アート・アーカイブ探求
川合玉堂《早乙女》──里山の余情「草薙奈津子」
影山幸一
2015年08月15日号
対象美術館
光る水田
床の間に掛ける掛軸の絵なのだろうか。枯れた感じの水墨画でもなければ、華やかな花鳥の絵でもない。微笑みながら田植えをする5人の女性たち、画面を斜めに分割するあぜ道や、小川に浮かぶ小舟、かつてはどこにでもあったであろう自然の中での日常の労働を、一幅の掛軸に仕立てている。まるで人間も自然も大切だよ、と物語っているスナップ写真か、柔らかな色のイラストのような、終戦の年に描かれたとは思えない日本画。《早乙女》(山種美術館蔵)である。何も描かれていない画面中央の大部分は、水田が光る不思議な効果を生み出している。
いまでは見ることのできない早乙女による初夏の田植えの光景なのだが、苗を植えたところと植えないところの進展具合や、早乙女5人の姿などを、丘の上から青草の上に座ってのんびりと眺めているようで気持ちがいい。光に照るたんぼの水と、緑の苗が整然と並び、清澄な溌剌とした気分にしてくれる。さらっと描いたように見える筆触は、緊張をほぐしてくれ心地よい。
『巨匠の日本画[3]川合玉堂』の編著者である草薙奈津子氏(以下、草薙氏)に《早乙女》の見方を伺いたいと思った。草薙氏は、現在平塚市美術館の館長として美術館活性化に取組まれているが、山種美術館でも長い間学芸員を務められ、玉堂芸術に詳しい。
カリスマ館長
JR平塚駅からバスで10分ほど、下車したバス停には「美術館入口」と「ペコちゃんの不二家平塚工場前」とも書かれていた。ペコちゃんの工場があると思ったら、美術館では「ペコちゃん展」が開かれ、17人の現代アーティストがペコちゃんにまつわる新作27点を発表していた。地域貢献でもあるが、一企業のキャラクターを公立美術館が「美術」というキーワードで展覧会にする手腕に、入館者数を3倍に増やしてきた草薙氏がカリスマ館長と呼ばれる一端を垣間見た気がした。
草薙氏は、哲学者草薙正夫(1900-1997)の四女として横浜に生まれた。少女時代、特になりたいものはなかったと言う一方、なんでもやってみたいと思ったとも言う。慶應義塾大学文学部哲学科に入学、観世流の謡・仕舞に夢中になった。当時女性は就職しないのが普通だったが、母のすすめもあり、父と親しかった美術評論家の河北倫明(みちあき、1914-1995)氏に相談し、卒業後は山種美術館へ就職した。段々仕事が面白くなり、絵に関心を持ち研究するようになった。山種美術館の学芸員として「今村紫紅展」「奥村土牛展」「前田青邨展」などを企画、監修し、30年ほど勤め、2004年から平塚市美術館の館長に就任、「山本丘人展」「速水御舟展」「伊東深水展」などを開催している。近代・現代日本画史が専門で、美術評論家としても活動している。「山種美術館の近代日本画は、東京国立近代美術館よりも充実していると言われていたが、実感したのは山種美術館を辞めたてからだった」と言う。
柔軟な強さ
川合玉堂は、1873(明治6)年愛知県葉栗郡(現・一宮市木曾川町)に生まれた。8歳のとき岐阜へ引越した玉堂は、絵が上手く14歳で望月玉泉(1834-1913)の門に入り、次いで京都へ移住し、本格的に画家になる決心をして、円山四条派の幸野楳嶺(1844-1895)に入門した。そして、1896(明治29)年玉堂23歳のときに、橋本雅邦(1835-1908)の《龍虎図》《釈迦・十六羅漢図》に衝撃を受け、狩野派の流れを汲む、伝統と革新のバランスのとれた表現者である雅邦のもとに弟子入りするため、上京。
玉堂は狩野派の描線的骨格を極め、円山四条派の写生的技法と、時代の空気であったターナー(1775-1851)など、西洋画の色彩や空間的表現法を融合させた独自の画境を築き、《二日月》(東京国立近代美術館蔵)を完成させた。日本美術院に設立当初より参加し、私塾「長流画塾」を主宰、第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、東京美術学校日本画科教授となり、帝室技芸員に任じられるなど、日本画壇の中心的存在のひとりとなる。
明治、大正、昭和を通して、自然と人生をよく味わい味得するという東洋の文人的境涯を身に付けた玉堂は、温雅な画趣を湛えた山水風景画を描き続けた。声高になることを恥じらい、無闇に主張せず、控えめに、淡々とした柔軟さが玉堂の強さであった。日本画家・鏑木清方(1878-1972)は玉堂の訃報に接したとき「日本の山河がなくなったような気がする」と嘆いたという。
俳句や和歌などの詩文をたしなみ、文学にも造詣の深い玉堂が描く穏やかな風景画は、微温的であり、自己主張の強い感覚主義的絵画に慣れた目には物足りなさを感じる。しかし一方で青葉の渓谷の流れや初冬の山の稜線に、玉堂の世界を発見し思わず感嘆することがある、と草薙氏は述べている。
【早乙女の見方】
(1)タイトル
早乙女(さおとめ)。英文:Young Ladies Planting Rice
(2)モチーフ
田植えをする女(早乙女)、たんぼ。
(3)制作年
1945(昭和20)年。太平洋戦争終戦の年、玉堂72歳。日本画家は基本的に実戦的な戦争画を描かない。社会に関心はあっても、反体制的態度をとることに躊躇するところがあるのかもしれない。
(4)画材
絹本彩色。軸装。
(5)サイズ
縦63.5×横87.3㎝。
(6)構図
たんぼを上空から俯瞰した平面的な構図は、日本画の伝統的な鳥瞰図法。画面中央に苗はなく、上下に苗があるため、画面を越えた広い空間が伝わってくる。さりげなく見えるが大胆な構成と空間の取り方は計算されている。
(7)色彩
多色。
(8)技法
淡墨の没骨(もっこつ)
(9)落款
画面右下に「玉堂」の署名と、「指筑臺」白文方印の印章。「指筑臺」は1915(大正4)年に玉堂が新築した東京牛込若宮町の自宅にちなむ画印であり、当時この自宅からは筑波山が望めた。
(10)鑑賞のポイント
初夏、小舟が係留している野川に沿った水田に、無地や絣の着物に赤や緑色の帯をしめた早乙女が楽しそうに田植えをしている。水の表現の上手な玉堂が、静止しているたんぼの水と流れている野川の水をひとつの画面に収めた。たんぼの水が空を鏡のように照らし、川の水は画面上から下へ水の流れを伝えている。方形のあぜと腰を曲げた女たちのポーズが利いて、リズミカルに並んでいる黄緑色の苗が冴えて水面が美しい。日本風土の真情に触れた平和な庶民の懐かしい日本の原風景である。玉堂は、1944(昭和19)年7月に東京西多摩郡御岳(みたけ)に疎開し、9月には同じ西多摩の古里(こり)村白丸(しろまる)に移っている。そして昭和20年に東京牛込若宮町の自宅が戦災で焼失すると、その年の暮れには御岳に移り、「偶庵(ぐうあん)」をついの住処とした。《早乙女》は白丸疎開中の作といわれている。「晩期十年の奥多摩の画生活によって、玉堂芸術ははじめて自然と人間と画法(伝統)とがまったく溶けきって一つになるところに進んだ」(河北倫明『美術手帖』No.130、p.122)。玉堂晩年の優品。
里山の自然
初めて玉堂作品を見たのが山種美術館だったという草薙氏は、《早乙女》について「玉堂は俵屋宗達(桃山・江戸初期)を学んでいた。あぜ道のつくり方や、緑青の使い方、少し華やかな感じなど。そして点在する人間は自然という宇宙に包まれる点景であるが、その人間描写のうまさは、ちっぽけな存在ながら宇宙を支配しているようにも見える。早乙女の動きをそれぞれ変えても全体がまとまっているように非常にバランスがよく、細かい表現も描写している。それは玉堂の観察力あってのこと。ひょっとすると玉堂は人物画家だったのではないだろうかとさえ思わせる。そして季節。これから夏になる季節の上り坂、季節の明るさがある。もちろん俯瞰的構図はいい」と述べた。
そして玉堂芸術についても語った。「横山大観(1868-1958)は日本画を革新しようという気持ちがあって絵を発表している。竹内栖鳳(1864-1942)は京都の画壇で確固たる地位を築き、西洋絵画を咀嚼し、京都の作風を示した。玉堂は、そのなかでは中途半端といえるかもしれない。京都から東京へ移り、また画風も諸派の作風を取り入れながら、農民の生活を描いた画家ミレー(1814-1875)のバルビゾン派に見られる穏やかで中庸な感じ。ひとつ物足りない。とても感じのいい絵だけれど、若い人が魅力を感じるような強い個性はなく、淡々としている。玉堂は作品からもうかがえるように穏やかでいい人だったらしい。大正時代の自由で穏やかな空気や流行した装飾的な琳派、その後の新古典主義、そうした時代の空気を反映しながらも玉堂には、しみじみとした個性を埋没させない強さがあった。玉堂芸術には不思議なしぶとさがあるのかもしれない。自然に対する玉堂の関心は、山の頂上まで登って見るものではなく、里山の自然を玉堂は愛した。そこには人間の営み、生活の余情が感じられる。だから平明で優しい。これは玉堂の特質」。
良いものを掬いとる
「平和な山村、田園、漁村の自然と生活の中から、やがて滅びるであろう良きものを掬いあげてやまなかった玉堂芸術は、将来こそいっそう真価を発揮するのではないか」(永井明生『川合玉堂展』図録p.11)と河北倫明が予言した。日本の自然と暮らしから育まれた良き日本の風景や美点を、玉堂芸術は珠玉のように感じとれる可能性を残してくれた。人間が自然と共にある喜びを、体験させてくれるアートイベントがある。“人間は自然に内包される”というコンセプトのもと、第6回目となる「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2015 」(7.26〜9.13)が新潟の大地の力によって開催されている。里山をめぐる現代アート展だが、アーティストや村の人々と交流ができ、アート作品が自然の中に点在している。玉堂の目と心になり、温故知新を実践し、自然の中の良きものを掬いとることができる機会となるかもしれない。
あるがままの人生を肯定し、画家という前に人として完成していたという玉堂。どこにもあるが、どこにもない、写生を基礎にして、玉堂の胸中で自然と人間の調和した情景画が作られた。「最後は玉堂に戻ってくるみたいな懐かしさ、日本人の心の奥底に誰もが秘めている感情のようなものが玉堂の絵の中には表われている」と草薙氏は語った。
草薙奈津子(くさなぎ・なつこ)
川合玉堂(かわい・ぎょくどう)
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【画像製作レポート】
参考文献