2019年11月15日号
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キュレーターズノート

HEAVEN──都築響一と巡る社会の窓から見たニッポン/大竹伸朗『NOTES 1985-1987』
キッズコーナー 森のたね

山口洋三(福岡市美術館)

2010年08月15日号

 前回の私の記事で、私は「嬉野武雄観光秘宝館」を取り上げた。去る5月29日に福岡市美術館にて開催された都築響一講演会のための予習の意味もあったが、それに加え、「そのうち見に行こう」というあまりに不安定かつ不確定的予定を、これを機会に確定させたかったというのもある。学芸員としての身近な例でいえば「そのうち見に行こう→結局行かず、展覧会終了」「そのうち会いに行こう→結局行かず、作家死去」、といったことを、何度か経験して苦い思いをした。対象への興味の度合い、専門性との兼ね合いの問題もあるのだろうが、割合近所にあるものであれば、行動するしかない。

 当館での講演会と広島市現代美術館での「都築響一と巡る社会の窓から見たニッポン」展がタイミングとして重なったのは偶然であったが、講演会と併せて広島の個展を見ることで、都築響一の仕事について、自らの仕事と引き合わせていろいろと考えさせられる機会となった。
 自らはジャーナリスト、編集者、写真家と名乗ることが多い都築であるが、彼が主に興味の対象としている事物をいったん留保して、彼が仕事として行なっていることを抽出してみると、それは私たち学芸員の仕事(調査、研究、収集、展示、保存)にかなり近いということがわかる。誰にも知られていない物事に(都築の言に従えば、誰も目を向けないことへの「怒り」と、失われるかもしれないことへの「焦り」とともに)関心を示し、実際に現場に見に行き、撮影・取材など各種の調査を行なう。そしてその対象の背後にある歴史的文化的な文脈についても調べ、時には展覧会も企画(あるいは招待され出品)し、さらには失われゆくモノを撮影し、原稿とするだけでなく、自ら(!)収集・保存することでそれらを亡失の危機から救っている。だとすれば、都築の肩書きは真の意味での「インディペンデント・キュレーター」ということになるのではないか。私は当館での講演会の司会をするなかで、「都築さんの仕事はいつも私の価値観を脅かす」と発言したと思うのだが、この「私」とは「学芸員としての私」のことである。つまり、いま自分が目を向けている物事、(美術館として)収集する作品群などからこぼれ落ちてしまったものが、まだどこか、それもかなり近くにありはしないかという警告めいたものを、彼の仕事から感じるのである。
 ただ、都築の向ける眼差しの先にある対象が通常の「美」の基準とか、「美術館・博物館」における「収集対象」とあまりにかけ離れているので、これまでどちらかといえば表現者としては際物扱いされてきた感はいなめない。都築響一が取り上げるものといえば「エロ」と「ローカル」に極限されがちではあるが(確かにこれは真実なのだけど、笑)、本展企画者・松岡剛(広島市現代美術館学芸員)の言を借りれば、それは「『ふつうの人々』のライフスタイルであり、物作りであり、より広くは文化に関する嗜好」なのである。さらに言い換えれば、本展の表題にある「社会の窓」から「ニッポン」を垣間見ることである。男性のズボンのチャックがあいていることを「社会の窓」といったりするけれど、つまりそれは「下半身」から見た「創造性」のことだ。これらは、いわゆる「美術」を含んだ「芸術」(いわば上半身から見た表現)における理性的ルールが通用しない世界にある、「美術」にあらざるもの。しかし「美術」が持ち得ない、言葉におきかえにくい凶暴なエネルギーがそこには満ちあふれているように感じる。現代美術が「社会」のなかに行儀良く収まっている現代にあっては、この「美術」にあらざるもののパワーはより一層過激に見えてくる。たとえば、オレサマ道を驀進する70過ぎの爺様たちの生き様を、老女をテーマとしたやなぎみわの《My Grandmothers》に対置させることを考えてみる。やなぎの「美術」は若い女性たちの途方もない想像をリアルに描こうとするが、それがイメージ(虚構)であることは明らかである。都築の取り出す現実の爺様たちのエピソードはすべてがリアルであり、そこに老人たちの肉体と生活がある。美術(虚構)と生活(リアル)が激しく衝突するのではないか?
 この「美術」からはみ出した表現への関心は、1990年代の「多文化主義」的な潮流のなかでもっと語られても良かったのかもしれない。福岡アジア美術館にはバングラデシュの「リキシャ」と「リキシャ・ペインティング」が収蔵されている。これは「アジアには、いわゆる『美術』の枠にははまらない表現が街に生きている」という視点のもとに収集されたわけであるけれど(都築はすでに1980年代の美術を網羅した全102巻の現代美術全集『ArT RANDOM』においてリキシャ・ペインティングを取り上げていた)、この多文化主義的な視点は、国内にも当てはめてみることができる。彼が取り上げる数々の「社会の窓から見た」表現は、真摯な論究の対象になってもおかしくないものが含まれるのではないか。そのひとつが、私が今回一番強く興味を引かれたのが、見世物小屋の看板絵である。都築本人が所蔵するこれら看板絵は、その多くが福岡市や旧・小倉市で生産されてきたという。実際それは作品上の記載からもわかる。「美術」の枠からこぼれ落ちたこうした視覚表現は、地域史的な文脈においても重要なもので、福岡に暮らしながらいままで知らなかったこともあり、なんだかせき立てられる感覚を覚えたのである。資本に取り込まれた現在の美術よりも、都築の取り上げるこうした「作品」のほうが、よっぽど雄弁に「社会」を語っている。
 ところで、展示は全体的に文字が多く、その一部が巨大なキャプションとなって壁面に張り込まれていたが、これを見て、かつて『美術手帖』1991年8月号に掲載されたジョゼフ・コスス企画の「語りえぬものの戯れ」展の記事を思い出した(私だけ?)。内容の比較はしないけれど、コンセプチュアル・アーティストの表現方法に本展の展示方法を引っかけて、コンセプト主流の現代美術への当てこすりをしようとしている、とは深読みすぎるか?


大小さまざまな写真と映像、数多くのキャプションで圧倒する「珍日本紀行」の展示。「語りえぬものの戯れ」?


左=見世物小屋の看板絵は天井から垂れ下がる。カラオケを熱唱する方の写真と意外にもシンクロ
右=話題の「18禁」展示。閉館した秘宝館「鳥羽SF未来館」から都築自らが展示品の一部を引き取り、所蔵している

 さてもうひとつ、見逃してはならないのが、ほぼ同時期に同館常設展示室にて開催されていた、同じく都築企画による「コレクション展2010-I『収蔵庫開帳! 広島ゆかりの作家たち 選・都築響一』」である。普段はあまり展示される機会のない地元ゆかりの作家たちばかりを集めた展覧会である。地元作家の作品は都築も言うようにいずれの美術館にも収蔵されていて、福岡市美術館も例外ではない。当館は比較的真面目に(?)地元作家の作品展示は行なっているほうではあるけれど、広島にはどんな地元作家がいるのか、興味はあった。しかし一方で、超ローカルな物件に目を向け続けてきた都築のこと、一体どんな選択になっているのか他館ごとではあるがやや不安が募った。
 実際に会場をみると、案外真面目な(?)作品選考がなされ、十分楽しめるものだった。作品よりも作家の人生に焦点が合わせられたキャプションが付されていたが、そこからわかることは、それぞれの困難な人生のなかで、なんらの評価を得ることよりも絵を描き続けることを最優先に人生をまっとうした作家たちが多くいたことである。殿敷侃も出品されていてちょっと胸が熱くなった。こういう文脈でこそ、彼の仕事と人生も輝いて見える。外部者の好奇な視点はそこにはみじんもなく、困難な美術人生をローカルに送った(あるいは送っている)作家への愛情すら感じられた。美術史的にいえば、作家よりも作品ということになるだろうが、そのセオリーだけでは美術館の展示はできないという学芸員の「本音」を代弁しているようにすら思え、都築個展同様に時間をかけての鑑賞となった。
 当館にもローカル作家だけでなく、福岡と縁もゆかりもない作家(写真家・長谷川伝次郎や、幻想とエロスの画家・藤野一友)の作品が収蔵されている。前者は9月5日まで展示中、後者は9月7日からに展示することとなっている。情報が流通していないという意味では両者とも「ローカル」なのかもしれない。時々は常設展示も覗いてください(誰に言ってんだ?)。

HEAVEN──都築響一と巡る社会の窓から見たニッポン

会期:2010年5月22日(土)〜7月19日(月・祝)
会場:広島市現代美術館
広島市南区比治山公園1-1/Tel. 082-264-1121

長谷川伝次郎の写真展

会期:2010年7月21日(水)〜9月5日(日)

藤野一友 展

会期:2010年9月7日(火)〜10月31日(日)

ともに会場:福岡市美術館
福岡市中央区大濠公園1-6/Tel. 092-714-6051

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