2021年01月15日号
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キュレーターズノート

「生活工芸」展/金沢クリエイティブツーリズム:オープンスタジオとアトリエ訪問

鷲田めるろ(金沢21世紀美術館)

2010年11月01日号

 10月、金沢21世紀美術館の市民ギャラリーを会場に「生活工芸」展が開催された。チーフディレクターは金沢のガラス作家である辻和美で、「生活工芸」というコンセプトに沿って、選者18人が選ばれた。各選者は、自分が生活のなかで使っている道具のなかからお気に入りをそれぞれ、15点程度を選び出品した。机を規則的に中央に配した会場構成は、すっきりと端正にデザインされていたし、リトルモアを通じて一般書店にも流通するカタログも、泊昭雄による統一した写真を中心に据え、柔らかな手触りの紙を用いたものだった。サインを含め、全体に統一的なデザインが行き届き、丁寧につくられた展覧会であった。ひとえに、辻を筆頭とするディレクターチームの日頃からのネットワークと経験の賜物であろう。辻は、制作の傍ら、ギャラリーとショップを運営し、全国からの多くのファンを集めている。
 しかし、展覧会には、若干の居心地の悪さを感じないわけではなかった。さまざまな職業、専門分野をもつ選者の選んだものを見てゆくのは発見もあり楽しいものだが、全体として質の高いロハス的な趣味に統一されすぎており、『ku:nel』などスローライフ系の雑誌を見ているようであった。実際、会場に来ている人たちも似たような人たちが多い。
 こうした感想を抱きつつ、関連のシンポジウムを聞いた。パネリストは、辻のほか、展覧会の選者より三谷龍二、平松洋子、千宗屋の4人。使い手としての平松の「生活工芸という言葉は、道具を使う人にとっては当たり前すぎて意味をなさない」という発言に逆照射され、「生活」というキーワードが、辻、三谷といった作り手にとってこそ重要だという構図が浮かび上がる。つまり、「生活」は「芸術工芸」に対するカウンターとしてはじめて活きてくるのだ。ところが、「生活工芸」展では、使い手である選者が、「生活工芸」を、自分のために使うものとして受け止めてしまった。そのことにより、工芸の世界で作品をつくってきた辻や三谷の感じる自らが引き裂かれるようなリアリティ、作り手が「生活工芸」という言葉を掲げたときの緊張感とダイナミックさが失なわれ、単に自分たちの趣味を再確認し、強化するものに陥ってしまった。「生活工芸」展は、「芸術工芸」の作家にこそ見せるべきだったろう。両者の断絶の大きさを考えると、ひとつの展覧会のなかに「生活工芸」と「芸術工芸」を共存させるなど、両者を出会わせる仕組みをしたたかに構想するといった高度な戦術も必要である。
 一方、茶道の武者小路千家の宗屋が別の可能性を示していた。千はシンポジウムのなかで、生活のなかに緊張感を、ハレの場を、と強調していた。その主張を私なりに解釈すると次のようになる。すなわち、道具の使い手である亭主は、道具を自分のために使うのではなく、客をもてなすために用いる。自分の好みは、客と共有できない危険性をつねにともなう。そこに緊張感が生まれると。例えば、千は自ら選んだ釣瓶の水差しを「器の否定」だという。亭主が所有し、愛玩しつづける道具ではなく、井戸から汲み上げたそのままの水を表現する。水を客に送り届けることを最上の目的とするなかで、道具は自らを押し殺す。
 作り手は自らの主張を抑えて使い手のことを考え、使い手は自らの好みを殺して客のことを考える。この先送りの構造、贈与の構造と言い換えてもいいかもしれないが、これが作り手に対しては、「生活工芸」という概念で示される。しかし、使い手に対しては、「生活工芸」という概念は、この先送りの構造をとらず、機能しない。使い手にとっては、むしろ「もてなし」を意識したほうが、先送りの構造のもつ緊張感が示されるように思う。
 「芸術工芸」と「生活工芸」の間に接点を設けることは、いまの金沢、ひいては日本の工芸にとって重要な意味を持っている。宣言としての展示に終わることなく「芸術工芸」の作家に見せる仕掛けを組み込み、しぶとく接点を探ること、そして、生活の中心に「もてなし」の観点を導入すること、この2点が「生活工芸」の次なる課題であろう。


「生活工芸」展 会場風景

「生活工芸」展

会場:金沢21世紀美術館 市民ギャラリー
石川県金沢市広坂1丁目2-1
会期:2010年10月13日(水)〜18日(月)
主催:金沢ファッションウィーク実行委員会

  • 一原有徳氏のこと
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