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[PR]徳川美術館に聞く! 学芸員インタヴュー
「合戦図─もののふたちの勇姿を描く─」
薄田大輔(徳川美術館学芸員)/内田伸一(編集者、ライター)
2019年08月01日号
対象美術館
名古屋城からバスで約15分。徳川美術館は、尾張藩2代藩主の徳川光友が隠居した御屋敷跡の緑豊かな一画に、日本庭園の「徳川園」、尾張徳川家伝来の古典籍を収蔵する「名古屋市蓬左文庫」とともにある。御三家筆頭の尾張徳川家が受け継いだ宝物を所蔵し、その大名文化を後世に伝えるべく、19代当主の徳川義親が1935年に開館。《源氏物語絵巻》ほか国宝9件を筆頭に1万件余の収蔵品を擁し、城郭を想わせる帝冠様式建築でも知られる。
国内外の歴史や美術好きに加え、近年は人気ゲーム/アニメ『刀剣乱舞』の影響で、同作の若いファンが名刀を見に多数訪れるなど、来場者も幅広い。歴史ある品ほど時代を超えて人々を惹きつける──そんな言葉を体現する同館がこのたび、絵画表現としての合戦図の歴史に迫るユニークな企画展を実現させた。「合戦図─もののふたちの勇姿を描く─」の担当学芸員である薄田大輔氏に、同展の挑戦と見どころを聞いた。
徳川美術館正門
「合戦図」の歩みを絵画史としてとらえる初の試み
徳川美術館のコレクションは、その内容と保存状態の良さ、そして確かな来歴から、史料的価値、美術的価値とも高く評価される。1987年の増改築では、名古屋城二之丸の茶室、室礼、能舞台を館内に再現。これらを生きた展示空間とし、武具、茶道具、調度品、能装束などを常設展示する。豊かな大名文化を、贅沢かつ等身大な環境で体験できるのが特徴だ。
企画展では多様な試みが見られ、従来、夏の企画展は「戦国もの」が定着していた。家族連れも多い時期に世代を超えて興味を持ってもらえるテーマで、加えて同館は信長、秀吉、家康の三英傑が関わった地にある、徳川ゆかりの美術館。これは自然な流れだったのだろう。一方で、合戦図の美術展という企画の背景には、主に歴史学で研究されてきたこの領域に新たな角度から光をあてたい、という薄田氏の想いがあった。
薄田──私自身、江戸絵画を主とした美術史学を専門にしてきて、当館に赴任するまでは合戦図に特別な関心を持たずにいました。しかし収蔵品を起点にこれらを調べていくと、誰がどんな意図で生み出し、表現上どのように変化してきたかなど、非常に興味深い点がある。そこで、絵画としての合戦図に迫る展覧会を実現したいと考えたのです。さらに、徳川美術館が監修に加わった凸版印刷株式会社のプロジェクト《大坂冬の陣図屏風》のデジタル想定復元が今年5月に完成、本館で初お披露目となったことも企画を後押ししてくれました。今回は復元版のもとになった東京国立博物館蔵の《大坂冬の陣図屏風 模本》(展示期間:7/27〜8/25)などとともに公開します。
こうして実現した本展では、同館が所蔵する愛知県ゆかりの《長篠合戦図屏風》などに加え、全国から合戦図の名品約50点が集結。合戦図の絵画表現に注目したアプローチが随所にみられるほか、当時の戦のリアリティを伝える甲冑や刀、火縄銃などの実物も展示される。
合戦図のはじまり──中世の物語絵巻
従来の合戦図展では、制作時期よりも、モチーフとなった戦の時代順に見せていくのが主流だった。しかし今回は絵画表現としての歴史的展開をとらえるべく、制作時代順に追っていく構成をとる。展覧会は二部構成で、第一部「中世の合戦を描く」では『平家物語』など、軍記物語をもとに作られた中世の絵巻作品から始まる合戦図の世界を見ることができる。
薄田──これまでにも大阪城天守閣や和歌山県立博物館で、江戸時代以降に生まれた『戦国合戦図屏風』の展覧会がありました。ただ合戦図には、より以前、中世の『合戦絵巻』から始まるルーツがあります。そこで本展では、この時代になぜ合戦が絵画として描かれ始めたのか? という点から歴史を辿ることを目指しました。
薄田氏によれば当初、合戦図は「物語を描く」ことだった。現在わかる最初期の合戦図は、戦闘当時の記録画ではなく、『保元物語』『平家物語』など後世の軍記物語をもとに制作された。画面が右から左へと続くことで時の経過が表せる絵巻の特性を生かし、合戦図が描かれ始めたと考えられる。
※本展では13世紀の国宝《平治物語絵巻》(展示期間:7/27〜8/18)、14世紀の重要文化財《後三年合戦絵巻》(いずれも東京国立博物館蔵)も出品される。
薄田──当時の公家の日記などから、天皇などが作らせ、鑑賞したと推測できます。 これらの絵巻には戦史を伝える役割もあったと思いますが、性格的には『物語絵』で、つまり名武将の悲劇の最期をはじめさまざまな物語が描かれています。
変化が現れるのは、鎌倉幕府以降。合戦絵巻が武家においても読まれるようになり、理想的な武士の姿が合戦図へ求められていく。
薄田──鎌倉の将軍が京都から絵巻を取り寄せて鑑賞していたことなどが、やはり当時の記録から確認できます。おそらく鎌倉武家にとっては祖先への関心や、また幼い将軍らの教育用として、こうした合戦絵巻が読まれたと推測されています。先達の武将たちが勇猛果敢に戦場を駆け回る様子が、そうした用途に使われたのではないでしょうか。
もっとも、今回は鎌倉期以降の作例複数が出展される《後三年合戦絵巻》と《平治物語絵巻》でも、両者の視点は異なる。前者は戦場の背景はさほど描き込まず、武士たちを大きく描き、その躍動的で力強い姿を強調する傾向が強い。凄惨な場面なども仔細に描かれている。対して後者では色とりどりの華やかな甲冑や、平清盛が敵方から救出した天皇を、整列した武士たちが迎える様子などが特徴的。各々が武士の理想像を異なる角度から描いたとも言えそうだ。
薄田──『合戦を描く』行為はさらに多様なジャンルに広がります。たとえば仏教美術。寺院の縁起=歴史を描いた絵巻には、そこで祈りを捧げて勝利した武将のことが記録されました。これらはその神仏の力を伝える格好の材料にもなったでしょう、一方で《真如堂縁起絵巻 写》(真正極楽寺蔵)では、応仁の乱で真如堂を破壊する足軽の狼藉が描かれました。戦いと宗教がそれだけ大きな存在だった時代とも言えます。
さらには、仇討ちを題材に、そこから始まる物語を素朴なタッチで描く《てこくま物語》(碧南市藤井達吉現代美術館蔵)なども登場。必ずしも史実に基づかない画題を含め、戦いはさまざまに描かれていった。
屏風絵・襖絵によるスケールの拡大
江戸時代に入ると、合戦図は屏風や襖に描かれ始める。大画面に描くことにより武者の群れが激突するような迫力のある絵も描けるようになった。絵巻ではせいぜい十数人の武者の戦いが描かれるところ、屏風絵や襖絵なら戦の全貌を大観的に描くことも可能になる。
薄田──これは室町後期からの動きですが、多くの屏風が作られたのは江戸時代です。今回は《一の谷・屋島・壇の浦合戦図屏風》(展示期間中に隻替あり)《一の谷・屋島合戦図屏風》(展示期間:7/27〜8/18)(いずれも個人蔵)の一般初公開が叶いました。これらはまさに無数の武者が入り乱れる、圧倒的な臨場感にあふれる絵です。遠目には美しくも見えますが、細部には激しく生々しい戦いが描かれています。見る側はそうしたダイナミズムとディテールの双方を体験することになります。
有名な那須与一の扇の的当てや、河原兄弟が助け合いながら共に討ち死にする場面、義経をかばった家臣が戦死するシーンなど、ここでも忠君、勇猛、親兄弟の愛といった、武士の理想像が網羅・凝縮された。やはり主に武家が鑑賞したと推測されるが、薄田氏はそこに以前の時代と違う受容のされ方もあったのではと語る。
薄田大輔氏
薄田──もはや実際に武器を手にとり戦に赴くことがなくなっていく江戸時代において、武士たちが本来の姿とされてきた戦に臨む様子を追体験するというか、絵画を通して戦人の姿に、ある種の憧憬を持ってふれる、そんな役割もあったのではと思います。
江戸期における合戦図の成熟においては、名のある絵師たちが意識的に過去の中世合戦絵巻に学ぶ動きもあった。人物表現を学んだ岩佐又兵衛による《堀江物語絵巻》(京都国立博物館蔵)は、侍が敵を真っ二つに切り裂く、激しくも躍動感あふれる描写が特徴。重要文化財《石山寺縁起絵巻》(石山寺蔵)(展示期間:8/20〜9/8)は、詞書のみが残っていた欠落巻の補作を依頼された老中松平定信がこれを谷文晁に任せたもので、文晁は中世の《平治物語絵巻》などにおける合戦表現を参考にしたという。
薄田──近世の屏風絵には壮大さがある一方、表現がどこか硬くなっていく印象もあります。対して又兵衛や文晁の作品は、生き生きとした躍動的な表現に回帰した印象がある。これらは中世合戦図のリバイバル的な表現と言えるでしょう。古美術では模倣は必ずしも悪ではなく、先達の表現を踏襲することは古典のアプローチのひとつとして位置づけられますが、又兵衛や文晁はそれをより意識的に行うことで、新しいものを生み出そうという意思を感じさせます。
回帰と再発展という点では、江戸時代にも軍記物語の全編を絵巻で描く動きがあった。極彩色が美しい岡山・林原美術館蔵の《平家物語絵巻》は国内で唯一、平家物語が全て揃う36巻の絵巻。こうした豪華な大作の合戦絵巻も生まれていく。
先祖の武勲顕彰、そして再び物語化へ──戦国合戦図
古趣豊かな徳川美術館本館での第一部に続き、第二部は渡り廊下でつながる「名古屋市蓬左文庫」での展示となる。こちらは尾張徳川家の旧蔵書など約11万件の文献を所蔵し、1978年以降は名古屋市博物館の分館として運営されている。
薄田──ここでの第二部は、江戸時代に描かれた戦国時代の合戦図をみていきます。これら『戦国合戦図』の特徴は、特定の武家、つまり絵の発注主の先祖が、いかに活躍したかを示すことが主な役割になったことです。そのため絵画のあり様も大きく変わってきます。
重要文化財の《関ヶ原合戦図屏風》(大阪歴史博物館蔵)(展示期間中に隻替あり)は、おそらく戦国合戦図の中でも最古の作品だという。戦場の山河などの地理的環境、また各軍の配置や旗印、馬印などが絵図などを参考に描かれた形跡がある一方で、人物を特定できる描かれ方をしているのは、川を渡る家康だけである。なお戦国合戦図の多くはモチーフとなる戦よりも後に描かれたものが主流とされるが、この絵は家康自身が所有していたとの伝承もある。
薄田──この作品をめぐってはさまざまな読み解きがなされています。たとえば、この戦は家康にとって不本意な勝ち方だったということからの推測。家康は徳川家本隊で石田三成勢を粉砕するつもりが、到着が遅れたため、秀吉恩顧の武将たちの力で勝った。その事実を薄めるために家康だけを目立たせ、強調したのではという考察があります。
さらに17世紀半ば以降、各武家で先祖の活躍を屏風絵に描くことが主流になっていく。同館所蔵の《長篠長久手合戦図屏風》はそのひとつで、ほとんどの武将が類型的な甲冑姿で描かれる一方、本多忠勝ひとりが鹿の角を冠した黒塗り甲冑で存在感を放っている。明らかにその活躍を強調し、後世に伝えるために描かれたと考えられる。
《長篠合戦図屏風 六曲一隻》部分 尾張徳川家伝来 江戸時代 18-19世紀 徳川美術館蔵(展示期間:7/27〜8/18)
薄田──長篠合戦図は他にもいくつかあり、それぞれ画中で活躍する人が異なる。これは注文主の意向であることがわかっています。つまり一定の物語性や、配軍位置などの正確さは残しつつ、特定勢力の活躍を強調するのです。対照的に、源平合戦図などはストーリーを重視する一方で地形描写などは正確さに欠くものがあります。例えば、類例が多く残る一の谷合戦図では画面の中心となる平家の屋敷は、実際は海辺にはありませんでした。しかし有名な戦には海辺を舞台にしたものが多いことから、海辺を背景に描かれたと考えられます。
興味深いことに、江戸時代も後期に入ると、合戦図が再び物語化する傾向が現れる。対象となる合戦から時代が遠く離れ、実際の戦いは誰も知らない状態になっていくがゆえの変化だろうか。
薄田──史実に対する正確さから逸脱していくことで、興味深い表現も現れます。《山崎合戦図屏風》(大阪城天守閣蔵)(展示期間:8/20〜9/8)では秀吉の馬標が、実際とは異なる無数の金色のひょうたんからなる図様として描かれます。これは小説『絵本太閤記』に登場する馬印で、つまり架空の図案を描いているのです。このほかの合戦図でも伝説の軍師を描き込んだ絵などもあり、かなり自由な描写が出てくる。見る側にも、そこを楽しむ新たな視点が生まれたのではないでしょうか。
こうした変化は、本展にも登場する「関ヶ原の合戦」などメジャーな戦を描いた複数の合戦図に注目すると、より実感できるという。
時を超えて白熱する議論
戦国合戦図をめぐっては、今なお白熱した議論が展開される作品もある。前述の通りデジタル想定復元が試みられた《大坂冬の陣図屏風》がそれだ。これは東京国立博物館が所蔵する模本をもとに、そこに仔細に書き込まれた彩色情報などを反映しつつ、原本の姿を想定復元したものである。
薄田──模本は江戸後期のものとされますが、原本がいつどのように描かれたかが改めて議論になっています。時期は江戸前期で、つまり最初期の合戦図のひとつだろうということがいわれています。というのも、塹壕を掘った戦法や竹の束を立て弾を防ぐ様子など、非常にリアルな戦闘風景が描かれているからといわれます。戦国合戦図の初期作例は17世紀の《関ヶ原合戦図屏風 八曲一双》(大阪歴史博物館蔵)など数点のみなので、非常に重要。想定復元に至った背景にはそうしたこともあります。
想定復元に関わったメンバーの間でも意見が分かれるのは、誰が作らせたのかという点だという。攻める徳川方か、守る豊臣方か。
薄田──大坂城を攻めようとする徳川軍が屏風の端に描かれていることから、豊臣方が作らせた合戦図という可能性があります。徳川の大軍を前に持ちこたえている豊臣勢の絵ではないかということですね。真田丸の奮闘や塙団右衛門(塙直之)の夜襲など、豊臣勢が活躍する描写があるのも事実です。他方、デジタル想定復元の結果、合戦図の右上にある徳川秀忠の陣が突出してカラフルに描かれていたことがわかりました。そうしたことから、徳川家がこれを作らせたという見方もできます。
しかし、この屏風は徳川幕府が持っていたという不思議な伝来もある。では薄田氏の考えはといえば、現状では徳川家が発注して描かせたものだと推測している。
薄田──今回出展される《長篠合戦図屏風 下絵》(東京国立博物館蔵)は、徳川家が発注した合戦図の下絵だとわかっています。これが興味深いのは、敵勢の武田軍の活躍もきちんと描いていること。統治者側の余裕なのか、どうも徳川家の作った合戦図では敵方の武将の活躍を描くことがあったようです。そうすると《大坂冬の陣図屏風》においても豊臣勢の活躍を徳川が描かせたということもあり得ることではないか。私はそう考えています。
議論は未だ決着していないが、今回の展覧会期中のシンポジウムでも、これが議論の的となるのではと薄田氏は言う。戦国合戦図の面白さは、こうしたことを図像から読み解いていくところにもありそうだ。
薄田──確かにそうで、展覧会を訪れる皆さんも『このやけに目立つ武将は誰?』など、それぞれ興味を持てるところから楽しんで頂きたいですね。展示では解説パネルを併置して、描かれた武将の名前や戦の背景なども伝える工夫をします。もともと学校の授業などでふれてきた要素も多いので、皆さんがとっかかりを得やすい世界でもある。そこから絵画としての魅力も感じてもらえたら幸いです。
美術史で扱われる絵画は、たとえば北斎や若冲、岩佐又兵衛ら著名な描き手によるものや、突出した表現力が認められるもの中心とならざるを得ない。しかし、合戦図にもここまで見てきたような歴史と多様性、そして絵画としての魅力があるのも確かだ。
また薄田氏は、明確でないケースが多い合戦図の描き手についても研究している。中世の戦を描く合戦図も町絵師工房などへ発注されてきたと考えられ、このことは初期の戦国合戦図にも踏襲されているという。こうした多面的な研究から点を線に、線を面にしつつ、歴史上の合戦図の重要性を確認していくことにも期待がかかる。
薄田──特に、中世合戦図からの流れの中で戦国合戦図がどのように位置付けられるか。今回そこに端緒をつけることに挑戦したい思いがありました。調べていくとかなり多様性もあり、また同じ画題で先祖の顕彰などを目的に図様を変えていくことなどは、他の日本美術にない特徴です。さらに、絵画が権力とどう結びついてきたのかなど、合戦図ならではの絵画史の切り口もある。美術史学上のことで言えば、本展がそうした研究を後押しする契機になれば嬉しい限りです。
合戦図の歴史はそのまま、変革や混乱を繰り返してきた(そして今もその最中にある)日本の歴史と重なる。この国に生きた人々がそこで見てきたものを考えるうえでも、時空を超えて幾多の合戦図と向き合うことは、意義ある体験だと思われる。
合戦図─もののふたちの勇姿を描く─
会期:2019年7月27日(土)〜9月8日(日)
会場:徳川美術館
名古屋市東区徳川町1017
tel. 052-935-6262
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