キュレーターズノート

一原有徳氏のこと

鎌田享(北海道立帯広美術館)

2010年11月01日号

 去る10月1日、北海道小樽市を拠点に活動し、独創的な作品によって国際的にも高い評価を得てきた現代版画家の一原有徳氏が逝去された。享年100歳であった。

 一原氏は1910年に徳島県に生まれ、3歳のときに父母とともに北海道の真狩村に移住。小学校卒業後に家族とともに小樽に移り、生涯をこの地で過ごした。1927年には逓信省小樽貯金支局(現・小樽貯金事務センター)に就職、1970年に定年退職するまで43年間を勤め上げた。
 一原氏が美術の世界に踏み込むのは、きわめて遅い。戦後の混乱も一段落した1951年41歳のときに、職場の同僚でもあった油彩画家の手ほどきをうけて絵筆を握る。次いで1957年頃、ある偶然をきっかけに版画制作をはじめた。当時一原氏は、リトグラフ印刷に使う石版石の欠片をパレット代わりに油彩画を描いていた。そこで油絵具を練り混ぜているときに、たまたま現われた図様に惹かれ、それを残したいと上から紙をあて刷り取ったのだという。この手法は、後に氏の代名詞となるモノタイプ=一版一刷版画の原型となった。
 これ以後、一原氏は版画制作に邁進し、国画会展や日本版画協会展に出品を重ねた。そしてそれらの作品が、美術評論家で神奈川県立近代美術館長であった故・土方定一氏の目にとまる。その紹介から1960年3月にはメキシコ、ウィーン、ローマを巡回した「現代日本の版画展」に出品、さらに同年6月には東京画廊で大規模な個展を開催し、一躍全国的な注目を集めるようになった。
 1970年に定年退職するまでは比較的寡作であった一原氏であるが、その後はじつに旺盛な制作活動を展開する。平滑な金属板の上に油性インクを広げ、金属ヘラなどを使って自在に図様を描いて紙に移し取ったモノタイプ。身近にあるさまざまな品物をプレスしたり薬品によって腐蝕したりして金属板に重層的なマティエールを刻み込み、それを転写した金属凹版。高温に熱した金属を紙に押し当てて焦げ跡をつけた熱版シリーズ。さらには、柔らかな鉛板に打ち込んだタガネの刻跡や、磨き上げたステンレス板に映り込んだ鏡像までをも、「版画」と解釈し作品として提示していった。


《ZOM88》1988年制作、モノタイプ(アルミニウム版)・鳥の子紙


《AM》1990年制作、金属凹版(アルミニウム版)・紙

 一原氏の創作世界を読み解く鍵は、氏と版画の出会いを綴った先のエピソードのうちに、多くを求められるであろう。
 氏はなによりもまず、パレット上に現われた「未見の図様」に強く惹きつけられた。「いまだ見たことのない図様、イメージ、ヴィジョン」を視覚化し定着すること、それこそが一原氏を版画へと導いたものであった。モノタイプの描画にさまざまな道具を試したことも、凹版のマティエール作りに腐心したことも、ひとえにこのためであったといえる。
 1960年のデビュー当時、一原氏が大きな注目を集めた理由も、この点にあった。当時の評言をたどると、図様の清新さを称える一方で、その方向性が明快であるがゆえにいずれ訪れるであろう限界性やマンネリズムへの懸念を表明したものや、構図の中心性を欠いたオールオーヴァーな画面構成に不満を唱えるものが、多く挙げられる。
 そしてこれら図様への関心は、当時の美術状況とも呼応したものであった。1957年のアンフォルメル旋風以降、日本では抽象美術がもてはやされた。なかでも、絵画におけるマティエールや彫刻におけるテクスチャーといった、表面の仕上げや手仕事の痕跡に、ことさら意を尽くした作品が数多く生み出された。例えば絵画においては、基底材に合板を用いたり、絵具に砂や石膏を混ぜたり、絵筆以外の画材で描画することが、盛んになされたのである。重層的な手仕事から生み出された一原作品の抽象図様は、こうした時代状況のなかで生まれ、また享受されたのである。
 話を戻すが、偶然見出した図様を定着するために、氏は直接紙をあてて転写するという、素朴ともいえる手法を用いた。それはまた、数百年に及ぶ年月のなかで技術的な洗練を重ねてきた「版画」を、その根源にまで立ち返らせる行為にほかならなかった。後年の実験的な作品の数々へとつながる「版画概念」や「版画技法」に対する自由なスタンスの萌芽が、ここには認められる。
 1970年代以降、日本の版画界では、版画の基礎概念の洗い直しがなされた。「版画とはなにか?」「どのような要素を含んでいれば、版画といえるのか?」そのような問いが盛んに発せられ、斬新な作品が数多く生み出された。そうした状況のなか、多岐にわたる作品を制作した一原氏は、版画概念刷新の旗手として、版画界の鬼才として、注目を集めたのである。
 イメージの探求者・幻視者としての側面と、版画概念の拡張者・実験者としての側面。それはまた一原有徳という美術家が、時代に躍り出るための生得的な資質と、時代のなかで獲得した後天的な方向性と、いいえるかもしれない。そしてこのような補助線を引くことで、一原氏の制作活動を時代のなかに位置づけ歴史化することができうるであろう。

 百賀の年に、一原有徳氏は旺盛な制作に終止符を打った。そのご冥福を、心よりお祈り申し上げる。


左=《タガネ9》制作年不詳、タガネ・インク・鉛
右=《スパナー》1980年制作、熱版・紙