トピックス

メディアから考えるアートの残し方
第1回 エキソニモインタビュー

赤岩やえ(エキソニモ)/千房けん輔(エキソニモ)/水野勝仁(インターフェイス研究)

2018年11月15日号

作品を見る経験と、変わり続ける魂の継承


赤岩 ところで、世界的に有名な名画《モナリザ》は、一度は本物を見てみたいと思う作品ですよね。私が初めてルーブル美術館で本物を見たときは、ガラスケースに覆われて厳重に管理された《モナリザ》でしたが、最近では、そのガラス越しからさらに携帯越しに見るようになっています。絵を背景にセルフィーを撮って、ソーシャルメディアに流す行為を含めて作品の鑑賞になっていたりもする。

本物の《モナリザ》を見る、という体験は、時代や技術の変化によってつねに変わり続けているんだと思います。最高にメンテナンスされた本物の《モナリザ》であっても同じ存在ではあり続けられない。たとえ修復し続けたとしても、物質として変化するだけではなくて「《モナリザ》を見る」という体験自体がどんどん変化しているんですよね。物質をいかに維持するかというのが旧来の保存の考え方だけど、そういった行為や体験も含めて考える必要があるんじゃないかと思います。


Mona Lisa Selfie (iW3) from daniel mckee on Vimeo.


水野 以前、メディアアートの保存修復をテーマにしたシンポジウムのなかで、赤岩さんは式年遷宮を例に挙げて「魂(スピリット)の継承していく」話をしていましたね★4。《モナリザ》は依然としてモノが存在しているから、僕ら鑑賞する側が勝手にスピリットを継承している。一方でメディアアートは、ソフトやハードのアップデートによって形もちょっとずつ変わっているから、《モナリザ》のようにモノを修復して残していくのとは違う方向の残し方があるんじゃないかと思うんです。


赤岩 メディアアートでは、作品を別の新しい環境でも動くようにする「マイグレーション(migration=データの移行)」という方法をとることがあります。でも、マイグレーションだけで作品のコアとなる魂を継承することはじつはできなくて、生き生きと伝えていくには、変わりつづける環境や社会状況のなかでバージョンアップしていくことが必要じゃないかと思うんです。作品のコアとなる「魂」と呼べるようなものは、フィックスすることはできなくて形を変えながら伝わっていくもの。例えば、伊勢神宮で行なわれている式年遷宮では、20年ごとの社殿の建て替えやさまざまな儀式を通して、その時代々々の新しい神様にアップデートされている、魂のマイグレーションのようなことが行なわれているんじゃないか。そんな気がします。


水野 そうですね。僕はインターフェイスの研究をしていますが、そこにはマウスを開発したチームを率いたダグラス・エンゲルバートという人が提唱した「ヒトとコンピュータの共進化」という考え方があります。ヒトとコンピュータ、どちらも固定された存在ではなく、コンピュータが進化すればヒトも進化する。共進化の考え方は、技術は単なる道具にすぎず、ヒトと道具は別物で、ヒトが道具を使うという、これまでの人間と技術との関係を捉える考え方とは異なるものでした。また、ポスト現象学という領域では、人間と技術はひとつの連合体であるとされます。人間-技術連合体においては、例えば「自由」も人間と技術とのあいだに生まれるハイブリッドな事象になっていて、技術的媒介が道徳的な判断形成の空間をつくり出して、そこで人間が判断をすることになるのです★5。超音波画像化技術によって、新生児の性別や病気を診察することから生まれる道徳的問題は、人間-技術連合体がつくり出したものです。つまり「ヒトとコンピュータの共進化」もポスト現象学におけるヒトと技術との関係も、人と技術とは単純に切り離せなくなり、重なり合っている状態にあることを指摘しているのです。


メディアアートが扱っているメディアは、絵画や彫刻のように人間から切り離されたモノではなく、人間の行動と密着したテクノロジーを使っています。メディアアーティストは、その人間と技術との密着を引き離して、そこに距離をつくることで、人間と技術との関係そのものを作品化している。だから、高嶺さんの作品が示すように、社会のなかで人間と技術との関係が離れてしまった作品はすぐに死を迎えるのかな、という気がします。でも、高嶺さんの作品もまた絵画と同じようにモノとしてはいつでも体験できてしまう。作品をリアルタイムで体験するときには共有されていた人と技術とが密着した親密な状態を、10年後、20年後にモノの体験から想像するのはとても難しいことだと思います。ここがメディアアートが絵画と違うところなのかなと思います。藤幡さんがインタビューで言っていたように、メディアアートでは作品に付随する「経験」をできるだけ多様なかたちで保存しないと、すぐ死の状態になってしまうのかなと感じました。そう考えると「保存」という考え方自体が変わってくるのではないかと思います。


例えば、ネットアートのアーカイブをゲリラ的に行なっている「net.artdatabase」では、作品の動作環境やスクリーンショットの保存だけではなくて、作品を体験している状況も合わせて映像で記録しています。デスクトップパソコンでマウスとキーボードで作品を体験していたり、ノートブックを使って屋外で作品を体験していたりと、さまざまな状態での作品体験の様子が残されています。ネットアートの場合は、特に作品の体験の仕方は千差万別なので、このような方式のアーカイブは有効だと思います。これは「コンピュータの体験」とともに作品を保存するということでもあると思います。コンピュータをマウスで使っていたのか、トラックパッドで使っていたのか、スマートフォンの大きさはどうだったのか、といった、私たちの身体感覚に直結する部分をいかに保存していくのかということが、これから重要になってくるのではないでしょうか。人間と技術とが密着した状態にあるからこそ、この連合体から生じる私たちの感覚をどのように保存して、過去に継承していくのかが、問われていると言えるでしょう。


千房 水野さんがマクルーハンの「Looking through(透かし見る)」という言い方を引いていたように、メディアアートが使っているメディアって、メディア自体が流動的で変化しますよね★6。絵画や彫刻はメディアと作品が一致している。つまりキャンバスに絵の具が載ったものが「作品」なので、そのモノを保存するという考え方になりやすい。でもメディアアートは一般的にソフトウェアとハードウェアという2つの階層があって、ハードウェアは従来的な意味でのメディアに近いけど、ソフトウェアはもっと抽象的な存在で、別のハードウェアに乗り移ったり、バージョンアップされたりする。最初につくられた時のものが最終的にひとつも残っていなくても、同じ作品だとも言えてしまう。そういう意味でも保存どころかアイデンティファイ自体が難しいんですね。でも突き詰めて考えれば、《モナリザ》だってその意味は時代によって変わるのだから、ほかのアートだって似たような問題を抱えているのかもしれない。その意味で、藤幡さんがインタビューで「メディアアートを経由して、もう一度ほかのアートを定義し直す」と言っていたのは妥当なんじゃないかと思えるんです。



収録の様子(左上:千房けん輔氏、左下:赤岩やえ氏、右:水野勝仁氏)[撮影:千房けん輔]


★4──2018年2月11日に行なわれた「第2回メディアアート国際シンポジウム “アート&テクノロジー” ──創造・教育・アーカイブのために」(主催=国際交流基金アジアセンター、アーツカウンシル東京)でのプレゼンテーション。赤岩は、伊勢神宮の式年遷宮を例に、モノそのものを残すのではなくて、あえて新しくアップデートすることで「スピリットを残す」というアイデアから「保存」のイメージが変わったと話した。

★5──ピーター=ポール・フェルベーク『技術の道徳化──事物の道徳性を理解し設計する』(鈴木俊洋訳、法政大学出版局、2015)

★6──水野勝仁「039:『Looking through(透かし見る)』のメディウム」(note、2018.9.22)

モノを「保存」すればいいのか?


水野 実際にいまメディアアートの保存に関してどういった議論があるのでしょうか?


赤岩 ナムジュン・パイクの《カノープス》(1990)という6台のテレビモニターを使った作品があります。ドイツのZKMに収蔵されていますが、その作品が壁から落下して壊れてしまうというハプニングがありました。修復に携わったハンナ・ホリングさんの話では、eBayなどを探して、壊れたものと同じ機種のモニターや、作品で使われているものと同じタイヤのホイールを見つけることができたそうです。なので、動作としては完全に同じ状態に戻せる、ということになったそうなんですが、壊れてしまった部分にパイク直筆のサインがされていて、そこに手をつけることへの反発があり、議論の末に「修復不可能」という結論に至ったそうなんです★7。作家のサインという置き換え不可能なモノの唯一性を維持する考え方と、置き換え可能な新しいメディア作品の修復への考え方。相反するふたつの保存修復の考え方のあいだで揺れ動く、象徴的な例だと思いました。


千房 メディアアートはメディア(支持体)と作品の一致が弱いタイプですが、デュシャンの《泉》のようなレディメイドも、メディアと作品は一致していないですよね。便器そのものに意味があるんじゃなくて、当時それが提示された社会状況と合わせて考えることに意味がある。だから「デュシャンの便器」というモノを保存しても、当時の状況の説明がないと作品を保存したことにはならない。その状況はメディアアートと近いと思います。メディアアートも作品の周囲にある物語を継承していくことが、作品を保存するうえで重要じゃないかと。それを「保存」と言うべきか分からないですが。


水野 保存という概念が、いままではモノを中心に考えられてきていて、他方で千房さんがおっしゃるように文脈の保存も大事です。でもメディアアートにおいては、文脈だけではなく「net.artdatabase」のように当時の感覚も残していくことが結構大事だと思うんです。それが難しいところですけど。


例えば、2018年の5〜6月にエキソニモの作品《ゴットは、存在する。》(2009-)をキュレーターらが再制作(エキソニモ自身は再制作に関与しない)した展示「ゴットを、信じる方法。」(ARTZONE、2018)がありました★8。光学マウスとカーソルの感覚を扱った《祈》という作品の再制作では、マウス・カーソルで間接的にディスプレイに触れている世代とタッチパネルにダイレクトに触れることに馴染んでいる世代とで、インターフェイスに対する感覚な部分での違いを強く感じました。作品が示す同時代的な知識や状況だけではなくて、身体的感覚を再現することや身体的感覚を踏まえたうえで作品をアップデートして見せるのは「保存」という考え方では難しいことかなということを「ゴットを、信じる方法。」から考えました。モノだけではなく、情報にも触れるようになった黎明期として向こう100年くらいのあいだは、モノや情報に対する人間の身体感覚も不安定な状態にあると思われます。特定のデジタルデバイスを通して情報に触れていることから生まれた身体感覚は次々に失われていくと思うので、作品というモノだけでなく、その当時の身体感覚をいかに残していくのか。美術作品をゾンビのように生きながらえる方法だけでなく、人間と技術との関係をゾンビでもいいから残す方法を、いましっかり考えておかないといけない。「保存」という言葉や、従来の作品概念に引きずられすぎると、考えられなくなっちゃうんじゃないかなと思います。



エキソニモ《ゴットは、存在する。》(2009-)


赤岩 実際、美術館が行なっているメディアアートの保存修復は、作品ごとにケースバイケースみたいなんですよね。特にインスタレーション作品の修復なんかは、共通のメソッドがあるわけではないので、作品の細かな分析から始まって修復が終わるまでに時間がかかってペースも遅い。ネットアート作品はいままで山ほどつくられてきているのに、ニューヨークの美術館では、最近やっとグッゲンバイムがシュー・リー・チェンの《ブランドン》という作品の修復をやったぐらいで、美術館に収められたとしても延命する可能性すら薄い状況です。いままでの保存の考え方では、今後どれだけの作品が残せるんだろう、と思います。だから、いわゆる「保存」じゃないあり方……どうすればいいんでしょうね。


水野 研究者の明貫紘子さんのテキストにも、括弧つきで「もはや保存という表現は不適切かもしれない」とありましたね。だからこそ、今回の展示では「保存」に代わって「輪廻転生(リンカーネーション)」という言葉を提示したと言える。


千房 ゲームの保存も、メディアアートと同じ問題を抱えていますよね。インターネットアーカイブのジェイソン・スコットは、ボードゲームの紙とサイコロだけが保存されたとしても、そのうえで生まれた数々の物語は保存されないことを指摘していました★9。ビデオゲームであれば、マシンとの相互作用のなかに作品の中心がある。


赤岩 藤幡さんは「アート作品は、3度死ぬ」と言っていますよね。1回目は作者の手から離れるとき。2回目は他者に所有されたとき。そして、3回目は物質として機能しなくなるときと。メディアアートの特徴に、2回目の死というのが作品のなかにすでに組み込まれてしまっている、ということがあると思います。企業の提供するソフトウェアやハードウェア、外部サービスと連携した作品などは、企業の都合で突然強制的に死を迎えることもあるので、美術館やコレクターに収蔵されるという以外に、作品の構造としてすでに他者に所有されているような状態でもあるんですよね。



収録の様子[撮影:赤岩やえ]


千房 システム自体が企業に所有されていたり、そもそも作品自体が完全に独立したオブジェクトではない。iPhoneで動作する作品はiPhoneに依存するわけで、企業の価値観や資本主義の原則で動いている。


赤岩 メディアアートは、そもそも消費社会のサイクルに巻き込まれているからね。キャンバスや絵の具など、美術に特化したメディウムはわりと長持ちするようにつくられているけど、私たちが使うハードウェアやメディアは、数年で入れ替わるようなものだから、そこはもうどうしようもない。


水野 ほかのアーティストは、作品の保存や維持の問題をどのように考えているのでしょうか?


赤岩 まわりのメディアアート系の作家に聞いてみると、コレクションされた作品の保証に関しては、電化製品のように保証期間を2、3年として、そのあいだは壊れたら直しますよというような契約にしたりするみたいです。ですが、今回の輪廻転生展にも出展したラファエル・ロサノ=へメルの場合は、保証期間は0年なんだそうです。彼は、カナダに大きなスタジオを持っていて、そこのテクニカルチームがいつでも作品の修復やアップデートができる体制になっています。保証期間は0年だけど、依頼されたらいつでも駆けつけてパーフェクトなメンテナンスをしますよと。彼の場合は、こういったメンテナンスが資金元にもなっていて、活動の独立性や持続性を実現しているそうで、作家が消極的になりがちなコンサベーションの問題を、積極的にマネタイズに転換しているんですよね。彼のコンサベーションの実践についてのテキストは、GitHubでシェアされています。

水野 その文章、読んだことありますが、けっこう事細かに書いてありますよね(笑)。


赤岩 日本の作家だと、岩井俊雄さんは、美術館で展示する一点もののインスタレーションの保存の限界を強く感じつつ、一方でテレビ番組やゲームの制作も手がけていて、作品が美術館以外の流通で分散していくことのほうに、より保存の可能性を感じていたそうです。実際、いまでも岩井さんが手がけたテレビ番組がYouTubeで見られたり、エミュレーションされたゲームがプレイできたりしますよね。分散が保存につながるという考え方ですが、先ほどのラファエルも、“Conservation becomes infection.”と言っていて、作品のソースコードをオープンソース化して拡げていくことを試みているようですが、まだ実験段階という感じのようです。岩井さんの場合は、企業とのコラボやテレビなど、より影響力をもった分散が、結果保存につながっているという状況なのかなと思います。



★7──Hanna B. Holling, Paik's Virtual Archive: Time, Change, and Materiality in Media Art, University of California Press, 2017.

★8──展覧会「ゴットを、信じる方法。」については次を参照されたい。高嶋慈によるartscapeレビュー、および水野勝仁のブログ「ゴットを信じる会《告白》について考えたことと,これからエキソニモとゴットのどちらを探るのだろうか?」(touch-touch-touch、2018.5.6)

★9──Jason Scott “The Game Preservation Discussion Shortcut Cavalcade” (ASCII by Jason Scott, 2018.9.18)

トピックス /relation/e_00044936.json l 10150536
  • メディアから考えるアートの残し方
    第1回 エキソニモインタビュー