キュレーターズノート
刻刻と移り変わる夏を受け止める作品たち──「吹けば風」展
能勢陽子(豊田市美術館)
2023年09月01日号
対象美術館
現在豊田市美術館で開催している「吹けば風」展は、ひとつの言葉や概念に統合される前の、この世界に対する新鮮な知覚に直に触れようとするものである(企画は石田大祐学芸員)。このタイトルは、明治生まれの詩人・高橋元吉の詩からきているという。
なにもそうかたをつけたがらなくてもいいではないか
なにか得体の知れないものがあり
なんということなしにひとりでそうなってしまふといふのでいいではないか
咲いたら花だった 吹いたら風だった
それでいいではないか
見ようとしたわけではないが、ふと咲いている花に目が留まる。そうと気づく前に、心地よい風に吹かれている。私たちは、生まれてからすぐ習得し始めた言語をもとに、社会や自分自身を秩序化し、この世界を把握している。それは生きていくうえで不可欠なことであるが、事象をひとつの言葉に還元することで、抜け落ちてしまうものもまた多くある。本展は、言語の網の目から逃れることで、それにより平板化された世界に潜む微細な凹凸に触れようとする。
本展に参加しているのは4人の30代の作家たちである。それぞれが谷口吉生設計による特色ある展示室に応答しながら、新作を展開している。
過ぎゆく時間に楔を打つ:関川航平
最初に出会う作品に、意表を突かれる来場者もいるだろう。吹き抜け階段を上がった先に開ける高さ10メートルほどの大きな展示室は、その3分の2ほどが木製の坂で埋まっている。その上にポツリと、参加作家の関川航平がいる。造形物ではない、生きた人間である。ひとりの人間が、立ったり、横になったり、坂を駆け上がったり、また滑り落ちたりしているのを、私たちは観る。身ひとつで行なわれる動作は、私たちが日々行なっていることと大差ないように見える。しかし、ひどく緩慢だったりダイナミックだったりするその一挙一動には、新鮮な生の感触がある。
本作のタイトル「夊」は、ゆっくり静かに行く、またはためらいながら行くことを示す象形文字であるという。関川は2023年のひと夏を、この展示室で過ごすことに決めた。坂は、地球に季節の循環をもたらす地軸と同じ、23.4度の傾斜になっている。そこにあるのはただ真っ白な壁と坂だけで、誰かと話をしたり情報を得たりする携帯電話もパソコンもテレビも、何もない。しかし窓から入り込む自然光やそこを訪れる観客が、刻一刻と変化していく。関川は、時間の進行に棹刺すように、斜面の上で重力を感じながら、しっかりとそこに存在している。壁には、斜めに「どくんどくん と どくんどくん」という言葉が、それに交差して「育って育って」、下半分は「腐って腐って」という言葉が、ごく薄く書かれている。私たちは生を受けてから、鼓動の度に少しずつ死に近づいている。関川は、その移り行く時間に抗して、「いまここ」を全身で感じるために、この瞬間に身体で楔を打っているようである。その姿は、他者との関係は距離なのか、他者の身体に掛かる負荷を感じることができるのか、そこで作品を構成しているのは何なのか、美術館で作品を観るとはどういうことかなど、さまざまなことを考えさせる。私たちは、時間のほとんどを社会のルーティーンのなかで過ごしている。たとえ真剣に仕事をしていたとしても、一挙手一投足を自分で決めているわけではない。しかし目の前の「人」は、漫然と過ぎてゆく時間のなかで、いつも自分の身体といるのではないかと思わされる。
記憶と体感の交わるところ:川角岳大
階段を上がって次の展示室に進むと、正面には何もない。通路の脇や、展示室に入って両脇に目をやると、川角岳大の絵が掛かっている。それは、海に潜って長い銛で魚を突き、飛行機の窓から外の様子を眺め、また山間を飛ぶ鳥が目に留まった瞬間の情景のようである。高速のスピードのなかの一瞬は、むしろ弛緩したように淡くぼんやりと描かれている。過去の記憶と体験に端を発する絵画は、その残像のような瑞々しさを留める。カンヴァスを平置きにして同心円状に描かれる絵画は、時折外界を捉えて把握する頭と、世界に直接触れる手や足が、てんでんバラバラのようになっている。しかし、この世界の像を統合する前のようなその瞬間に、身体を介した生の感触が現われる。
続く、三面が乳白色のガラスに覆われ、自然光がふんだんに入り込む展示室では、ガラス壁に直に絵が掛けられている。電灯を灯したときに網膜に焼き付く白い灯り、車の運転中に目に飛びこんでくる山の風景などがガラスから差し込む光と混じりあい、まるで光で描かれた絵画のようである。展示室にはベンチがひとつ置かれているが、そこに座ってゆっくり絵を観ても良いし、展示室に満ちる光を身に受けながらただ通り過ぎても良い。導線から少しずらして掛けられた絵画と、常設壁に加えられたわずかな湾曲や頭ひとつ分飛び出した壁は、いつもの導線をそれとなくずらしながら、寄り道のような空気の流れをつくり出す。
溢れる無数のイメージ:澤田華
市街を眺めながらスロープを渡った後の展示室では、澤田華が映像インスタレーションを展開している。展示室に垂れ下がった写真撮影用のバック紙には、ゾンビ映画が上映されている。《漂うビデオ(ナイト・オブ・ザ・リビングデッド、懐中電灯)》(2023)は、いまにもゾンビが襲ってきそうな緊迫感とは裏腹に、それが投影されているのは、部屋の中や家の周りのごく日常的な場所である。それは、ゾンビ映画で日々の暮らしを懐中電灯のように照らして撮影した映像である。映画に引き込まれれば日常は遠のき、本棚の本や戸外の植木に目が行けば映画は後景に退く。フィクションと現実を重ねてもそれらは交わらず、普段意識のスイッチを切り替えることで、見るべきものとそうでないものを分けていることに気付かされる。そのとき、映像は光、スクリーンは物質に還元される。
続く《漂うビデオ(移動、裂け目、白い影)》(2023)では、会場に置かれた6台のプロジェクターが、街頭に貼られたポスターやのぼり広告、立ち止まって談笑する人々の、暮らしのなかの何気ない一場面を壁に映し出している。吊り下げられたコピー紙が空気の動きで揺れ動き、映像の一部を受け止めて、干渉する。さらに壁には、何ということのないスナップ写真のコピーが貼られている。この世界は、あえて意識を向けなければ見ることも、記憶に留まることもない映像に溢れている。澤田はそこにわずかに介入して、日々流れゆく無数の映像を一瞬宙吊りにするのである。
主体を超えて:船川翔司
最後に、展示室から美術館の外へ、もっと大きく環境全体へとつなげていくのは、船川翔司の作品である。双子の女の子が歌うように発する声、カラフルに明滅するLEDライト、膨らんでは萎む気球の動きは、屋上に設置した気象観測機の日射量や風光、風速、雨量の測定値と連動している。加えて、室内に置かれた壊れた木船、ブイや網、木や布などの漂流物の全体が、作品の境界を定めず、有機的な流れを生んでいる。作品の領域はどこまでも広がって、上下するガラス壁の斜光スクリーンや、庭の池ではためく大きな旗も船川の作品である。というより、スクリーンの動きで変わる光や旗をはためかせている風が、その重要な要素である。船川は、私たちと私たちを包摂している天気の間に結節点をつくり、人間や美術館のスケールを超えて、より大きな事象へと私たちの意識を広げていく。
もちろん天気は、恵みだけでなく災害ももたらす。夏に開催している本展の会期中、8月末の時点ですでに三個の台風が発生している。台風が近づくと、楕円のスクリーンに投影された双子の女の子たちは、気圧や風速の変化に鋭敏に反応して、紐を振り回しながら自らの名前を盛んに発し、活き活きと遊び始める。天気は、無意識のうちに私たちの気分や身体に影響を与えており、私たち自身と直結している。そっくりな二人の女の子は、「私」という主体を超えて、より大きな気象と連動していく。船川の作品における天気は、人間と対立する自然でも、自然化する人工でもなく、人間自体がつねに変化する気象のようなものなのだと思わされる。
夏から初秋にかけての会期中、館内に差し込む光や肌に当たる風、身体を包む込む気温や湿度が、徐々に変化していく。来場者が訪れるのは大抵そのなかの一日だけだが、光や風の微細な変化やその時々の観客の動きを受け止める作品たち──生身の人間も含む──は、ひとつとして同じ瞬間がない。まるで爽やかな風が吹き抜けたかのように、さらりとこの展覧会を観終える人もいるかもしれない。それくらい、それぞれの作品は飾らず、衒いがない。しかし、精神と身体を空にしてそこに向き合えば、微細な差異や驚き、発見を見出すことができるはずである。「ひと夏の思い出」を問われれば、海や花火など、典型的な情景が思い浮かぶのではないだろうか。しかし本展の「ひと夏」は、特別派手なものではないかもしれないが、確かにどこにもない「ひと夏」なのである。
吹けば風
会期:2023年6月27日(火)〜9月24日(日)
会場:豊田市美術館(愛知県豊田市小坂本町8丁目5番地1)
公式サイト:https://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/incoming_breezes/