キュレーターズノート
にいがた 水と土の芸術祭
伊藤匡(福島県立美術館)
2009年09月01日号
新潟市で「水と土の芸術祭」が開かれている。水と土は、新潟という土地の成り立ちに関わる言葉である。信濃川、阿賀野川が運ぶ土砂で形成された新潟は低湿地帯であり、人々の歴史は水と闘い土に換える営みの繰り返しでもあった。この芸術祭を機に、新潟の歴史を改めて想い、地域のアイデンティティを確認しようという意図が、この名前に込められている。
市長の発案になるというこの芸術祭、実現までの道のりは平坦ではなかった。新聞報道によれば、市議会や市民からは説明不足、予算の無駄使い、同じ新潟県の妻有で開かれている大地の芸術祭との違いが見えないなどの批判もあがったという。オープン以後も、美術館に展示した作品にカビが生えて専門家から非常識といわれるなど、なかなか順風満帆とはいかないようだ。
芸術祭の概要は、新潟市内の約40箇所に71点の作品が展示され、それ以外に街中のパフォーマンスや教育プログラムが組まれている。市内といっても、新潟市の面積は726キロ平方メートル。東京23区(621キロ平方メートル)よりも広く、大地の芸術祭が行なわれている十日町、津南町(計760キロ平方メートル)に匹敵する。作品をまとめて見ることができるのは新潟市美術館と新津美術館だけで、大半は市の郊外に展示されているから、見て回るにはかなり時間がかかる。
屋外作品が設置されている場所は、河川敷、港、砂浜、川や堀の合流地点、排水場付近、潟湖を保存した公園内など、水縁が多い。新潟市民でも知らなかった場所もあるのではないか。作品を見て回るオリエンテーリングを通して、場所の魅力を知る契機になるかもしれない。なかにはアグリパーク用地という場所もあった。そこは、水田が広がるなかの更地で、以前は農地だったかと思われる。アグリパークとはなにか。「農業を主題にしたテーマパークで農産物等の栽培風景、農産物直売、レストラン等を併設することが多い」(農水省関東農政局共生・対流関連用語集より)というものらしい。わざわざ農地を更地にして農業のテーマパークを建設することに、現代日本のアイロニーを感じる。美術館で作品を見るときには考えないようなことを連想してしまうのも、屋外の作品を見る面白さのひとつかもしれない。
こうした芸術祭では、やはり屋外の作品を見るのが楽しい。屋外の作品は発想、造形、規模、そして環境と調和しているかの4つの点が重要だ。
信濃川に突き出すように建てられた王文志(ワン・ヴェンチー)の作品は、この芸術祭を象徴するものといってよいだろう。竹を編んだ巨大な籠のような形で、内部は優に30人が座れる空間がある。窓からは新潟市の新旧のシンボル、萬代橋と朱鷺メッセも見られて眺めもよく、川風が通って心地よい。部活帰りの高校生たちが、格好の休息場所を見つけたとばかりに、コンビニの袋を手に中に入っていった。彼らには、空腹を充たした後にでも、「ところで、これはいったい何だろう」という興味をもってほしいところだ。
河川敷を少し上流に歩くと、ジャウマ・プレンサの人物像がある。木を抱くようにして座り、目を閉じて耳を澄ましているように見える。川の音を聞いているのかと思えば、像の表面にはジョン・ダンスタブルからオリビエ・メシアンに至る欧米の大作曲家の名前が陽刻されている。聴いているのはクラシックの名曲なのだろうか。
旧齋藤家・夏の別邸では、河口龍夫が屋敷と庭を使って蓮をテーマにした作品を設置している。一階には蓮状のオブジェを載せた舟、二階の広間では蓮が人間のように座布団の上に鎮座している。邸内のあちらこちらと庭の池には、蓮の葉状のオブジェを入れた器が置いてある。和風建築と現代アートの組み合わせが妙である。大正時代に豪商が贅を尽くして建てた別邸は昔の栄華を想像させ、この土地の歴史について想いを巡らすには格好の舞台である。
新潟には「潟」のつく地名が多い。潟とは海が砂州によって切り離された浅い湖である。排水によって現在は大部分が平地になり、一部は公園として景観を保全している。潟と名のつく場所は、かつては低湿地帯だったのだろう。現在でも新潟市内の4分の1は海抜よりも低いという。海抜ゼロの状態を体感できるのが、土屋公雄APT 田原唯之+木村恒介の作品だ。潟に向かって伸びる鉄製スロープの突端まで行くと、眼の前に水面がある。プールの中で頭だけ出しているようなものだが、景色が違う。水草を真横から見ることになり、側にある角田山を仰ぎ見る。水辺から見るのとは異なる、新鮮な感覚である。この作品が設置してある上堰潟公園は山の麓に潟湖が広がり、尾瀬を平地に移したような静かで美しい場所だった。
鳥屋野潟公園にある丹治嘉彦と橋本学の作品は、市民が集めた流木をS字状の木枠の中に並べ、花を植えている。所々に開いた「窓」からは、後ろにある鳥屋野潟の青い湖面がのぞく。ただし、作品は早くも雑草で一部が隠れていた。そばで管理の人が草刈りをしていたが、とても追いつかないのだろう。
海の見える場所に設置された作品は意外に少ない。南川祐輝の木製の立方体は、海が荒れたときには波を被るのではないかと思うほど海岸線近くに設置されている。梯子を登って仕切られた空間に入ると、見えるのは海と空だけである。
「水」がテーマのためか、舟をモチーフにした作品が目立つ。かつてこの地方の舟運や農作業で使われた小型の木舟が多いなかで、管懐賓(カン・ハイビン)の作品は海を渡る大きな船を想像させる。日本海を見下ろす公園に設置されていることもあって、海とともに生きてきた町新潟の気概を感じる。
鈴木勲のパフォーマンスは、新潟は水が豊かで土地が平らであることを実証している。彼は約3週間かけて、時速6キロの電動カートを移動手段にして、この芸術祭の全作品を見て回った。その奮闘記はブログで見ることができる。小型水力発電機を携帯し、市内の川や水路に仮設して充電させ、その電力でカートを走らせている。坂の多い土地ではできないパフォーマンスだ。
新潟のアイデンティティを探るという趣旨によるものなのか、同時期に開催されている妻有の「大地の芸術祭」との違いを強調するためもあってか、出品作品は直接的に「水」と「土」に関わるものが多い。発想という点では多少窮屈な感じもするが、個々の作品は見応えがある。欲を言えば、新潟には、例えば港町としての側面や、日本海側最大の都市としての側面もあり、また個人的には、蒲原平野の画家・佐藤哲三の絵のように空がどこまでも広がる土地という印象もあるので、そうした新潟の多面性を想起させる作品も見たい。もっとも、私はまだ半数しか見ていないので、そうした作品が出品されているのかもしれないが。
幸い、この芸術祭は会期が12月末までと非常に長い。スタッフもたいへんだと思うが、冬の日本海を背景にした作品の姿も見てほしいからと、この芸術祭のサポーターは元気に話してくれた。季節風吹きすさぶなかで、海辺の作品を見るには気合が必要だが、渡り鳥の飛来する初冬の潟湖を再訪するのは楽しいだろう。