キュレーターズノート
せんだいメディアテーク開館10周年事業「いま、バリアとはなにか」
伊藤匡(福島県立美術館)
2010年12月01日号
対象美術館
せんだいメディアテークは、「あらゆる障壁(バリア)からの自由」「最先端の知と文化を提供」「端末(ターミナル)ではなく節点(ノード)へ」という三つの理念を掲げて活動を続けてきた。開館10周年として、理念のひとつである「バリア」をテーマにしたのがこの企画である。身体、言語、性、民族、空間などのバリアは依然としてあるにもかかわらず、情報技術が進化した現代の社会においては、却ってバリアが見えにくくなっているのではないかという問題意識を前提に、バリアの顕在化とその超克をめざしたものといえる。
この企画は、作品の展示、アートプロジェクト、ワークショップから構成されている。このうち展示は、建物の外観から始まっている。前面がガラス張りで内部が見とおせる構造のメディアテークが、市松模様に変わっている。二重ガラス構造(ダブルスキン)のメディアテーク正面に、薄茶色の紙が貼りつけられているのだ。出品作品のひとつ、北川貴好の《ダブルスキンランドスケーププロジェクト》である。メディアテークの建築的な特徴のひとつが、建物の内部と外界の垣根(バリア)を消すガラス壁面であると理解していたのだが、そこに紙を貼ることによってバリアが顕在化する。
今回に限らないのだが、メディアテークでの展示は、作家がこの特徴的な建物や空間を意識した展示が目立つように思う。美術館のホワイトキューブとは対極的な空間であるから、作家は否応なく建物を意識させられるのだろう。見る側も、作品がどこにどのように展示されているかということも楽しみではあるのだが、それにしても今回の展示は特に場所がわかりにくい。ミュージアムショップと階段の間の小さな隙間や、地下駐車場エレベーター脇の鍵がかかった倉庫内などに展示されているので、展示マップは必携品である。
3階市民図書館での港千尋「栞プロジェクト」では一枚ずつ栞がもらえる。もらった栞が、本とともに移動することによって、空間のバリアを超える試みである。全盲の作家・光島貴之は、取り除かれるべきバリアと、裏側に回って楽しみたいバリアの二種類があると考える。メディアテーク館内で再録した音から場の雰囲気を想像する展示と、作家が公募で選ばれた人に腕を取ってもらいながら館内を歩く様子を撮影した映像作品の二つで構成されている。
6階のギャラリーでは、全室を使って小山田徹の浮遊博物館が展開されている。藤井光の映像作品のディスプレイも天井から吊り下げられ、浮遊博物館の一部に組み込まれた展示になっている。吊り下げられているモノたちは、ちゃぶ台やたらいなどかつては必需品だった生活用具から、冷蔵庫や洗濯機など高度経済成長時代の憧れの電化製品、楽器やカラオケ装置、長嶋茂雄の本など趣味・娯楽の道具までさまざまである。なかには1964年に西洋美術館に来たミロのヴィーナス展や1970年の大阪万博のチケットもあり、戦後日本人が歩んできた消費生活の断片が見えてくる。このギャラリーから移動壁をすべて取り払ったのは開館以来初めてだそうで、ガラス越しに外の景色が見える空間に600点ものモノが浮かぶ様は壮観である。
出品作品の中には、コンピュータの不調とやらで、本来の動きがとまった作品があった。こういう作品は主催者泣かせである。観覧者には「ほんとうは、このような動きをするはずなのですが……」と苦しい言い訳をするのだが、ものづくり大国ニッポンの国民は、きちんと動かないものには厳しい。深読みすれば、あらゆる領域でコンピュータが浸透している現代社会においては、故障や制御不能が直ちに社会の機能不全を引き起こす。それが現代社会のバリアであるということかもしれないが。
ところで、この展覧会は基本的に無料だが、6階の展示だけは有料で、大人100円という今時珍しい料金設定である。主催者としては無料にしたかったのだが、この展覧会の経費に充当する助成金を受けるためにやむを得ず有料にしたのだという。助成によって料金が安くなるのはわかりやすいが、逆に有料になるというのはパラドックスというか、これも制度のバリアだろうか。