キュレーターズノート

その地域で生きる身体の、それぞれの尺度──生きる私が表すことは。/糸島芸農2021

正路佐知子(福岡市美術館)

2021年11月01日号

今秋九州ではいくつも現代美術の企画が行なわれている。すべてを見て回ることは難しいが、そのなかで訪れることができた二つの展覧会を紹介したい。両展ともにこの世の中を覆う息苦しさについて考え、一般論ではなく自分の足元を見つめるところから問いを立ち上げ、鑑賞者にも問いかける好企画であった。また、美術館や大きな団体による企画ではないにもかかわらずキュレーターやアーティスト、市民が協働し、展覧会を実現させている点でも目を引いた。

現代美術展がほとんど開催されてこなかった鹿児島で──「生きる私が表すことは。」

土地の空気と状況を変えていくために

現在、鹿児島市立美術館で「フロム・ジ・エッジ──80年代鹿児島生まれの作家たち」というグループ展が開催中だ(2021年11月7日まで)。同館では、現代美術展枠としては14年ぶり、現役作家展としては20年ぶりであるという。同展では、ジャンルも視点もさまざまな鹿児島出身アーティスト7名(髙橋賢悟、芳木麻里絵、篠原愛、宮内裕賀、今和泉隆行、七搦綾乃、篠崎理一郎)の新作を中心とする活動やその世界観を知ることができる。

もちろん、美術史に名を刻んだ「巨匠」たちの仕事を知ることに意義はある。過去の仕事を研究の蓄積と現在の視点から読み直すことも重要である。しかし、もしも、すでに評価を得たものしか提供されなければ、新たなものをつくり出そうという動きもそれを形にしようという勇気も生まれないのではないだろうか。そしてその芽を育てようという力も生まれ難いのではないだろうか。美術館で20年ぶりに現代美術展が開催されたことで、今後、作家や美術関係者だけでなく、鑑賞者側にも変化が生じるのではないかと期待する。


[撮影:リアライズ]


田川市美術館学芸員を経て、鹿児島を拠点に活動を始め7年になるインディペンデントキュレーター・原田真紀は、新しい試みも、意見を口に出すことも容易ではないというこの土地の空気と状況を少しでも変えていこうと、2018年に分野を超えた学びの場として「つくる学校」をメンバーと立ち上げ活動してきた。そして今回、先述の「フロム・ジ・エッジ」展の開催に合わせ、「かわるあいだの美術実行委員会」を発足し、現代美術展「生きる私が表すことは。──鹿児島ゆかりの現代作家展」(会場:長島美術館)を企画した。鹿児島出身あるいは鹿児島を拠点に活動する若手作家のなかで、この地域が抱える問題を共有しながら、表現することについて一緒に考え、そして世に問うことができる作家に声をかけていったという。そうして集まったのが6人の作家、大人倫菜、木浦奈津子、佐々木文美、さめしまことえ、田原迫華、平川渚である。偶然にも全員女性となったが、それは日頃息苦しさを感じ、自分たちの活動がこの状況に変化を起こすはずだと信じ、表現を続けてきた者たちであり、原田の思いと共振したからだろう。英題「We know more than just the names of flowers.」は6年前に鹿児島である男性が発した言葉「女の子にサイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか」への応答でもあるという。


展示風景(左:木浦奈津子《こうえん》《うみ》《やま》/右:田原迫華《はじまりのモニュメント/世界を感じるために》)[撮影:リアライズ]


大人倫菜《スーパー科学者マリーの世界》[撮影:リアライズ]


展示室の生と死

展示作品からいくつか紹介しよう。

久しぶりの現代美術展への参加となるさめしまことえ(浦田琴恵)は、日頃感じてきた性別役割分担への疑問を作品化した。壁面は、何かを握る動作をする人物の上半身が描かれたイラストで埋め尽くされている。外見的記号からは性別を読み取るのは容易ではないが、これはさめしまが出版業の仕事のなかで目にする機会のあった、銃後の女性たちを捉えた写真から彼女たちの表情をスケッチしデフォルメし作成したものだという。戦時下の生活のなかで一瞬を切り取られた素の表情とでも言おうか。

女性たちが何を握っているかについては《にぎい、こん!》というタイトルがヒントとなる。「にぎい」とは握るの意、「こん」には切り込む、揉み込むという意味であるという。さめしまがテーマとしたのは、日常生活のなかで当然のように女性の仕事とされてきた運動会でのお弁当づくりであった。性別役割分担に疑問を抱いていても、料理をしたくなくても、人と違うことを行なうのを嫌がるこの社会では逃れることのできないものであるという。さめしまもおにぎりを握ることにもいつしか慣れ、続けるうちに上手になってしまったという。新しいことに着手することも、周囲と異なる行為をも許さない社会を、戦時下の銃後の女性たちが置かれていた状況に重ねている。壁の手前には玉入れのカゴが立つ。鑑賞者は会場で、新聞紙を丸め、黒いテープで留め、疑似おにぎりをつくり、運動会の玉入れさながらカゴに投げ入れられるようになっている。つくったおにぎりを投げてしまうことも、展示室で物を投げることも、普段できる行為ではない。


さめしまことえ《にぎい、こん!》[撮影:リアライズ]


「生きる私が表すことは。」という問いかけでもある展覧会名とテーマは、作家側にも自分の立ち位置について、作品について見つめる機会となった。かぎ針で糸を編んでゆき空間に展開するインスタレーションや、手編みによってつくられたものをそれにまつわる記憶や物語とともに集め、毛糸をほどき再度編み直してゆく作品を発表してきた平川渚は、これまでの活動において自分は媒介者であるという意識が強かったという。しかし今回、自分を出発点に置き、新たな作品を実現させている。《目の前の現実に針を刺す》は、透明なビニールシートを支持体に、平川が針を刺し、白い糸で縫っていく行為を見せるパフォーマンスである。出来上がったものよりも、針を刺してゆくアクションを見てほしいと語る平川は、会期中会場で黙々と目の前の現在の風景と自分の関係を刺繍によって記録していく。この行為は同時に、この1〜2年で頻繁に見かけるようになった飛沫飛散防止に使用されるシートに小さな穴を無数に開けてゆくことでもある。それはコロナ禍で図らずも顕在化した、幾重にも立ちはだかる目には見えない息苦しい壁に穴を開けていくことを意味してもいるだろう。


平川渚《目の前の現実に針を刺す》[撮影:リアライズ]


平川渚《目の前の現実に針を刺す》[撮影:リアライズ]


劇団「快快」のメンバーで舞台美術家としても活動する佐々木文美は、鹿児島出身で、現在鹿児島を生活拠点としている。しかし鹿児島で発表をする機会はこれまでほとんどなかったという。舞台美術家として場をつくり、その場に居合わせる人たちをいかに作品と出会わせるかを考えてきた佐々木は、平川と同じく、展覧会のテーマから「私」をスタートに据え、「部屋の観察」と題し、初めて付き合うことになった展示室という空間から始めるレクチャーパフォーマンスを行なった。準備段階で何度も書き換えられた台本が掲示され、そしてテーブルでもその過程の資料が並べられている。この台本に従いながら佐々木は参加者といくつかの動作を行ない、思考を重ね、この空間との距離を測ってゆく。30分間のパフォーマンスのなかで、佐々木は逡巡しながらも、会期という断絶が不可避の展覧会がいくつも生まれては消えてゆくこの展示室を、生と死が往還し、新たな生がいくつも生まれ得る場として捉えることを提案する。それはようやく変わろうと腰を上げた者たちにとって、そしてこの機会を待っていた多くのものたちにとっての「希望」の宣言のように思われた。


佐々木文美のレクチャー・パフォーマンス〈部屋の観察〉


生きる私が表すことは。──鹿児島ゆかりの現代作家展

会期:2021年10月16日(土)〜10月24日(日)
会場:長島美術館 別館B1F
公式サイト:https://ikiruwatashi.jimdosite.com/


新・身体尺度──糸島芸農2021

コロナ禍で顕在化した諸問題

社会の規範化という大きなものに巻かれないために、「私」という身体を見つめ思考することから始めようという視点・姿勢。それは、「糸島国際芸術祭2021 糸島芸農」のテーマとも重なり合っていた。福岡県糸島市二丈地区を舞台に、美術家・松崎宏史を中心に「糸島の自然が豊かな土壌を作り農業を育んできたように、この芸術祭が文化・芸術を育む土壌でありたい」という思いから2012年にスタートし、2年に一度開催されてきた糸島芸農は今回、第5回目を数える。松崎は糸島の二丈地区を拠点に、絵画教室とアーティスト・イン・レジデンスStudio Kuraを運営しており、この地域の人々に現代美術と世界中からやってくる美術家たちとの出会いをつくってきたが、「大きな助成金に頼ることなく」、福岡の美術家や糸島市民、ボランティアとともにつくり上げてきた糸島芸農も、以前と比べこの地に根付いた印象がある。

当初は2020年5月の開催を予定し、2019年春には「等身大の私たちの生活から地続きに、アーティストたちがそれぞれの表現を展開します。点在するアート作品を巡り、作家の思考の軌跡を辿ることで、自と他を知り、対話を促す機会に出来れば」という考えのもと、「身体尺度(ヒューマンスケール)」というテーマが決定していた。しかしコロナウイルス感染症の流行により延期を余儀なくされ、2021年10月16、17、23、24日に第5回展の開催が実現した。いまから2年以上前に設定された「身体尺度」というテーマには、新たに「新・」の文字が付け加わり、コロナ禍を経て一変した私たちの生活に徐々に浸透していった「ソーシャルディスタンス」「マスク」「オンライン」を逆照射するものにもなった。コロナ禍で顕在化した問題は、パンデミック以前から、私たちの生活に内在していたものでもある。


グローバルな価値基準の危うさ

「糸島芸農2021」のゲストアーティストは、アイルランドのベルファストを拠点に国際的に活躍する増山士郎である。九州では初の作品発表となった今回、増山は2012年から2015年にかけてアイルランド、ペルー、モンゴルにおいて現地の人々とともに行なったプロジェクト《Self Sufficient Life》の集大成を披露した。

消費社会、資本主義社会のなかで衰退していく伝統産業への注目に端を発するこのプロジェクトは、アイルランドの昔ながらの羊毛繊維産業を主題とする《毛を刈った羊のために、その羊の羊毛でセーターを編む》(2012)、ペルーの標高4900メートルの高山地帯で生きる遊牧民の家族の協力のもとで自給自活的生活を経験しながら行なった《毛を刈ったアルパカのために、そのアルパカの毛でマフラーを織る》(2014)、遊牧民が国民の過半数を占めるモンゴルで、現地の遊牧民とともに取り組んだ《毛を刈ったフタコブラクダのために、そのラクダの毛で鞍をつくる》(2015)で構成される。その手法はユーモアに溢れているが、あらゆる命への敬意と、伝統的な営みへの敬意をも感じさせる。現地の人々から技術的協力を得ながらも、すべての作業を自分の手でもまずはやってみる増山の制作態度は、「身体尺度」というコンセプトが、グローバルな問題に直結しうることをも示していた。


増山士郎《Self Sufficient Life》展示風景


増山士郎《Self Sufficient Life》展示風景


糸島芸農の運営メンバーでもあり、初回から出品作家としても参加する牧園憲二は、今夏同じく糸島を生活拠点とするダンサー・手塚夏子が始めた新プロジェクト「実験の伴奏」に名乗りをあげ、新たなシリーズに着手している。8月末には手塚の協力のもと、より良い世界を目指すため国連で採択された「持続可能な開発目標(SDGs)」のなかで原発や核問題が都合よく排除されていることに着目したレクチャーパフォーマンスを披露した。

糸島芸農では、近年政府が進めている「明治日本の産業革命遺産」に注目した。世界遺産は、「地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から現在へと引き継がれ(中略)現在を生きる世界中の人びとが過去から引継ぎ、未来へと伝えていかねばならない人類共通の遺産」であるとされる(日本ユネスコ協会連盟のサイト参照)。しかし、近代日本の産業遺産を世界遺産に登録しようという運動のなかで、背景にあるはずの日本による東アジア支配や、韓国や台湾の人々の徴用については言及されることがない。都合よく歴史を歪曲し、日本が誇るべき宝として価値づけようとする動きに対する疑念から、牧園は《推奨された価値基準》と題する作品のなかで、「糸島二丈松末の文化遺産を世界遺産に登録する会」という架空の組織をつくり、既存の組織が用いてきた話法を分析し、そのやり方に則って、糸島の風景をユネスコが推奨する価値基準に無理やり当て嵌めていく。Studio Kuraでは「糸島二丈松末の文化遺産を世界遺産に登録する会」の情報センターの機能を持たせ、映像とテキストで、糸島と豊臣秀吉のアジア侵略との関係、炭鉱地との関係、玄海原発などをめぐる事実を巧妙に用語を変えながら、日本そして糸島の歴史と現状を讃える語りに変えてゆく手続きを見せている。蔵を出て、他作家の作品を見ながら街を歩き、山に入るなかあちこちで出会う看板には、何気ない糸島の日常風景をユネスコの価値基準で評価する文言が記されている。もはやこじつけでしかないようなその語りはユーモアが滲むが、同時にあらゆるものを「人類の遺産」「宝物」として扱うときに生じる歪みも炙り出している。


牧園憲二《推奨された価値基準》


牧園憲二《推奨された価値基準》


牧園憲二《推奨された価値基準》



生活者の視点とジェンダー意識/「歩幅」という尺度

今回3回目の参加となる渭東節江は、「身体尺度」というテーマから、日常的に身体に降りかかるまなざしの暴力への抵抗を主題に《プラカード2021 ~じろじろ見ないで、話を聴いて~》と題する作品を発表した。福岡の現代美術家・田部光子が1961年に制作した《プラカード》(5点組。うち3点が東京都現代美術館所蔵、2点が福岡市美術館所蔵)へのオマージュ作品でもある。

田部光子は1957年に岩田屋争議でロックアウトを経験しているが、《プラカード》制作の直接のきっかけとなったのは1960年安保や三井三池闘争での組合側の敗北であるだろう。敗北の原因を探るなかで、田部は旧態依然としたプラカードの見直しを思いつき、板ではなく正方形の襖を支持体に、文字ではなくイメージと身体の痕跡を重ねた作品を発表したのだ。田部の活動の根幹には、田部が当時所属していた前衛美術グループ・九州派の活動コンセプトでもある「生活者の視点」と、20世紀に生きる女性として田部がずっと抱いてきた「ジェンダー意識」も指摘できる。

田部が60年前に示した問題提起とオルタナティブの提案への共感とともに、2020年代の新たなプラカードを提案すべく、渭東は田部の《プラカード》のデザインを踏襲しながら、用いられたイメージを現代の女性イメージに置き換え、布に転写した衣服=プラカードを制作。それを身に纏い、岩田屋百貨店(福岡市、天神)前でひとりデモパフォーマンスを行ない、その写真記録を掲示した。


渭東節江《プラカード2021~じろじろ見ないで、話を聴いて~》


渭東節江《プラカード2021~じろじろ見ないで、話を聴いて~》


福岡を拠点に活動する美術家・鈴木淳も糸島芸農の常連である。今回出品された《つりびとのゆめ》は、スタート地点から里山に張り巡らせた釣り糸に見立てた白い紐を辿っていくなかで、作家が仕込んだちょっとした変化に出会うインスタレーションだ。2018年の前回展でも同タイトルの作品を発表していたが、内容と展開場所を変え新たに構成された。

スタート地点で手にする配布物には、メモ程度に記された地図とそれぞれの作品タイトル、鈴木の身体尺度すなわち歩数のみが記されている。本作を鑑賞するには、その地図と白い細い紐を手がかりに、人の気配のない山に足を踏み入れ、自分の歩数だけを頼りに登ることになる。あまりにもささやかに置かれた人工物は「なぜここにいるのかわからない」不可解さと違和感を湛えてはいるが、あまりにもささやかなために、すべてを見つけ出すことは容易ではない。見つけることのできた「作品」には、孤独に山を登る「私」を投影してしまい妙な親近感が湧いてくる。本作の鑑賞体験は、歩幅が一人ひとり異なることを意識し、まさに「私」の「身体」と向き合うものであった。


鈴木淳《つりびとのゆめ》より「②はなはな」


鈴木淳《つりびとのゆめ》より「⑧なぜ、ここにいるのか私にもわからない…」


 鈴木淳《つりびとのゆめ》より「⑨ひとりぼっちの愛」


糸島国際芸術祭2021

会期:2021年10月16日(土)、17日(日)、23日(土)、24日(日)
会場:福岡県糸島市二丈松末、深江地区
公式サイト:https://www.ito-artsfarm.com/