アート・アーカイブ探求
松本竣介《Y市の橋》──線と中景の自覚「酒井忠康」
影山幸一
2015年10月15日号
対象美術館
枯渇しない資源
今年(2015)ほど日本の絵画史を振り返る年はないのではないか、と思わせる展覧会が続いている。「戦後70年記念 20世紀日本美術再見 1940年代」展や「伝説の洋画家たち 二科100年展」「琳派400年記念祭」など、絵画に関する回顧展が多くある。絵画は時代とともに変遷し、展開し、生きるための枯渇しない人間の生み出す資源ともいえる。時代の潮流に乗る画家もいれば、抗う画家もいる。いずれにしても、時代と絵画は密接であることに改めて気づく。時代と密接でありながら、時代を超えて生き続ける。絵画とは何なのだろう。
甦ってくるのは、戦中を生きた画家、松本竣介の《Y市の橋》(東京国立近代美術館蔵)であった。山のようにそこにあるという絵画の存在感。青白く沈んだ画面の《Y市の橋》を思い浮かべた。橋が描かれている。小さく人影もある。この静寂に包まれている近代的な都市の風景をどのように見ればいいのか。東京・世田谷美術館 館長で美術評論家の酒井忠康氏(以下、酒井氏)に話を伺いたいと思った。
近代美術史を専門とする酒井氏は、著書のなかで「竣介の描く《Y市の橋》(一九四二年)あるいは《運河風景》(一九四三年)などをみると、画家はむしろ中景に自覚的に身を寄せていることがわかる」(酒井忠康『早世の天才画家』p.332)と書いている。中景に身を寄せるとはどのような絵なのか。《Y市の橋》の見方について、酒井氏を世田谷美術館に訪ねた。
土方定一との出会い
酒井氏は1941年、北海道の石狩湾に臨む町に生まれた。子どもの頃は、哲学者や科学者など学者になりたかったという。慶應義塾大学文学部では、ゲーテ(1749-1832)やシュタイナー(1861-1925)の研究者である高橋巌先生(1928-)の指導を受け、新プラトン学派の祖である哲学者プロティノス(205頃-270頃)について卒論を書いた。1964年に日本で最初の公立近代美術館である神奈川県立近代美術館へ就職することになり、当時、副館長であった美術評論家で美術史家の土方定一(1904-1980)と出会う。美術の世界を一から教わり、以降師弟関係が続くことになった。
竣介が初めて公立美術館で大きく取り上げられた展覧会は、1958年神奈川県立近代美術館で開催された松本竣介・島崎鶏二(けいじ、1907-1944)の二人展だったそうだ。このときまだ酒井氏は美術館にいなかったが、1968年には本館の松本竣介記念室の開設や、1984年別館に松本竣介コーナーとして常設展示を行ない、1991年には本館開設40周年で「松本竣介と30人の画家たち展」を、また1998年には「没後50年 松本竣介デッサン展」を開催など、竣介作品に長年接してきている。
神奈川県立近代美術館は、竣介の代表作《立てる像》や《建物》を所蔵しており、美術図書室には竣介の図書資料が「松本竣介」の検索語で155件検索されるなど、資料も充実(2015.10.13現在)。酒井氏は、1992年に同館の館長に就任、約40年勤務した同館を退職後、2004年より世田谷美術館の館長を務めている。
目と心の使者
1914年竣介が2歳の頃、林檎酒造業を創業するために家族で岩手県花巻へ引っ越した。10歳のときには父が盛岡貯蓄銀行を創設するのに伴い盛岡へ移る。盛岡中学校では彫刻家の舟越保武(1912-2002)と同学年になった。竣介が流行性脳髄膜炎にかかり耳が聞こえなくなってしまうのは13歳のときである。3歳違いの兄・彬(あきら)から聴覚を失った弟に贈られたのが油絵の道具だった。この頃竣介は、中学の弓術倶楽部に入部し、大会で個人、団体ともに二等の成績を収めている。
1929年17歳となった俊介は画家になることを決心し、上京。谷中真島町の太平洋画会研究所(太平洋美術学校)選科に通い、前衛美術・プロレタリア美術に関心を寄せる研究生らで、太平洋近代芸術研究会を結成し、研究会誌『線』を発行(1931年第1号)。「只の線は一切のものを現はすものだ」という竣介の命名である。難波田龍起(1905-1997)、麻生三郎(1913-2000)、靉光(1907-1946)らとの交友が始まった。
1933年宗教法人「生長の家」の機関誌『生命の芸術』の創刊から3年ほど表紙や挿絵などを描き、原稿も多数寄稿した。モディリアーニ(1884-1920)やルオー(1871-1958)に共感し、鶴岡政男らが結成したNOVA美術協会展に出品(1935-37)。1935年には、二科展に《建物》(神奈川県立近代美術館蔵)が初入選し、画家としての活動を本格的にスターとさせた。竣介23歳であった。
日系アメリカ人の子としてアメリカに生まれた洋画家、野田英夫(1908-1939)が二科展に展示した《帰路》(東京国立近代美術館蔵)を見て、またドイツ表現主義の画家ジョージ・グロス(George Grosz、1893-1959)の描く線を知り、線はそれ自体では展開できないことを悟る。線が、竣介の目と心の使者となった。
「生きてゐる画家」
1936年「生長の家」で親交のあった松本禎子(ていこ)と結婚し、戸主として松本家に入籍、佐藤から松本姓となる。文化芸術全般に関わる総合的な仕事場として新居をアトリエ「綜合工房」と名づけ、月刊誌『雑記帳』を刊行し、妻・禎子と二人、編集に追われる日々が始まる。1941年『みづゑ』の1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に対し、竣介は軍部の主張を受け入れながらも「生きてゐる画家」を4月号に寄稿したことで、「抵抗の画家」とみなされたが、画家の自立を訴えた。
「美といふ一つの綜合点の発見に生涯を託してゐるものである私は、(略)今、沈黙する事は賢い、けれど今たゞ沈黙する事が凡てに於て正しい、のではないと信じる。(略)私達若い画家が、実に困難な生活環境の中にゐて、なほ制作を中止しないといふことは、それが一歩一歩人間としての生成を意味してゐるからである。例へ私が何事も完成しなかつたとしても、正しい系譜の筋として生きるならば、やがて誰かがこの意志を成就せしめるであらう」(松本竣介『人間風景』p.236・p.247)
1944年竣介は理研科学映画へ入社したが、罹災地東京は廃墟となり、生活は多忙と窮乏と混乱をきわめた。父のすすめから「俊介」を「竣介」に改める。1946年美術家組合を提唱する「全日本美術家に諮る」という文章を自費で印刷し、画家や知識人に郵送。1947年自由美術家協会に加入。1948年結核性肺炎に持病の喘息を併発し、心臓衰弱のため自宅で死去。10余年の短い画業を36歳の若さで閉じた。島根県松江市真光寺に眠る。
【Y市の橋の見方】
(1)タイトル
Y市の橋。同じ題名の油彩画は現在4点確認されている。第2回「新人画会展」(1943)には「運河風景」の題名で出品。英名:Bridge in Y-City
(2)モチーフ
橋、川、建物、人。
(3)制作年
1943(昭和18)年。連合艦隊指令長官山本五十六戦死、アッツ島日本軍守備隊全滅、学徒出陣などと戦局が容易ならざる事態になってきた。
(4)画材
キャンバス、油絵具。
(5) サイズ
縦61.0×横73.0cm。
(6)構図
画面を水平に三分割。下部は川面とコンクリートの護岸、中央に橋と建物、上部は空。正面から橋と建物をとらえて中景に配置。
(7)色彩
白、青、茶、灰、黒など。画面全体が青味がかった寒色系の色彩。
(8)技法
現地でのスケッチの後、それを発展させたデッサン、エスキス(下絵)を作成。油絵制作の転写用の下絵(カルトン★1)としてハトロン紙(片面に光沢をもった褐色の薄紙)に素描を描き、裏に木炭を塗って下絵の輪郭線をなぞり、キャンバスに写す。それから油絵として仕上げていく。グラッシ法★2で描かれた絵具を、ペンティングナイフかヘラで削り取った透明感のある硬質な絵肌で、線は描かれたのではなく、彫刻を削るようにつくられている。
(9)サイン
画面右下に「M.Shunsuke 18-4」。昭和18年4月制作。
(10)鑑賞のポイント
どこにでもあるけれど、どこでもない夕方の風景。竣介がスケッチした現場は特定できる。キャンバスには実景でなく、モチーフを再構成して竣介の心象を写し出した。青く透明な色相の下に堅固なマチエールが透けている重層的な画面。Y市の橋は、JR横浜駅近くを流れる新田間(あらたま)川に架かる月見橋。公衆便所といわれる画面右端の白い十字架形の建造物、煙突の立つ四角い窓が並ぶ建物、跨線橋と架線柱、川へ下りる階段。それらの形の面白さに引かれた竣介は、形を線で取り込むために、ハトロン紙を用いて西洋の重層的な色彩と、東洋画の緊張した線描とを重ねて画面を構築した。建造物の面の擦れたタッチ、淀んだ川面に反射する橋の影、川は上流へとつながり、3人のシルエットが都市の呼吸を伝える。不穏な空気にも明るい兆しが見え隠れする。針金のような細い線と、板のような太い線の対比。色域は狭いが深く豊かな表情が竣介の世界である。Y市の橋には多くの素描が残されており、無背景にも見えるほどにくすんだ青空の雲の位置まで計算していた様子が伺える。1942年から1946年にかけて同名の油彩画が4点。ニュアンスは異なるがどの画面も味わい深い詩情が漂っている。松本竣介の代表作。
観念と認識の線
「《Y市の橋》は、空気の層が描かれており、竣介は線を、そして中景を自覚して描いた。西洋の画家は、中景を風景の遠近法における実質的な生活空間とし、自己の世界観としても固定していた。しかし日本の近代絵画史の“近代”は、欠落していた中景をいかに充足させるかという宿題のようなものを担わされていたと思う。竣介が“Y市の橋”をテーマにしたのは、自己と風景との対話であり、生き物としての都市が戦争によって破壊され荒廃していく予感のなかで、自分の目と手と心によって、意識の底に結ぶ画像を律動的な線で輪郭づけた。線というのは、つまり観念を輪郭づけるものであると同時に、都市の変貌のなりゆきをとらえる認識の光線であって、竣介が日々探訪して記録したところの行為そのものであった。白い十字架形の建物を始点として、視線は橋を渡って川面へ降りて楕円運動を描く。橋へ向かう竣介が橋の上まで到達した時間を人影のシルエットで表わしている。透明なマチエールは、詩人萩原朔太郎(1886-1942)の『猫町』『月に吠える』などを思い出させ、冷たい空気を感じさせ、風の音を奏でる。細く黒い線は感覚のアンテナ、耳をすます竣介の形の表われであろう」と酒井氏は語った。
問いを続ける近代絵画
「生前、竣介は『たとえば空襲でやられて断片だけが残ったとしても、その断片から美しい全体を想像してもらいたい』と語ったが、作品を後世に遺すため、制作時には常に耐久性を念頭に置き技法を吟味していたという。このような絵画制作に対する真摯な態度は終生変わらず、さらに絵画の在り方だけでなく画家の生き方までも世に問い続けた」(濱淵真弓「新たな造形へ」図録『生誕100年 松本竣介展』p.224)。
酒井氏は「聴覚を失ったという障害が、竣介を画家にし、文章を書かせる契機となった。時代の証言者であり、深い意味で人間のいる絵を描いた画家である。北国の花巻と盛岡に育った竣介は、意識の構造において空間的な断絶があり、季節の移ろいに敏感であり、時間的には持続力に富んでいたと私の経験から想像する。持続力がときに回想になり詩情の世界に変わるが、根本的には生命礼讃の傾向をもつ。過去の心情をいまにつなげ、問いを続ける絵画とは実に不思議なもの」と述べた。
松本竣介は、絵画に自らの生死を賭した不世出の才人であった。西欧生まれの油彩画を自らのものとする努力と同時に、東洋の古典絵画を参照しながら、絵画の永遠性に挑んだ。《Y市の橋》は夫人や心ある画友に支えられ、戦時下の暗い青春のなかでも人間を大切にしようとする近代に生きた竣介の強い思想から生まれた。
酒井忠康(さかい・ただやす)
松本竣介(まつもと・しゅんすけ)
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参考文献