アート・アーカイブ探求
上田薫《なま玉子B》──ひとつはすべて「萬木康博」
影山幸一
2016年05月15日号
対象美術館
わからないということがわかる
絵を理解すること事態を問う絵がある。なま玉子が割れて中身がトロ〜ンと落ちる一瞬を描いた「なま玉子」の絵。この作品を前にした人は老若男女、誰でも玉子とわかるだろう。しかし写真のようにリアルだからこそ、絵画として何が伝わるのか。描かれた絵のモチーフが“殻を割った瞬間のなま玉子”とわかることとは異質の、創造力を刺激する不思議な絵。描かれているものが玉子と理解できたと同時に、その深層に何かがわかっていない、という漠然とした不安がよぎる。そしてわからないということがわかる。そもそも絵を理解することに意味があるのだろうか。
現実の玉子は、手の中に収まるし、絵のように落下する卵黄を鮮明に見せてはくれない。この絵画が解像度の高い写真やCGであれば、見える快楽を堪能してこれほど胸騒ぎをせずにいたかもしれないが、この単純明快に見える絵画はどうも単純ではなさそうなのだ。日常のありふれた玉子を用いて模倣と創造、一瞬と永遠、現実と空想、生と死など相反する概念を同居させ、現実を超えた非日常的な芸術世界を体感させてくれる。上田薫の《なま玉子B》(1976、東京都現代美術館蔵)である。
1978年にこの絵の作家である上田薫と、複製手段としての印刷メカニズムの虚構を提示する松本旻(あきら、1936-)、写真イメージの真実への疑問を呈する鴫剛(しぎごう、1943-)も出展した企画展、「写真と絵画──その相似と相異」展を担当した学芸員のひとり萬木(ゆるぎ)康博氏(以下、萬木氏)に、《なま玉子B》についての見方を伺いたいと思った。萬木氏はこの展覧会の図録に「写真師の眼と油絵師の眼」(pp.90-91)を執筆しており、現在は美術評論家として活動されている。東京駅から高速バスに乗って萬木氏宅を訪ねた。
シュルレアリスムの洗礼
萬木氏宅は、水戸市街地の西端地域にあった。少年野球のグラウンドに隣接したご自宅では、ケーンケーンと鳥の鳴き声が聞こえ、雉(きじ)であることを萬木氏が教えてくれた。
萬木氏は、1947年東京都生まれ。飛行機の設計を夢見ていたが、1964年秋、東京プリンスホテルで開催された「幻想美術の王様 ダリ展」を見てシュルレアリスムに衝撃を受けた。ダダイズムに続いてフランスで興った芸術運動であるシュルレアリスムの先駆的な詩人であるギヨーム・アポリネール(1880-1918)や瀧口修造(1903-1979)の詩集などを読み、ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)やカルロ・カッラ(1881-1966)の静謐、不安、幻惑を感じさせる形而上絵画に強く引き付けられていた。
1967年和光大学人文学部芸術学科に入学、卒論は現在静岡県立美術館館長を務めている芳賀徹(1931-)氏の国際的な視点から日本近代美術史を俯瞰していた論文に触発されて、幕末・明治の画家高橋由一について書いたそうだ。その後東京藝術大学大学院美術研究科へ進学し、1976年提出の修士論文は、油絵の高橋由一と写真の横山松三郎の交差部分がモチーフ。「幕末から明治初期という状況で形成過程にあった彼らの近代意識を、絵画にどう表現しようとしたのか。東洋画の領域にはなかった油彩絵具という使い慣れない画材を、なぜあえて使って描きたかったのか」という疑問が、研究の出発点だった。萬木氏は「日本の近代は“黒船”によって加速されたが、江戸中期から自立的に準備されてきたものだ」と言う。
萬木氏が初めて《なま玉子B》を目にしたのは、1976年に東京都美術館へ就職し、学芸員となってからである。萬木氏は「形が歪んだダリの絵などで、リアリズムを超える洗礼を自分なりに受けていたので驚きはしなかった。しかし当時の僕は、一個の人間が、どうものに向き合っているのかに関心があったので、上田薫が《なま玉子B》を描くとき、この絵の中のどこかに小さく、画家の肖像を紛れ込ませているのではないかと考えた。ドロリとした部分に何度も目を凝らしてそれを捜したが、いまだに見つけることができていない」と述べた。
スーパーリアリズムを代表する画家
上田薫は、1928(昭和3)年京都御所で昭和天皇の即位大礼が執り行なわれた年に東京に生まれた。幼い頃、海軍の士官として船で世界を巡ってきた大伯父から土産にもらった、アメリカで出版された一冊の絵本が上田の心奥を形成し、画家への起点となった。1ページに一匹ずつ、ふんわりと毛並みの柔らかなかわいい小動物が、日本の絵本には見られない立体感でリアルに描かれていた。上田は両親の希望により学習院高等科へ通い、千葉大学医学部を受験したが、趣味の絵が高じてか一向に受からず、学習院大学教授で後に初代国立西洋美術館館長となった富永惣一(1902-1980)に相談し、東京藝術大学油画科へ進むことにした。
藝大を卒業後、肺結核にかかり療養生活を送ったが、28歳となった1956年にはアメリカで行なわれたハリウッドの映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)のポスター国際コンクールでグランプリを受賞する。1958年現代美術を扱うパイオニア的な存在であった東京・南画廊で初個展を開催。力強い黒色が特徴のピエール・スーラージュ(1919-)や、鋭い線で叙情的抽象を切り開いたハンス・アルトゥング(1904-1989)らの影響がうかがえる抽象絵画を発表した。しかし、ひとつのパターンに閉じ込められてしまう不安と、生活のためにグラフィックデザインの制作会社を創立し、10年間絵画から離れて過ごすことになった。
自らの活動に迷いを感じた40歳を過ぎた頃、再び絵を描き始める。上田は自分を見出せなくなったとき、何も考えず手当り次第にモチーフをひたすらリアルに描く手段に出る。拾ってきた貝殻を机の上に置いて描いた。そのときの貝殻だけが上田にとって確かなことであり、上田作品の始まりだった。そののち写真を媒介として写実的に絵を描くスーパーリアリズム(フォトリアリズムとも)の手法で絵画制作を始める。アイスクリームやジャム、水あめ、スプーン、コップ、玉子、水と、材質感のあるモチーフを描き、リアリティーの所在を問い続け、スーパーリアリズムを代表する画家となった。「僕が広告デザインをやらなかったら、今日のような絵は生れて来なかっただろう」(図録『上田薫作品集(1970-1979)』)と上田は述べている。1985年茨城大学教授となり、1992年には山野美容芸術短期大学教授、1999年より同大学客員教授を務めている。
【なま玉子Bの見方】
(1)タイトル
なま玉子B(なまたまごびー)。玉子シリーズの一作品であり、制作順と思われるアルファベットのBが付いている。英名:Raw Egg B
(2)モチーフ
なま玉子。
(3)制作年
1976(昭和51)年。デジタルカメラやパソコンが普及していない時代。
(4)画材
キャンバス、油彩、アクリル。絵具は、ホルベイン製で白、黒、赤、青、黄など6〜7色。グラフィックデザイナーの経験から、カラー印刷の色分解の原理に則って絵具の色数は抑えている。筆はホルベイン製で角が丸くなっている2号から8号くらいの平筆と、日本画用の幅の広い平刷毛。玉子は、絵具の特性を考え筆によるボカシが容易な油絵具、背景の黒は厚みを出さずプレーンに仕上がるアクリル絵具。
(5) サイズ
縦227.3×横181.8cm(F150号)。玉子を成人の背丈大に拡大し、非現実感を出している。
(6)構図
無背景に割れたなま玉子のみを表わす。
(7)色彩
黒、白、茶、黄、ブルー、オレンジ、ピンク、グレーなど。
(8)技法
一眼レフカメラで、玉子を割る場面を、1/500秒のシャッタースピードで35mmのフィルムに200回ほど撮影をする。そのフィルムのなかから一枚を選択し、キャンバスにスライド投影して鉛筆で下描きの線を描く。そしてタッチを抑えた筆致により、画面をフラットに着彩。
(9)サイン
画面右下に「1976/KAORU UEDA」と明記。ダイモ(名前などを凹凸状に打ち込んで貼るテープ)でつくったネームプレートを元にサインを描いている。文字を無機質かつ立体的に表現。
(10)鑑賞のポイント
なま玉子が割れた瞬間をストップモーションすることで、見慣れた玉子の見慣れない現実が見られる。上田の“もの”を凝視する視点に引きつけられ、玉子の細部を見ていくと、白い殻の輪郭部分が薄い青色だったり、白身には抽象画のような絵柄が見えてくる。鑑賞者は誰もが玉子と理解するだろうが、2メートルの玉子を前にして、いかに認識してよいか戸惑う。「玉子が何なんだ」「なぜ玉子を描いたのか」「どうして玉子はこんなに大きいのか」と。上田は「5センチメートル位の卵を2メートルほどに拡大して描いたこの作品は、単にその形を拡大しただけではなく、瞬間という時間をも拡大して提示したもので、一瞬は同時に無限の広がりをもつ時間へと繋がって行く」(上田薫『上田薫 新作展[流れ]』図録)と言う。質感を感じさせる写真のような絵画。時間の流れは止まって見えるが、その一瞬一瞬の積み重ねの時の移ろいのなかにわれわれは生きている。時間そのもの、光、その自然、エネルギーそのものを上田は肉眼で見ようとしていたのかもしれない。画家でありながら鑑賞者の目を持った上田の没個性的な個性的作品。上田薫の代表作。
玉子のなかに作家を探す
「現代アートの作品には正しい見方というものはない」と萬木氏は言う。「作品へのアプローチは人それぞれに違ってくる。どんな入口でもいいので作品の奥へ入ってみて、自分の楽しみ方を発見してもらいたい。入口を見つける方法は、作品のどこかに小さな“なぜ”を見つけて、自分に問いかけること。《なま玉子B》では、卵黄と卵白のトロリとした部分が凸面鏡のようになって、歪んだ窓枠が映っていたり、卵白には窓の外の青い空が映っていたりする。きっと作家自身もどこかに映っているはず。それを探すのは楽しい。絵は人間が描いたもの。描いた人がどんな人か、絵の中にその絵を描いた人への入り口を探して分け入って行くという楽しみ方は、ルネッサンス末期からバロック時代のヤン・ファン・アイク(1390頃-1441)や、パルミジャニーノ(1503-1540)などの作品で経験済みの方もあるでしょう。カメラが日本に入ってきた幕末から明治時代にも、写真の側、絵の側双方から、写真のような絵を描きたいとか、絵のような写真を撮りたいといった気持ちはあったし、大正、昭和にも、現代だってある。1960年代に登場したアメリカのスーパーリアリズムは、徹底的に無機質でドライな空気が漂っていたが、上田薫の描く玉子や泡、アイスクリームなどには、柔らかなウェットさを感じる」と萬木氏は語った。科学技術の進展は画家の表現にも大きな影響を与えている。
流動の美
今年(2016)88歳を迎える上田について、本格的に作品を発表し始めた1976年、いまにも通じる美術評論を評論家の草森紳一(1938-2008)が個展の図録にこう書いている。「彼の中には見たものを保存しえないという人間の目=手への不信というものがあって、それが写真という機械の目=手を借りることになるのだが、それは写真への信頼であるようでいてそうではないのは、さらに絵画へ差し戻しされているからである。それは、写真を絵画に利用したという問題ではなく、むしろ人間の目への不信と信頼、写真の目への不信と信頼が抱きあったまま衝突したところで生みだされる「あやうさ」を、上田薫がもっとも「信頼」するに至ったからだろう」(草森紳一『上田薫展』)。
この個展の翌年上田は「結局自分は何も表現しないんだ。ただ見えたものだけを提示する。そして見るほうの側にそういったものをおっかぶせちゃう。どう見てくれてもかまわないよと」(日向あき子『みづゑ』No.873、p.100)と言っている。
画家としてモチーフの素材や自然法則による現象を観察し、カメラという冷静な眼をパートナーに、血の通った手によって的確に光と影をとらえていく上田。その卓越した描写力で透明感に優れた作品は、主観を入れず、空中に対象物を浮遊させながらも重力に気づかせ、禁欲的で禅的で、知覚の問題をも喚起する。食感を刺激してコミュニケーションをうながす《なま玉子B》に、生生流転の絶えず移り変わる流動の美を見た。すべてを包むひとつの玉子がいま開かれた。
萬木康博(ゆるぎ・やすひろ)
上田 薫(うえだ・かおる)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献