アート・アーカイブ探求
岸田劉生《麗子微笑》──深遠な美のリアリズム「水沢 勉」
影山幸一
2016年02月15日号
対象美術館
不気味な美しさ
おかっぱ頭のこけしのような着物姿の少女像。背景が暗く少し不気味であっても昔懐かしい手編みのざっくりした毛糸の肩掛けが温もりを感じさせる。日本人にとってはなじみ深く一度見たら忘れることのできない肖像画である。画家はよほど女の子を観察したのだろう。顔を横に引き伸ばしたデフォルメと現物を再現したような写実のあわいで神秘的な表現の高みに到達したかのようだ。何度か見たことのある少女像であったが、本物を意識的に正面から見た記憶はなかった。現在、東京国立博物館で展示(2016年1月2日〜 2月21日)されているのを機に、少女像と向き合ってみようと思う。岸田劉生の《麗子微笑》(重要文化財、東京国立博物館蔵)である。
《麗子微笑》の見方について近代美術史の専門家であり、現代美術にも詳しい神奈川県立近代美術館(鎌倉館・鎌倉別館・葉山館)館長の水沢勉氏(以下、水沢氏)に伺ってみたいと思った。水沢氏は『日本美術館』(小学館、1997)で岸田劉生についてわかりやすく平明な解説をされている。当初、鎌倉館のみであった神奈川県立近代美術館(愛称カマキン)は、日本で最初の公立近代美術館として1951年に鶴岡八幡宮の境内に開館し、先月2016年1月31日に八幡宮との当初からの契約により、65年におよぶ美術館活動に幕を下ろしたばかり。美術館としてあるべきひとつの姿を先導してきたカマキンを訪ねた。
初めての美術体験
水沢氏は1952年横浜市に生まれた。1978年慶應義塾大学大学院を修了後、神奈川県立近代美術館の学芸員となり、38年間勤務してきた。葉山館と鎌倉別館は活動を継続するが、思い出深いカマキンの最後を見送った直後にもかかわらずインタビューに応えてくださった。
水沢氏が美術の世界に興味をもった芸術的な目覚めは早く、幼稚園の頃だったという。美術好きの両親と一緒によく美術館や博物館へ行き、初めて行った展覧会は、1961年東京国立博物館で開催された「ルーヴルを中心とするフランス美術展」だったとそのときの様子を明瞭に語った。博物館のメインの階段を上がった踊り場にアリスティード・マイヨール(1861-1944)のトルソが置いてあり、とても印象的だった。そして階段を右に曲がって第一室の初めに、クロード・モネ(1840-1926)の初期の《室内》、アルフレッド・シスレー(1839-1899)、ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)、フランシス・ピカビア(1879-1953)、モーリス・ド・ヴラマンク(1876-1958)、アルベール・マルケ(1875-1947)など、作品が次々と並んでいる展示風景を覚えているというのだ。「作品は実に多様にいろんなものがあり、博物館という空間の中に作品が展示されている様子に、美術とはなんとも面白いと思った」と水沢氏は、幼少時代の感動を述べた。
帰りには、美術展が特集された、図版の大きなグラフ雑誌を購入し、両親と姉の家族4人で食事をしながら議論をした。親が面白いという絵を必ずしも面白いと思わなかったという水沢氏は、なぜこの絵がいいと思うのかと考えた。作品には各自の思いを解説する言葉が付いてくる楽しさがあった。見ているだけではない、ものの見方や感じ方は多彩であり、それも面白いと10歳頃の水沢氏は感じたというのだ。
圧倒された「没後50年記念展」
美術に関する職業に就こうとする意識は高校時代から鮮明にあったという水沢氏は、高校2年生のときに、美学という学問があることを知り、「源氏物語を美学的に分析する」という読書感想文を書いたという。大学では美学美術史を選択。学部生時代は仏教美術について学んだ。しかし、学園紛争の最末期の大学は、学問の場として機能しておらず、先輩から1年生でも参加できる美学旅行があると聞き、奈良と京都へ。カトリックの学校に行っていたせいか、仏教美術に出会ったときは感性の針が一気に反対側に振れたのだろう、ショックを受けたという。奈良・薬師寺の薬師三尊や月光・日光菩薩を見て「日本の古代にこんなすごいものが存在するんだ」と圧倒され、卒論は「唐招提寺金堂諸尊について」を書いた。しかし、大学院ではもともと好きだったウィーンの世紀末へ戻るべきだと考え、ドイツ語を勉強して修論は「エゴン・シーレ自画像の展開」とした。
水沢氏が美術館へ就職した翌年の1979年、「没後50年記念 岸田劉生展」(東京国立近代美術館)で劉生を意識的に見ることができたという。大きな回顧展で、初期から最晩年まで油絵の主要作品を中心に総計242点が集められた。同展には、神奈川県立近代美術館も協力しており、岸田劉生の評価において決定的な展覧会だった。東京で19万3,000人、京都で12万5,000人を動員した。重要な作品が神奈川県立近代美術館にも収蔵されており、水沢氏にとって劉生は以前から気になる存在で、また当時土方定一館長も劉生の本を出版していた。しかし、劉生作品は繰り返し見ていたが、網羅的に劉生作品を見た最初の展覧会であり感動したと水沢氏。この展覧会に合わせて岩波書店から『岸田劉生画集』というカタログレゾネと『岸田劉生全集』という劉生の遺稿を集大成した本が刊行された。
内なる美と変貌する麗子像
岸田劉生は、1891(明治24)年、東京・銀座で目薬「精錡水(せいきすい)」を製造販売する楽善堂(らくぜんどう)本舗の経営者、岸田吟香(ぎんこう)の四男(14子中の9番目)として生まれた。父の吟香は、アメリカ人宣教師で医師であり、明治学院を創設したヘボン博士を助け、日本最初の和英・英和辞典『和英語林集成』の編纂に協力、のちに『東京日日新聞』編集に従事し、ジャーナリスト、事業家として明治時代の先覚者であった。
しかし、劉生が14歳の1905年、その父と母とを相次いで失い、翌年東京高等師範付属中学校を中途退学。父が通っていた数寄屋橋教会でクリスチャンとして洗礼を受け、田村直臣牧師(1858-1935)のもとで日曜学校の先生をするかたわら絵画を学び、17歳で白馬会葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝に師事する。1910年第4回文展に《馬小屋》《若杉》の作品が初入選して洋画壇へデビューした。二十歳になった劉生は初めて武者小路実篤(1885-1976)らが創刊した雑誌『白樺』を買い、オーギュスト・ルノワール(1841-1919)やフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)らの作品に感激する。英国人の陶芸家バーナード・リーチ(1887-1979)との交友が始まり、柳宗悦(1889-1961)や長与善郎(1888-1961)ら白樺同人とも親交をもった。翌年、高村光太郎が経営する神田の琅玕洞(ろうかんどう)で初個展を開催、また第1回フュウザン会展へも参加した。日本画家・鏑木清方(1878-1972)門下で学習院漢学教授小林良四郎の三女の蓁(しげる)と22歳で結婚。写実への関心が強くなる。翌年には長女麗子が誕生する。24歳で重厚な写実を特徴とする草土社を創立し展覧会を開催するが、翌年肺結核と診断され代々木から駒沢へ移った。
1917年26歳のときに神奈川県鵠沼へ。この鵠沼時代が、劉生の人生のなかで最も充実し、変化に富んだ時期でもあった。北方ルネサンスの写実や、連作の麗子像などを通して“内なる美 ”の探究が始まった。1918年から麗子と村の娘お松をモデルに制作を開始する。1919年京都、奈良に行き東洋古美術に魅せられる。健康を取り戻した1921年、30歳の劉生は流逸荘での個展に《麗子微笑》を出品した。この頃から日常生活に変化が起こり、歌舞伎の観劇、長唄の稽古、飲酒など始め、水彩画や日本画も制作した。1920年の元旦から記された劉生の日記は、洋画家の濃密な生活を知る大切な資料となっている。
1923年32歳のときに梅原龍三郎(1888-1986)らと設立した第1回春陽会に出品したが、関東大震災により家が半壊、名古屋で半月を過ごしたのち、京都の南禅寺に移る。東洋への関心が高まり、茶屋遊びを始め、「海鯛(買いたい)先生」と称して宋元画や初期肉筆浮世絵の蒐集に熱中した。そのときに見出した審美的境地を自ら「でろり 」と名付け、写実の袋小路からの脱出を促していた。
1926年35歳のとき京都を離れ鎌倉へ転居、長男鶴之助が誕生した。浮世絵に心酔した画家の鑑賞記録として『初期肉筆浮世絵』(岩波書店)を出版。1929(昭和4)年、満鉄の招待により旧満州(中国東北部)の大連に2カ月ほど滞在し、その帰途に立寄った山口県徳山で、腎臓炎に胃潰瘍を併発、尿毒症の症状を呈して12月20日に享年38歳で急逝する。大正画壇に異彩を放った劉生は東京・多磨霊園に埋葬されている。
【麗子微笑の見方】
(1)タイトル
麗子微笑(れいこびしょう)。「青果持テル」が付く場合もある。英文:Reiko Smiling
(2)モチーフ
劉生の8歳になった長女麗子。
(3)制作年
1921(大正10)年10月15日。10日間ほどで描き上げた。劉生30歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦44.2×横36.4cm。
(6)構図
「やや右向きの横長顔、おかっぱ頭の黒髪に一重まぶたの切れ長目」を原型とする上半身像を微妙に右側へ配置。
(7)色彩
多色。滋味ある色彩。
(8)技法
顔の薄塗り、肩掛けの盛上げなど、描かれる対象物の質感に応じて絵具の塗り方に工夫が見られる。
(9)サイン
左上に朱文字で「麗□ 千九百二十一年十月十五日 劉」。
(10)鑑賞のポイント
教科書や切手でもお馴染みの《麗子微笑》である。「麗子像」は、娘の麗子が5歳から16歳までのあいだ、油彩、水彩を含めて100点以上の作品があるといわれる。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の《モナ・リザ》にヒントを得たという本作は、当時劉生が好み始めた中国の古画の影響により、顔が横に伸ばされて変形し、眉は薄く、瞳に白点、唇に赤線を引き(図1)、そしてその不気味さを際立たせるように、毛糸の肩掛けが実際に触れるほど精緻かつ絵具の盛上げを利用して立体的に描写(図2)され、また果物を持つ手は小さく(図3)神秘性を増している。東洋と西洋の美の均衡を保ち、劉生の言う“内なる美”を表わした。「この画のモテイフの一部分はゴヤに負ふ所あります。子供のしてゐる肩掛は私の好むところのもので、粗末な田舎の百姓家の手製の品ですが、そこの娘が肩げて毎日遊んでゐたのを大へん美くしいと思つてゆづつてもらつて、而後よく、僕の画のために役立ちます。毛糸のほつれた美しさや、色の鄙びた取り合わせの美くしさは僕の心をいつも喜ばせてくれます。手に持つてゐるのは青いみかんです」(『岸田劉生画集』岩波書店、p.51)。1948年東京国立博物館所蔵、1971年重要文化財指定。
永遠の可能性
水沢氏が《麗子微笑》の見方を語る。「劉生が築いてきた写実の世界を、ヨーロッパの美術の模倣でないものへと、大きく切り変わる重要な要因となったのは、娘の麗子をモデルとしたことであった。神奈川県鵠沼で生活していた時代。最初の麗子像は1918年、大人になる前の少女の魅力というものを絵画の対象として選んだ。非常に丁寧に正確に観察する劉生にとって、身近な人間は描きやすかった。プロのモデルではないから動かないようにさせるなどいろいろ苦労していることを日記に書いている。それまで築き上げた油絵の技術をすべて導入し、肉親をモデルにして、ある女性像の典型をつくり出そうと意欲に燃えて描いたものであることは間違いない。《モナ・リザ》にヒントを得て描いたといわれるが、モデルがまるでそこに永遠にいるように感じさせるようなスフマート
汲み尽くせないイメージの源
水沢氏はさらに「毛糸で編んだ肩掛け、この質感を見た者は一回で忘れることができない。絵具の肌合いと、描写されているものの質感がぴったりと合っており、ある種の視覚的な気持ちよさがある。絵具のマチエールと描かれている存在のマチエールが混ざり合って、効果的に表現をつくり出した部分がこの絵をとりわけ印象的にしている。顔の表現や手の表現以上に、毛糸の表現にぼくらの目は激しく反応しているのかもしれない。実際よく見ると、手と顔を比較するとプロポーション上手はやや小さく、手には北方ルネサンス絵画の典型である果物を持ち、腕組みをしていない。顔の表情も麗子さんは目のぱっちりしたいわゆる美少女ではないから、逆に存在感を際立たせる。こちらを見ていないし、どこを見ているのかわからず、口元は微笑んでいる。劇的なメッセージがあるわけでもない。劉生は、麗子像シリーズによって、東洋と西洋の美を両方兼ね備えているところに、むしろ永遠、普遍の存在感を称える入口があることを見つけたのだ。西洋だけでは完結しない新しい美意識がここから探り出せるという大事な糸口を麗子像によって発見した。実際作品を目の前にすると、ものすごくリアルに感じられる。麗子を見た人がほとんど忘れない、でも正確にどの麗子を見たのかわからない。つまり麗子像は連作として存在しているのであって、複数の麗子像を見ている人は、この絵を見ながら別の麗子像を感じている。それが《モナ・リザ》と違う。いわゆる究極の名画と言われている作品は、その一点に向かってすべてが収斂していくようにイメージされる。麗子像は素晴らしい麗子像がたくさんあるが、連鎖して行きお互いにつながり、現実の劉生が娘の麗子と過ごした時間を想起させ、麗子は揺るぎないイメージとして存在する。麗子はどこにも集約されていない。変化のなかにある。それが麗子像の人気の秘密だと思う。驚くべきイメージの変容。劉生にとって麗子像は汲み尽くせないイメージの源だった」と述べた。外見描写を超えて、人間の精神を描く要訣に通じた劉生は、「美術とは形の宗教であり、愛が美を生む」と考えた。劉生にとって娘ほど画題にふさわしいものはなかったのだろう。
水沢 勉(みずさわ・つとむ)
岸田劉生(きしだ・りゅうせい)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献