キュレーターズノート
七搦綾乃「血のつながった雫」
角奈緒子(広島市現代美術館)
2018年04月15日号
早いもので今年も3ヶ月が過ぎた。なにかと慌ただしく殺伐とした雰囲気になりがちな年度末の楽しみといえば観桜。広島市現代美術館のある比治山も、市内花見の名所のひとつとして知られており、年に一度この時期だけ、景色がすっかり変わってしまうほどに多くの人でごった返す。晴れの日が続いた今年も比治山は昼夜を問わず多くの花見客で賑わったが、それにひきかえ美術館の中では閑古鳥が鳴いていた。桜を愛で、春の訪れを喜ぶ心の余裕があるならば、いっそ「ついで」で構わない、芸術に触れ、心豊かに新年度を迎えようという発想を、人はもち得ないものなのか。
今年度最初となる本稿では、「広島芸術センター」で開催された七搦(ななからげ)綾乃の個展を紹介したい。七搦は広島市立大学で彫刻を専攻し、大学院修了後も広島を拠点に活動する彫刻家である。近年には「第10回 shiseido art egg展」(資生堂ギャラリー、東京、2016年)、「BankART Under 35/2017」(BankART、横浜、2017年)など、広島以外の場所で個展が開催されたこともあり、彼女の作品は多くの人に知られるところとなったのではないだろう。
筆者が彼女のことを知ったのはもうずいぶん前のこと。彼女が市大の仲間たちと共同で立ち上げた「広島芸術センター」で会い、「ナナカラゲさんです」と紹介されたことを覚えている。本人は大変礼儀正しく、会話での受け答えも極めてきちんとしており、その立ち居振る舞いから、作家ではなくスペース運営の役割を担っているのだとすっかり思い込んだのだが、「いやいや、そうではなくて彼女も彫刻を制作しています」と訂正されたのだった。
そんな七搦の作品を意識して鑑賞したのは、彼女が母校市立大学の助教に着任した2015年に、広島市立大学芸術資料館で開催された新任教員たちの作品を紹介した展示だった。いくつか展示されていた作品の中でも、干からびたバナナの皮(だったと思う)を彫刻した作品に衝撃を受けたことを今でもよく覚えている。それが本物のバナナであるはずがないのに、「バナナの皮が干からびたらこう見えるに違いない」というものにしか見えず、つまり、私の目(と脳)はそれを木彫としてとらえることがなかなかできなかったため、戸惑いと焦りを覚えたのだ。それほどまでに、木彫の放つ質感だけでなく木理や色合いまでもが、リアルに干からびた感じを表していた。
七搦は、私たちをとりまく自然や自然現象に魅了され、それを木彫で制作しているという。といっても、自然現象のありさまを見えたままに表現するのではない。あくまで干からびた果物や植物を模刻するという表現手段をとる。今回、6年ぶりとなった広島での個展「血のつながった雫」でも、七搦の手によって彫りだされたさまざまな干からびたものが展示されていた。
最初の展示室では、《Non sine solo iris.(太陽無くして虹は無し》という同名の4点(3点が彫刻、1点はドローイング)が展示されており、彫刻のうち2点は輪切りのパイナップルが、1点は大根がそれぞれ干からびたものを参照して彫られているという説明を受けすぐさま納得。なるほどこっそり脳内で色をつけてみれば、ドライフルーツと巨大なたくあんに見えなくもない。七搦作品の魅力のひとつは、参照する対象の特異さにあるといえるだろう。シワシワで得体の知れない物体の素性が明かされたとたん、思わず笑みがこぼれてしまう。とはいえ、ただのおかしみにとどまらせない。「どうして『そんなもの』に魅かれるのか」、観者は多少なりともそのことを考えさせられることになる。
しかしながら、作家の高い観察力と、見出したものへの素早い反応の力に基づく着想や発想力だけでは、作品は生まれてこない。素材に向き合う真摯な姿勢と、目指す表現を可能にする技術の高さも彼女の作品の魅力を支えている。七搦の作品キャプションには、素材としてただ「木」と記されるのではなく、「樟(くす)」「紫檀(したん)」「槐(えんじゅ)」など、必ずその種類までもが明記される。その情報によって改めて、それまでは深く考えたことすらなかった樹木の特徴が気になり始める。紫檀はその芳香からローズウッドと呼ばれるし、槐の蕾を乾燥させたものには止血作用があるらしい。樟の枝葉からつくられる樟脳は防虫剤として使用される。もしかすると、こうしたそれぞれの木がもつ効能を意識した上で木材を選択し、なんらかの暗示を意図しているのかと思い作家に確認してみたが、私の単なる深読みだった。素材の選び方はむしろ非常に素直で、木の柔らかさ/硬さといった扱いやすさ、彫出すものの仕上がりを左右する木理の細かさなどを考慮しているという。道具については、鑿や彫刻刀だけでなく、一般的に木彫には使われないような道具を直感的に手に取って、木と格闘しているそうだ。水分を失い、縮んでしわくちゃになった干物の質感はこうして生みだされる。
もうひとつの展示室には、大きな骨のような作品が3点並んでいた。近寄ってみるまでもなく異様さを放っていたその木彫に近づくと、片方の先端は珊瑚に、中央部分は大腿骨のように、そしてもう片方の先端は雄しべの柱頭に見えなくもない。少なくとも筆者にはそう見えたそれぞれは、個々にはこの世に存在し、なんら珍しいものでもないが、七搦によって結合され一体となって姿をさらしているがゆえに、より一層の不気味さをまとうこととなる。いわばこの邂逅を作家は「ハイブリッド」と呼び、「(それゆえの)新奇な美しさ、逞しさと、交配の過程で失われる親のもう半分に対する喪失感がある」と語っている。正直なところ、種を残すことを前提とした交配の発想こそ、私はもちえなかったものの、アンドロギュノス的な混淆を想起させるあたりにもまた、七搦作品の魅力といえるだろう。
七搦はこの数年でめきめき頭角を現してきていると思う。今回、作品たちは明らかに鑑賞者を挑発していた、「どうぞじっくり見つめてください、できるものなら」と。私は確かに、作品を直視できるか否かを試されていた。不意な結びつきに起因する異形ゆえひるみそうになるものの、ほぼ同時に感じる胸騒ぎがすぐさま、恐いもの見たさを誘発する。私の前にあるのは、目を背けさせてしまうほど醜く恐ろしいものではない。むしろ見る者を惹きつけて止まない美しさをあわせもっている。そのことを直観させる力さえ感じられる。なにかとなにかの間の、ギリギリのところで成立している危うさこそが、彼女の作品の最大の魅力かもしれない。今月末からは金沢21世紀美術館での個展が控えている七搦。今後ますますの活躍に期待したい。
最後にひとつ宣伝を。
広島市現代美術館で2008年から継続しているビデオアートプログラム「世界に開かれた映像という窓」をご存知だろうか。もう10年以上も続くこのプログラムでは、世界中で「映像」という手段を用いて制作するアーティストの作品を紹介してきた。比較的若手作家を取り上げることが多かったこともあり、過去に紹介したアーティストの中には、めまぐるしく跳躍した人も含まれる。2011年に、第23回を飾る作家として《NIGHTLESS》を上映した田村友一郎も、そうした作家の一人である。昨年は「ヨコハマトリエンナーレ2017ヨコハマサイト」、「日産アートアワード2017」、小山市立車屋美術館での個展「試論:栄光と終末、もしくはその週末/Week End」と、まるで田村イヤーといっても過言ではないほどの活躍だった。今回、広島市現代美術館では、飛ぶ鳥を落とす勢いの田村と、車屋美術館での個展の仕掛人(ゲストキュレーターとして)ともなった、インディペンデント・キュレーターの服部浩之の両氏を迎えて対談を開催する。「エイコウ」と「シュウマツ」をめぐる、まるで連想ゲームのような知的な言葉遊びを経ていかに作品へ、そして個展へと結実していったのか。作家とキュレーターという立場からそれぞれお話いただく機会をどうぞお見逃しなく。
「血のつながった雫」七搦綾乃
広島芸術センター
2018年3月21日(水・祝)〜4月1日(日)
「田村友一郎×服部浩之 対談&作品上映」
広島市現代美術館 地下1階ミュージアムスタジオ
2018年4月21日(土)14時〜16時