キュレーターズノート
原叟床──成巽閣「清香軒」/旧山川家住宅
鷲田めるろ(金沢21世紀美術館)
2011年02月01日号
最近、金沢の茶道の歴史について調べている。唐突に思われるかもしれないが、その背景には次のような思いがある。金沢に美術館ができた。NPOも頑張っている。あと必要なものはなにか。個人コレクターである。
一昨年、ベルギーのゲントでの滞在を経験してから、そのことを強く感じている。個人コレクターといっても、お金持ちの人が有名な作家の作品を集めているというタイプではなく、地元の若い無名の作家の作品を直接作家から譲ってもらい、家に飾っているようなコレクターである。この問題意識を共有しているアーティストもいる。例えば、中村政人や椿昇で、2008年に行なった金沢アートプラットホームでは、中村政人は若い作家の作品のレンタルシステムを試みた。しかし、彼らのアクションは、販売流通のシステムを整え、障害を取り除くことに重点が置かれている。ゲントでの経験を通じて私は、売る側だけの問題ではなく、むしろ、買う側のライフスタイルの問題が大きいと考えるようになった。
では、どのようなライフスタイルか。それは、人を家に招き、もてなすというものである。そのためにもっとも重要なことは、労働時間を短くすることである。夜遅くまで仕事して、疲れて自分の食事をつくる気もしないような状況では、人を家に招く気にはとてもなれない。ゲントでは、だいたい夕方5時くらいには仕事を切り上げる。時間に余裕ができれば、高い外食ではなく、家で人と食事をするということになろう。幸い、金沢は家賃が東京などと比べると安く、中心部に近い場所でも数万円で一軒家が借りられる。人を家に呼ぶようになると、部屋を整えたくなる。ゲントでも、20代、30代の若いひとたちが、友人や知り合いの作品を部屋に飾っている。そこで初めて、安い若手作家の作品と買い手を繋ごうとする中村や椿のシステム作りが有効となる。そのライフスタイルのなかから大コレクターも現われてくる。実際ベルギーにはコレクターが多い。美術館のスタッフ室やカフェにもしょっちゅうおしゃべりに来ているし、美術館に寄託している作品も多い。
ベルギーと金沢の違いももちろんある。金沢で、中心部に近く、人を招けて、若い人が安く借りられる一軒家といった場合、それは、デザイナーズマンションのような白く、モダンな空間ではなく、古びた小さな日本家屋ということになるだろう。そのような空間での美術を考えようとすると、美術館に飾られるような美術よりも、もっと生活に近いものとなるだろう。
一方で、CAAKなどのNPO団体で、レクチャーとパーティを組み合わせたイベントを繰り返し開催してきた経験を通じて、こうしたイベントは、個人が主体となることも充分可能ではないかと感じている。個人の家を「アートスペース」としてでっち上げ、そこでの飲み会をウェブサービスを使って中継するような試みである。
いずれにせよ、個人の家に人が集まるという習慣がつくられていくことが重要だと思う。そのなかで、生活に根ざした美術に対する意識が深められ、美術作品が身近なものとなってくる。茶道の歴史を調べているのは、茶道が、人を家に招き、楽しむ習慣であったと思うからである。
さて、今回は、金沢の茶道の歴史を調べているなかでの一報告として、「原叟床(げんそうどこ)」というものをご紹介したい。原叟床とは、一畳分の地板を敷き、その少し内側に入った位置に床柱を立て、落し掛けをつけ、床の脇壁を吹き抜いた形式の床である。表千家六代・原叟宗左(覚々斎)の好みとされる。もちろん金沢に限った形式ではないが、しばしば代表例として、金沢の兼六園内成巽閣の茶室、清香軒が挙げられる[図1, 2]。清香軒は、1863(文久3)年に13代加賀藩主・前田斉泰が母・真龍院のために建てた三畳台目の茶室である。台目一畳分の床の地板を合わせると、四畳半の平面となる[図3]。
原叟床の効果として、例えば、「床を孤立させることなく室内と一体化させ」ることが挙げられる。特に、清香軒においては、床壁の入隅の下の方を塗り込めて楊枝柱にしていること、相手柱を省略していることも、掛物から客座への連続性を強める要素として指摘されている。さらに、清香軒においては、床の向かい側にある引き違いの躙り口や、水の流れも引き込んだ深い軒下によって、客座と外部との連続性も強められており、原叟床が生み出す、床と客座との連続性が、茶室全体に一貫している★1。このように、原叟床の特徴が、茶室全体と細部に至るまで統一が取れている完成度の高さゆえに、清香軒が原叟床の代表例として挙げられるのであろう。
しかし、私は、これとはまったく逆に、原叟床の持つ、別の機能に着目してみたい。それは、既存の座敷を茶室として転用するのに適しているという点である。部屋の外に突き出した床とは異なり、原叟床の場合は、部屋の内部だけで改装が完結する。堀内宗心は、原叟の時代(享保)には、町人層の茶道への参加が広がったと言う。堀内は、「ふつうの部屋の中に床を作り、茶室に改造していくという『原叟囲』という茶室があります」と発言している★2。独立した茶室を確保するのが難しい密集した町人の居住エリアにおいても、6畳などの部屋を茶室に改修して用いたというのは想像に難くない。
かつては金沢市竪町にあった山川家の町家にも、原叟床を持った5畳の茶室がある[図4]。山川家は、現在、石川県立美術館に所蔵されている野々村仁清作の雉の香炉の寄贈者としても有名である。幕末のころ建てられたと推測される山川家の町家は、1967(昭和42)年に竪町より市内の江戸村へ移築された。この町家には、四つの茶室があり、もっとも有名なのは、草庵風の二畳台目の茶室「通楽庵」である[図5]。通楽庵を含む三つは、道路に面した土蔵の裏に回り込むかたちで裏の庭側に設けられている。土蔵を通りに面して建てるという、大店ならではの構成により、奥座敷から座敷庭を経由して席入りできるようになっている。一方、原叟床のある茶室は、通りに面した6畳の部屋が充てられている(図面内の赤下線部「マエザシキ」)。そして、この部屋の前の2間分を出格子として、その側面の戸から入ることのできる露地にしている。さらに、この6畳の横に2畳の水屋がつくが、それを合わせると、8畳の平面になる。この茶室が、建物建築当初からのものか、後の改修によるものかは不明だが、通常「ミセ」に使われることの多い通りに面した部屋を茶室に充てている。
山川家のように大きな町家は現在にまで残されたが、独立した茶室をつくれないような小さな町家はなかなか残らない。しかし、原叟床という形式を通じて、町人が自宅の一室を改修して、茶事を楽しんでいた様子を想像することができる。それにより、狭い住環境においても工夫して人を自宅に招き、遊んできた歴史を感じとる楽しみがある。それが、たとえ清香軒や通楽庵のように完成度の高いものでなかったとしてもである。
このような町人の遊びの工夫を引き継ぎつつ、狭い家でも人と遊ぶことを試みることが、いま求められていると思う。街の個々人の楽しみが、美術館やNPOとともに、美術の現場となれば、相互に補完しながら、地域に根ざした美術の環境を豊かにしてゆくことだろう。金沢ではそれが可能だと考えている。