリング技法によるオールオーヴァーな抽象絵画を模した作品である。作品の隣に制作風景を撮影したモニターが設置され、そこに写し出された動画によれば、大きな布の下から黒い絵の具を塗ったボクシング用のグラブでパンチを繰り出すことによって描いたということが分かる。もう一点の《アクション》という作品は、数色の絵の具が塗られた複数のボクシング用グラブが左右に設置された巨大な装置の中を作者が通り抜けることによって作者の衣服に飛び散った絵の具の痕跡も、ポロックの作品と何らかの関係性を持つと作者は意図したらしい。

しかしながら、このような無謀とも言える、文字通り体当たりともいえる表現行為は、ポロックというよりネオ・ダダの旗手「ギューチャン」こと篠原有司男を思い起こさせる手法だろう。ボクシング・ペインティングのことだけを指しているのではない。ギューチャンがその初期にロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズの作品を模してつくったイミテーション・アートを思い起こさせるからである。ポロックの作品とは似ても似つかない《抵抗》は、ラウシェンバーグやジョーンズの作品とは似ても似つかないギューチャンのイミテーション・アートを標榜した作品であるとするならば、その「不毛」なポロックのイミテーション・アートは「合目的性」を獲得するのかもしれない。


菊池和晃《抵抗》
撮影:表恒匡


菊池和晃《アクション》
撮影:表恒匡

大前が発表した作品は、先にも記したように柔らかい形態感を持つ硬質な素材による作品である。ソフト・スカルプチュアといって良いかどうか躊躇するが、草間彌生の初期作品に無数のファルスを用いた作品がある。そのような作例が、モニュメント状の巨大なパンプキン彫刻といった有機的な形態を生み出す遠因になっただろう。

ところで、大前の作品が柔らかい質感を感じさせる箇所は、ある枠からはみ出そうとする歪んだ形態である。そのような形態に相似した部分を持つ作品としてよく知られているのは、ハンス・ベルメールの球体関節人形と称される作品群に見ることのできる細い紐で拘束された肉体表現である。彼は自ら語っている「その生贄を変形するために、太腿、肩、乳房、背中、腹を針金でぎりぎりに引き締めて盲滅法十重二十重に縛りくくり、ふくれ上がった肉の詰め物、不規則な、球形状の三角形のかずかずをこしらえ上げ」(ハンス・ベルメール『イマージュの解剖学』種村季弘・瀧口修造訳、河出書房新社、1975、p.155)、見たこともないような乳房状のはみ出した柔らかい質感を想像させる形体を生み出したのである。ハンス・ベルメールの作品は日本の人形作家に影響を与えた等の矮小化された言い方が為されることがあるが、その特異な表現は、マグダレーナ・アバカノヴィッチの人体表現等に継承されていったと考えることもできるだろう。

大前が以上のような肉体の拘束という歴史的な経緯からは距離を持ち、変形し、歪んだ柔構造による形態自体を求めるという行為が「合目的性」に結びつくことを期待したい。


左:大前春菜《play castle》 右:《play pretending-2》
撮影:表恒匡

若手芸術家支援企画1floor 2017「合目的的不毛論」

会期:2017年11月18日(土)〜12月10日(日)
会場:神戸アートビレッジセンター
神戸市兵庫区新開地5−3−14/Tel. 078-512-5500

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