キュレーターズノート

語りの複数性──わからなさとともに在ること

田中みゆき(キュレーター/プロデューサー)

2021年11月01日号

展覧会「語りの複数性」は、固有の感覚や経験に裏打ちされた表現や、他者の経験する現実を自らの身体をもって受け取り、表現する試みを扱う展覧会である。落語をとらえた写真や、音から想起されたドローイングなど、各作品には何らかの空白があり、それゆえに受け取る人が想像せざるを得ない部分があるのも特徴だ。この展覧会は、私たちが世界をとらえるうえで逃れられない固有の体と感覚、そして経験や記憶といったものから生まれる表現を“語り”として、その複数のありようが共存する場として企画した。ここでは、当初は自分でもわからなさを抱えながら進めてきた展覧会が、「多孔的自己」や「エンパシー」「ネガティブ・ケイパビリティ」といった概念に触れることで形づくられていった過程を記したいと思う。


「語りの複数性」展 会場外壁 大森克己《心眼 柳家権太楼》[撮影:木奥恵三]


空白=カイロス的時間と多孔的自己の装置として

本展は、言わずもがな、多様性のあり方についてのひとつの提案として企画した。同じ物事は人の体の数だけ多様に受け取られ、自分以外の複数の可能性が常に存在していることを意識する機会となればという思いからだった。違いがあるのは障害があるから、あるいは属性が違うからということではなく、それぞれが当たり前に異なる世界を持っていることに想像を巡らせられるかが、これからの共同体が持つべき、あるいは回復すべきキャパシティではないかと考えた。物事のさまざまな見方を提示することは常に私が興味を持ち実践してきたことだが、展覧会としてどのように実現するかに思い至ったのは、小島美羽の書籍『時が止まった部屋』(原書房、2019)、そして大森克己の『心眼 柳家権太楼』(平凡社、2020)に出会ったことだった。

小島は普段、特殊清掃や遺品整理の仕事に携わっている。そして、日々さまざまな現場に立ち会うなかで、いわゆる“孤独死”とされるものが誰にでもいつでも起こりうる身近なものであると感じるようになった。しかし、それを写真で伝えても、直視できない人もいる。プライバシーの問題もある。そこで、ミニチュアで伝えることに思い至ったそうだ。数年前にメディアで話題になったとき、それらは「現場を忠実に再現したミニチュア」と報道されていた。しかし話を聞くと、それはひとつの現場を資料を見ながら忠実に再現したものではなく、いくつかの現場の要素を抽出し再構築したもの、つまり小島によって語り直されたものであった。

『心眼』は、三遊亭圓朝が全盲だった実弟の三遊亭圓丸の実体験をもとに制作した演目とされる。しかし、差別表現を含むため今は放送でも寄席でもなかなか見る機会がない。それを柳家権太楼が演じるのを見た大森は、一部始終を写真に収めようと思い立った。声が大きな要素である落語は写真には撮れないが、物語を運ぶ乗り物として落語家の体を撮ることはできるかもしれないと思ったという。落語は同じ演目でも演じる落語家によってまったく異なる語りが立ち上がる表現である。さらに寄席ではなく真っ白なスタジオで撮られること、さらに写真と写真の間に時間的空白が生まれることで、『心眼 柳家権太楼』は、大森(そしてデザイナーの山野英之)によって解体・再構築されたものとなっていた。

小島の作品も大森の作品も、語り直されることによって、現実そのままではない空白ができ、見る者を想像へと誘う。それはフィクションが持っている、間主観的時間・空間を作る力である。『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021)で小川公代は、かつてジョルジュ・アガンベンが主張した「クロノス的時間」そして「カイロス的時間」について言及している。「クロノス的時間」は客観的で連続的に進行するのに対し、「カイロス的時間」は身体を伴って経験する主観的なもので、想像世界が育まれるという。本展の作品における空白は、鑑賞者にとってカイロス的時間を作る可能性を持っている。そして、その可能性をできる限り広げるような展示空間が、中山英之によって入念に設計された(文末の動画「展覧会『語りの複数性』プレトーク」を参照)。

また、小川は「カイロス的時間感覚は、身体感覚を媒介としながらも、必ずしも外界の物理的な状況によって支配されない、ある種、スピリチュアルな、あるいは多孔的自己である」とも書いている。小川によれば、新自由主義で重んじられてきた「自律した個」に対して、「多孔的自己」は、緩やかな輪郭を持ち、内的世界と外的世界とを行き来するような、通気性のよい自己らしい。音を聴いて浮かぶ情景や色彩を記録する小林紗織の「score drawing」は音そのものは記録されず、自身の「聞こえ」と「響き」から普段聞こえない音を現前させる山崎阿弥のサウンドインスタレーションは視覚情報が伴わない。この2作品は異なる方向からのアプローチながら、多孔的自己を媒介して、音が見えるものや聞こえるものに翻訳されている。



小島美羽 会場風景[撮影:木奥恵三]



小島美羽《ごみ屋敷》[撮影:木奥恵三]



大森克己《心眼 柳家権太楼》会場風景[撮影:木奥恵三]



小林紗織《私の中の音の眺め》会場風景[撮影:木奥恵三]



山崎阿弥《長時間露光の鳴る》会場風景[撮影:木奥恵三]

『はじまりのひ』読書会──バラバラな「見方」を持ち寄ることで生まれるエンパシー

本展には川内倫子の写真絵本『はじまりのひ』(求龍堂、2018)の展示とともに、目が見える人と見えない人が集まって複数回行なった読書会を経て、見えない人たちが本の世界を言葉や絵で表現した試みが展示されている。『はじまりのひ』は、川内が出産と子育てを通して得た気づきが言葉と写真で綴られたものである。参加者たちは数回に分けて、『はじまりのひ』を最初から最後まで読んでいった。協力してくれた「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」の林建太は、「バラバラな『見方』を持ち寄って『自分の経験』を立ち上げる」という目的を最初に参加者と共有した。そのうえで、色や形などの「見えること」、印象や解釈などの「見えないこと」、そして言葉以前の感想や疑問などの「わからないこと」を言葉にしていった。

この読書会は、当初想像していた以上に、多くのことが共有でき、豊かな時間となった。例えば文字のレイアウトなど、目が見えない人と視覚情報が伝えるイメージを共有するために、見えていても普段は共有しないことを敢えて口に出す、というのは通常の目が見えない人との鑑賞ワークショップでもよくあることだ。一方、読書会ならではのユニークな点は、言葉と写真を連続的に見ていくことで、本全体を俯瞰したり、行き来したりすることができたことだった。それによって、それぞれが別々の写真に自分の経験を投影し、つながりを発見し、写真に写されたものもそれ以外のことも含めて共有したという実感があった。例えば、目が見える人の「写っているものが季語から解放されてる感じがする」という気づきは目が見えない人にも深く伝わったようだったし、目が見えない人の「写真と言葉が敢えてずれて入っている感じがする」という鋭い指摘には目が見える人も驚かされた。ついには「貧血」など、それぞれの写真のあだ名のようなものも共有されるようになった。

ここで重要なのは、バラバラな「見方」というのが単に視覚の有無だけでなく、それを超えたそれぞれの経験や記憶だったことだと思う。そこには“正しい”見方はなく、それぞれ別の写真が心に留まり、同じ写真から別の記憶を立ち上げ、好きだったりそうでなかったりした。それは、共感とは異なる他者の理解があることを改めて感じさせてくれるものだった。

ブレイディみかこは著書『他者の靴を履く』(文藝春秋、2021)のなかで、いずれも「共感」と訳されてしまいがちな「エンパシー」と「シンパシー」を明確に区別している。エンパシーは「他者の感情や経験などを理解する能力」、シンパシーは、誰かをかわいそうだと思う感情など「内側から湧いてくるもの」と述べている。さらにエンパシーには、感情や考え方の伝染によって自動的に誰かに気持ちが入り込む「エモーショナル・エンパシー」と、自分と他者の違いを担保しながら、他者の視点を取り、自分以外の人間の考え方や感情を推し量る「コグニティヴ・エンパシー」があるという。前者は自己と他者を同一化してしまうので「共感的苦痛」を感じる一方で、後者は自分は他者とは異なるということが前提で他者が何を考えているかを想像・理解しようとするという違いがある。

シンパシーは早くてわかりやすいが、エンパシーは時間がかかり、知的努力を要するとブレイディは指摘する。SNSによってシンパシーが求められがちな流れは展覧会も無縁ではないが、皆が同じ方向を向かなくとも、個の鑑賞体験を立ち上げつつ、その土台となる時間や想像世界を共有し合う読書会や鑑賞ワークショップという形態は、エンパシーに対する筋力を身につける体験でもあるのだと改めて感じた。



川内倫子《無題》(シリーズ「はじまりのひ」より)会場風景[撮影:木奥恵三]



川内倫子《無題》(シリーズ「はじまりのひ」より)会場風景[撮影:木奥恵三]


ネガティブ・ケイパビリティ──不確かさや不思議さ、疑いのなかにいる能力

本展のなかでおそらく一番解釈が難しいとされるのが、山本高之の《悪夢の続き》だろう。《悪夢の続き》は、8組の二人の人物による対話を撮影した映像作品で、一人はこれまでに見た悪夢について話し、もう一人はその夢がハッピーエンドとなるような続きを考えて話す。横浜の精神障害を抱える人たちが通う施設とともに制作を行なった。撮ったものはできる限りそのまま使うという山本の方針のもと、二人の間の沈黙や戸惑いが宙吊りのまま映されている。なかには、現実と夢を行き来しながら漂っているようにも見える人たちもいる。

リサーチのなかで「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念について改めて読み、ようやくこの映像が何を映しているのかが少し掴めた気がした。ネガティブ・ケイパビリティとは、詩人のジョン・キーツによって生み出され、精神科医のウィルフレッド・R・ビオンによって再評価された概念で、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」のことである。山本の作品では、まさにどこに行き着くかわからない宙吊りの状態に二人がいることこそが映されており、もはや「続き」という句点はかりそめのようにすら思える。また、聴者であり作家の百瀬文とろう者の木下知威の対談が収められた映像作品《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》においては、二人のコミュニケーションに鑑賞者が否応なく加担することになり、おそらく出演者よりも 鑑賞者が最も宙吊りの状態を経験することになる。あるいは岡﨑莉望の圧倒的に緻密な、しかし具象とはかけ離れたドローイングを目の前にして味わう感覚にも、共通するものがあるかもしれない。

準備の過程で、本展の作品が扱う痛みについて言及されたことが度々あった。しかし、本展は他者の痛みに共感すること、言ってみればシンパシーをテーマとしている訳ではない。むしろ逆で、自分は自分のままで、想像することが、自分と地続きに存在する他者を想うことの手立てとなるのではないかということを問いかけたいと考えていた。それはまさにエンパシーの考え方でもある。例えば、目隠しをして目が見えないことの疑似体験をしなくとも、見える人は見えるまま、見えない人は見えないまま、互いの人生を憂い、喜ぶことはできる。それに必要なのは、人間が持っている想像する力であり、ナラティブを紡ぐ能力なのではないだろうか。しかし、語りはしばしば言葉のように分けやすいかたちでは現われないこともあるだろう。それでも、そのわからなさに耐え、想像し続けること。わからなさをわからないまま受け入れること。それは不安で孤独な作業だが、同じ孤独さのなかにいる他者の存在は、そのわからないものに思いがけない角度から光を当ててくれるかもしれない。



山本高之《悪夢の続き》 会場風景[撮影:木奥恵三]



百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》会場風景[撮影:木奥恵三]



展覧会「語りの複数性」プレトーク ─複数性を展示すること─
まだ設計段階の7月7日に収録された、本展会場構成を担当した建築家の中山英之とのトーク。展示室において鑑賞者による複数の想像が立ち上がる空間をどのように設計できるのかについての試行錯誤が語られている。


★──帚木蓬生「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」(朝日新聞出版、2017、3頁)

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語りの複数性

会期:2021年10月9日(土)~12月26日(日)
会場:東京都渋谷公園通りギャラリー 展示室 1、2及び交流スペース
(東京都渋谷区神南1-19-8 渋谷区立勤労福祉会館1F)

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