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[PR]「見ること」「光や空間を把握すること」の不思議をめぐって
──「伊庭靖子展 まなざしのあわい」

木村重樹(編集者・ライター)

2019年08月01日号

7月20日より、東京都美術館にて開催中の「伊庭靖子展 まなざしのあわい」。作家みずからがモティーフをカメラで撮影し、その写真をもとに緻密な油彩画を描き上げるスタイルで、90年代半ば一躍注目を集めた伊庭靖子(1967-)。そんな伊庭の絵画や版画作品を中心に、今回初の試みとなる映像作品を合わせた合計52点が展示されている。
都内の美術館では初の開催となる伊庭靖子の個展。東京以外に範囲を広げても、2009年の「伊庭靖子─まばゆさの在処─」(神奈川県立近代美術館 鎌倉)以来、実に10年ぶりとなる。前回の展覧会が「開催時点までの創作活動の集大成」だったのに対し、今回の個展はここ15年以内に制作された近作・新作に絞られている。しかし、複数のシリーズが展示されており、それらを通覧することで、伊庭自身の美術家としての意識や関心事のゆるやかな変遷をも指し示す内容となっている。
ちなみに東京都美術館では2012年のリニューアルオープン以来、数年に一度のペースで活躍中の中堅作家の個展を企画してきた。そのなかで本展は「福田美蘭展」(2013)、「杉戸洋 とんぼ と のりしろ」(2017)に続く、3人目の試みにあたる。

自作を前にした伊庭靖子

「絵画とは?」「見るとは?」……根源的な問いへと誘う、伊庭の絵画

展覧会タイトルにもなっている「あわい(間)」という言葉には「作家の眼とモティーフのあわい」、さらには「モティーフと周囲の空間のあわい」など、複層的な意味が込められている。いくつもの「あいだ(間)」に意識を向け、じっくりと注視し、一連の要素を取捨選択したうえで描きあげる。そんな伊庭靖子の創作態度を集約するようなキーワードである。

キャリアの最初期においては、写真をもとに描いた油彩画が、元のモティーフの質感や色調よりも、より“本物らしい”ところが話題となった伊庭だが、それまで極端なクローズアップで描かれていたモティーフとの距離が、最近では少しずつ広がりをみせている。同時に、「空間」や「風景」への関心が高まることで、絵の構図や描写も新たな展開を迎えている。

「肉眼ではたくさんの物が見えています。写真はもともと好きでよく撮っていました。反射光で取られる写真では抜け落ちるものがありますが、残されて、良いと感じた物だけを絵の中で引き上げていくと、描きたい世界が表現できます」(伊庭)

[『東京都美術館ニュース』No.460より]


時として曲解されがちなのは、伊庭の絵画はいわゆるフォト・リアリズム的な(まるで写真みたいにリアルな)絵画を目指しているわけではないということだ。本人の言にもあったように、あらかじめ描く対象として選ばれたモティーフや、その周囲の空間をいったん写真にキャプチャーし、さらにそれらを入念に観察しながら、「描く」ものと「描かない」ものを慎重に峻別してゆく。結果できあがるのは「伊庭靖子の視覚世界」としか言いようのない独特な絵画空間だ。

撮影写真を手に制作中の伊庭靖子

きれいな柄が刺繍されたクッションや、真っ白な陶器の傷ひとつない表面など、静謐かつ繊細なモノの質感や色調が(写真機と画家のまなざしを経由することで)ブローアップされ、刻印される。一見すると毒気の薄い、朧げなモティーフを主題とした絵画作品だが、そこに描かれているモノとそれに降り注ぐ光、さらには周辺の空間へと目を向けてゆくうちに、「見るとは何か?」さらには「絵画とは何か?」といった根源的な問いに、鑑賞者を誘うところがある。

担当学芸員の大橋菜都子氏は、企画の経緯についてインタビューのなかでこう語ってくれた。

大橋──もともとの私の専門は19世紀後半のフランス美術、つまり印象派・ポスト印象派の絵画です。当時の美術は、写真機の誕生や普及などの影響も踏まえ、空間や時間の推移による光の変化の捉え方や、対象そのものを観察する態度を刷新してゆくことで、絵画表現に新しい地平を切り開きました。そうした絵画表現は、20世紀以降の現代美術に大きな影響を与えましたが、ストレートに継承されたわけではありません。よりコンセプチュアルな方向に、あるいは抽象的な表現に向かったアーティストが多いなか、あくまでも具象画にとどまりつつ、絵画表現における実験と実践を続けられている伊庭靖子さんに興味をもち、個展を企画したのです。

複数のシリーズから多面的に紹介される、伊庭ワールドの変遷

今回の展示は、東京都美術館の地下2階~3階に広がる「ギャラリーA・B・C」を会場にした、大がかりなもの。さらに展示全体は、大きく六つに区分けされ、モティーフや制作時期、制作スタイルがコーナーごとに異なっている。

しかし会場展示で、それら一連の「区分」を明確に示すような案内がされているわけではない。以下、各コーナーの特徴を簡単に紹介しておこう。

1:ギャラリーC[クッションと寝具]

2003年頃にスタートした、クッションと寝具のシリーズ。いずれも対象に近接した視点から、原寸よりもかなり拡大されて描かれている。カンヴァスに描かれたクッションの模様が、画面から浮かび上がってくるさまは壮観である。

伊庭靖子《Untitled 2008-12》油彩・カンヴァス、eN arts collection蔵
[撮影:加藤成文]

2:ギャラリーC[器]

2010年代にスタートした器を描いたシリーズ。先のクッションの作品と比べると、硬質で艶のある器が生み出す光の表現が目を引く。実物よりもより強調気味に光が描かれることで、あえて「これは絵画である」というニュアンスが際立ってくる。

伊庭靖子《Untitled 2012-02》油彩・カンヴァス、J.SUZUKI氏蔵
[撮影: 木奥惠三 Keizo Kioku]Courtesy of MISA SHIN GALLERY

3:ギャラリーA[アクリルボックス]

小さな器を透明なアクリルボックスに入れることで、光が箱の表面に反射して、周囲の景色が映り込んでいる状態を捉えたシリーズ。いずれもここ3~4年内の作品であり、なかにはここ東京都美術館内で写真撮影したものもある。クッションや器のシリーズと比べても、モティーフの周囲の空間的な広がりまで描かれている点に注目してほしい。

伊庭靖子《Untitled 2018-03》油彩・カンヴァス、個人蔵
[撮影:木奥惠三 Keizo Kioku]

4:ギャラリーA[仮称:「黒のシリーズ」]

今年に入って制作が始まった最新シリーズで、暗さのなかの淡い光が注目されているシリーズ。ヴェールのように透けた帯の色面が器や瓶を部分的に隠し、見る者の視線を奥へと誘導する。と同時に、前景に描かれたヴェールは、それがカンヴァスという「平面に描かれている」ことを強く意識させる。



伊庭靖子《Untitled 2018-04》油彩・カンヴァス、菅野律子氏蔵
[撮影: 木奥惠三 Keizo Kioku]

5:ギャラリーB[版画]

2004年以来となる、久々の伊庭の版画シリーズ。「grain(グレイン:粒)」というタイトルのとおり、写真に描画を加えたイメージをシルクスクリーンで刷り重ね、色彩の粒の重なりによって描かれた風景は、写真とも現実とも異なる、独特の奥行きを漂わせている。

伊庭靖子《grain #2018-2》シルクスクリーン・紙、 Courtesy of Gallery Nomart

6:ギャラリーB[映像]

作家初の試みである、新作の映像作品。二つのスクリーンに投影される。ひとつはステレオグラム(立体視:左右の目の視差を利用して、モノを立体的に見る方法)を用いた映像。無数の粒子が動き回る映像を注視していると(コツさえつかめば)透明感のある物体がそこに立ち現われる。

伊庭靖子《depth #2019》映像インスタレーション風景より(ギャラリーノマル、2019)© 植松琢麿

もうひとつは、奥行きをモノクロームで表わすデプス(深度)マップを用いた映像。近いものがより白く/遠いものがより黒く捉えるセンサーが提示する世界は、先のステレオグラム映像を読み解く“ヒント”にもなっている。

「人は、目に入ってくる光によって、色や質感、形などを把握します。これらの視覚情報は脳によって認識されますが、情報が制限された状態では、あやふやな物として見えます。ここでは、自分と対象物との距離だけで捉えた映像で、何がどう見えるのか、普段とどう違って見えたか体感してもらう新たな試みをしています」(伊庭)

[『東京都美術館ニュース』No.460より]


通常の絵画制作では、静物の表面の質感や周囲の光や空間を緻密に描いてきた伊庭が、いざ映像作品に着手した際、このようなアブストラクトな表現に向かったのは意外かもしれない。だが、クッションや器の模様が「浮き出た」り、アクリルボックス越しに見える景色のレイヤー構造を思い起こせば、それらの延長上にこれらの映像を位置づけることは、そう不自然ではないのかもしれない。

「見ること」を再認識する体験の場として

展示風景[撮影:artscape編集部]

伊庭の絵画は美術コレクターからの人気も高く、個人の邸宅に飾られている作品も少なくない 。今回の展示では、実に20点近い個人蔵の作品が借り出されているのも特徴のひとつだ。一見、穏やかで観る者の心をなごませる伊庭の作品を、こうしたまとまったかたちで鑑賞できる機会は、実はそうそうあるものではない。

「来場者の皆さんには、眼でみるだけではなく、五感でみて(感じて)欲しい。“見る”ことをあらためて認識する機会になったらうれしいです」(伊庭)

[『東京都美術館ニュース』No.460より]


最後に、担当学芸員・大橋氏のコメントを、もうひとつ引いておこう。

大橋──最近ではテレビやパソコン、スマートフォンなどの平面のメディアで「世界を知る」、あるいは「知ったような気になる」機会が圧倒的に増えています。そんなとき、さまざまな作品を通じて伊庭さんが提示する多様なまなざしは、目の前にある世界をどう捉え、どう認識しているかを問い直す、ひとつのきっかけを与えてくれると思います。

一見すると、サラリと鑑賞できてしまいそうな伊庭の作品群だが、実際のスケール感や表面のマチエールの巧みさは、雑誌やチラシなどの印刷物はもちろんのこと、スマホやPCのモニタ画面でも到底わからない。複製メディアでは代替がかなわない独特のアウラをまとった造形表現なのである。

モティーフのみずみずしさを堪能するのもよし、視覚や空間認識にまつわるアポリア(難題)に思いを巡らせるのもよし。暑い夏のさなか、エアコンの効いた展示会場で、伊庭靖子が提示する「光と質感と空間のシャワー」を、全身で浴びてみてはいかがだろうか。

制作中の伊庭靖子


伊庭靖子展 まなざしのあわい

会場:東京都美術館(東京都台東区上野公園8-36)
会期:2019年7月20日(土)~10月9日(水)9:30~17:30
※金曜日は20:00まで。8月2日、8月9日、8月16日、8月23日、8月30日は21:00まで。いずれも入室は閉室の30分前まで。
※「サマーナイトミュージアム割引」:8月2日、8月9日、8月16日、8月23日、8月30日の17:00〜21:00は、一般600円、大学生・専門学校生無料(証明できるものをお持ちください)。
公式サイト:https://www.tobikan.jp/yasukoiba/

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