アート・アーカイブ探求
池大雅《楼閣山水図屏風》憧憬の音が聞こえる──「出光佐千子」
影山幸一
2016年06月15日号
対象美術館
詩と美術
詩人の展覧会が東京国立近代美術館で初めて開催されている。いまの時代と世界を生き延びるための、ひとつのモデルになるという「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」(2016.6.7〜8.7)である。詩は創造活動に広く関わる文学のひとつだが、視覚的に見せる美術館が見ることのできない詩人の声に着眼し、展示会場を詩人の世界で満たした。文学館のように詩作の原稿・書簡・ノート・日記を中心に公開するのではなく、ライブハウスでするようなポエトリーリーディングでもない。詩人の生きてきた痕跡である“もの”や“こと”を霊媒として、見る者の五感を開かせる美術館の試みだ。アートの多様性の原点に詩の存在を見出し、詩と美術のつながりを喚起させる。
詩に支えられた絵画としては古くから中国の文人画 があった。日本には江戸時代に入ってきたといわれており、日本文人画 の大成者のひとりに池大雅(いけのたいが)がいる。代表作は国宝《楼閣山水図屏風》(東京国立博物館蔵)である。メタリックな屏風に水墨で描いたモダンな中国風絵画だ。2008年に東京国立博物館で開催された「対決─巨匠たちの日本美術」展で実見したが、点在する鮮やかな赤と青色が視覚に迫り、人物が風景に対して大きいという印象を抱いた。
銅板のように赤く渋く輝く金屏風の存在感が忘れられず、大雅の金屏風には何かあると考えるようになった。装飾のためだけに用いる屏風であれば、周囲を上品に白く照らす金色のほうがふさわしいはずだ。大雅が、中国の風景を描いた理由、開けたパノラマの構図、点々と配置した濃い着彩、アマチュア精神を重んじる文人画家が屏風に描く意味など、江戸時代に描かれた屏風絵を調べてみようと思った。詩と絵を分け隔てしない魂に出会えるかもしれない。
花弁の色
青山学院大学文学部准教授の出光佐千子氏(以下、出光氏)に《楼閣山水図屏風》の見方をお伺いしようと思った。出光美術館の理事で、非常勤の学芸員も兼任されている出光氏は、論文「池大雅筆『松蔭観潮・夏雲霊峰図』屏風の主題再考察」(『國華』No.1354、2008)や、「池大雅筆『瀟湘八景図』研究──詩画一致の鑑賞方法から」(『風俗絵画の文化学2』2012)など、池大雅について長年研究しており、これからも学生たちと一緒に、難解と思われがちな日本文人画の魅力を考えていきたいと言う。
三人兄弟の女性ひとりの末っ子として東京に生まれた出光氏は、子どもの頃からひとりで絵を描くのが好きで、シクラメンやコスモスなどを見たままにスケッチしていたそうだ。光を受けて色を変える花弁の微妙な紫色を苦心して描き上げ、父親に見せたところ、文人画の好きな父は褒めるどころか、花弁の色をすべて異なる色に塗り直して、こっちのほうが絵として面白いと返してきた。出光氏はやりきれなくなり、これは本当の花じゃないと大喧嘩した幼い日のことをいまでも覚えていると言う。
大学は慶應義塾大学の経済学部へ進み、結婚しても長く続けられる仕事に就きたいと思っていた。ところが目指していた金融業界には男性のほうが必要という時代錯誤的な言葉を耳にし、それならば好きな研究を仕事にしようと大学四年生頃に美術館で働く学芸員の仕事に就きたいと思い始めた。
揺さぶられた五感
出光氏は、出光美術館の理事だった美術史家で琳派の碩学である山根有三(1919-2001)先生に相談することにした。「出来るだけ良い作品に出会いなさい」と言われ、東京国立博物館にたまたま好きだった円山応挙の《波濤図》(京都・金剛寺蔵)が展示されていたので、応挙の波を目指して見に行った。そのとき《波濤図》の反対側に池大雅の《楼閣山水図屏風》が展示されており、その波の表現に「なんじゃこりゃ」と、衝撃を受け引き込まれたと言う。中国の図柄ともわからず、風を受けた大海原の波のうねりに飲み込まれそうで、五感が強く揺さぶられたと言う。リアリティに溢れた《楼閣山水図屏風》の存在感に圧倒され、大雅は天才だと純粋に思った。それまで文人画は漢詩の世界で難しいと感じていた出光氏だったが、大雅を研究しようとそのとき決心した。
大学院の文学研究科へ進学し、2003年から4年間は英国・セインズベリー日本藝術研究所へ留学。海外を拠点とする研究ならではの、日本学という広い領域の学問分野に触れ、文字資料だけからではなく、絵そのものから謎を解く研究方法の面白さを再発見した。「文人画は実際にあるように描いては意味がない。絵のなかに文学的な詩の面白さがあり、詩のなかに色彩を味わうのが文人画の醍醐味」だと述べた。博士論文「池大雅の真景図論攷:中国名勝図における『真景』の分析」を書き終え、2007年より出光美術館の学芸員となった。2013年からは青山学院大学文学部比較文化准教授も務めている。
書家としてスタート
池大雅は、1723(享保8)年京都両替町の銀座役人中村氏の下役を務めていた池野嘉左衛門(いけのかざえもん)の子として生まれた。数え年4歳にして父を亡くし、7歳頃より檀王法林寺 内清光院の僧慧澂(えちょう、1673-1740)、自称一井(いっせい)から書を学び「子井(しせい)」の号をもらう。京都宇治の黄檗山萬福寺(図1)で書を披露した際、その神童ぶりに感心した第十二世山主の唐僧・杲堂元昶(こうどうげんちょう、1663-1731)は「七歳神童書大張」を起句とする七言絶句を、また丈持(じょうじ)の大梅浄璨(たいばいじょうさん)も七言律詩二首を贈って絶賛し、いまに伝わっている。15歳のとき父の通称菱屋嘉左衛門を襲名し、扇屋「待賈堂(たいかどう)」を開き、絵を専門の業とした。扇には文人画のバイブルともなっていた中国の版本『八種画譜』に倣った唐絵を描いて生計を立て、翌年には印刻店「袖亀堂(しゅうきどう)」を開店。書・画・篆刻と才能は開花していく。
二十歳となった大雅は、住居を聖護院村へ移し、名を勤(つとむ)、字を公敏(こうびん)、号を九霞(きゅうか)、大雅堂(たいがどう)、竹居(ちくきょ)などと改めた。江戸、日光、松島、金沢、紀州と東遊をはじめ、山岳信仰の対象であった富士山、立山、白山へ、一度ならず二度、三度と挑んでいる。修験者的な性格を帯びた文人画家としての心の旅だったのかもしれない。大雅は直接師事した絵の師は持たなかったが、狩野派のなかでは探幽(1602-1674)を別格として尊敬し、多くの師友を得て、祇園南海(ぎおんなんかい、1677-1751)や柳沢淇園(やなぎさわきえん、1704-1758)から文人画の真髄を学び、蘭学の先駆者野呂元丈(のろげんじょう、1694-1761)から西洋画を見せられ感嘆した。20歳台後半には京都祇園で松屋と呼ばれた茶屋を営む歌人百合(ゆり)の娘、徳山町(とくやままち)と結婚。町は大雅や淇園に絵を学び、後に玉瀾(ぎょくらん)と号し、閨秀画家の先駆けとなった。
青い空
鎖国時代にあっても大雅は、外国文化を敏感に感受していった。形式化した狩野派のような画風ではなく、中国の文人を理想として大雅の胸中にある世界を表現する職業画家となった。要求に応じて誰にでも絵を描き、特定のパトロンを持たなかった。
20歳台では指を使って描く指頭画(しとうが)を、30歳台では実在する景色を描く真景図(しんけいず)を主に描きながら常に新しい表現技法を模索し、文人画に留まらずに室町水墨画、狩野派、琳派、大津絵、中国の院体画 、西洋画など、和漢洋の画法を広く参考にし、大雅独自のおおらかな表現様式を築き上げていった。平板に傾きやすかった日本絵画を、構築的な描写や壮大な空間構成によって新生面を開き、日本人で初めて空を青色に描いたといわれる《浅間山真景図》が残されている。
大雅芸術が開花した40歳台は、銀閣寺(慈照寺)や萬福寺、高野山遍照光院の障壁画制作、与謝蕪村(1716-1783)との合作《十便十宜図》(国宝)などが続き、《楼閣山水図屏風》もこの時期に制作されたとみられている。自己の意志に基づいて創造する町人絵師であり、日本人の心情に身近な情感を宿す近代的な芸術家の先駆とも言うべき画家であった。弟子に桑山玉洲(1746-1799)がいる。1776(安永5)年、京都・浄光寺の墓に眠る(図2)。享年54歳。
【楼閣山水図屏風の見方】
(1)タイトル
楼閣山水図屏風(ろうかくさんすいずびょうぶ)。「岳陽楼(がくようろう)・醉翁亭(すいようてい)図屏風」とも呼ばれている。英名:Landscapes with Pavilions
(2)モチーフ
風景、人物。右隻に中国湖南省岳陽県の岳陽楼、左隻に安徽(あんき)省滁(じょ)県の酔翁亭。
(3)制作年
江戸時代、1764〜1771年(明和年間)頃。大雅40歳台後半の作品《洞庭赤壁図巻》とほぼ同じ頃とみられる。
(4)画材
紙本金地墨画着色。一扇に5枚の和紙を継ぎ、その上におよそ10cm四方の箔が貼られている。金箔、墨、胡粉、岩絵具。文人画の金地屏風は珍しく、日本独自である。
(5) サイズ
六曲一双。各縦168.0×横372.0cm。
(6)構図
奥行き表現を意識したダイナミックな空間構成。広々とした湖を見下ろす遠望のきく右隻と、樹木が茂る山中にある重層の楼閣をクローズアップした左隻とを対照させ、変化の妙を見せている。
(7)色彩
金、黒、朱、群青、藍、緑青、黄緑、茶、白、灰色。墨の輪郭線にとらわれず自由自在に描線の上から色が使われている。「いままで報告されたことのないと思われるこの灰色は、実は経年変化で酸化した銀泥と判断される」(杉本欣久「池大雅の作画と文人性」p.19)という説があるように、金泥線と銀泥線を自由に混じえた大雅作品の存在はほかにも知られている。
(8)技法
水墨の点・線・濃淡を駆使した筆の動きにリズムを感じる新しい表現。ゆるやかな肥痩線、色を重ねた点苔(てんたい)、油絵的な濃彩、風や波を表わす金泥引き、山や岩の輪郭線に入れる金泥のくくり線、岩肌に注ぐたらしこみ、緑青や群青を用いて彩色した青緑(せいりょく)山水など。灰色が銀泥ならば、中国古来から理想世界を描く際に使われる金碧(きんぺき)青緑山水に、日本人の情感に寄り添う銀色を加えた独自の青緑山水といえる。
(9)落款
右隻右下と左隻左下に、それぞれ「九霞山人(きゅうかさんしょう)」白文方印と「池無名(ありな)印」朱文方印を捺し、右隻のみ画面右中ほどに「前身相馬方九皐(こう)」朱文長方印がある。年記・署名なし。
(10)鑑賞のポイント
中国に憧れていた大雅は、文人の80歳の祝いとして中国の名勝地が描かれた『張環翁祝寿画冊(ちょうかんおうしゅくじゅがさつ)』(縦30.5×横33.8cm)のなかの二図、清時代初期の文人画家邵振先(しょうしんせん)筆の《岳陽楼大観図》(図3)と《酔翁亭図》をもとにして、金地屏風の大画面に拡大、再構成した。右隻には激しく波立つ湖南省岳陽県西門の洞庭湖(どうていこ)を見おろす岳陽楼。杜甫(とほ、712-770)をはじめ古来の詩人が立ち寄り、はるかな眺望に胸を打たれた場所として知られる。その手前には岳陽楼へ向かうのであろう、青い衣をまとった人物が童子を供に、琴や茶道具を運ぶ人たちと歩いている。画面に近づいてみれば、楼中の主人や文人たちが湖の景色を楽しんでいる様子が鮮やかに目に飛び込んでくる。舟中の人々は青、黄、緑色の服をまとった七福神のようにも見え、なかには赤ん坊を抱いた風の人物も見える(図4)。対岸の山は青々と群青で塗られ、手前の岸辺には松が枝を伸ばし、下草が生い茂る。風が強いのか湖面は波立ち、柳の枝はなびき、躍動感が伝わってくる。一方、左隻は、安徽省滁県にある木々に囲まれた酔翁亭の情景。大きな赤い机を囲む四人の顔が見え、机の上には盃が置かれ、団扇を持った侍者や給仕をする者が柱の影に見え隠れする(図5)。複雑な勾配の多い山の地形を生かして、渡り廊下が酔翁亭から山頂の茅屋(ぼうおく)へと続く。下方には酔翁亭を目指して静かに山道を歩く人々が見える。右隻・左隻ともに楼閣と人物を拡大させ、自然のなかでの文人の風雅な営みを強調している。一橋徳川家に伝来した屏風絵。1952(昭和27)年国宝に指定される。
婚礼道具に勧戒図
室町時代に京都五山(南禅寺・天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)の学僧たちが漢文の教科書のように愛読していた『古文真宝』という詩文集があり、為政者(政治を行なう人)は民とともに楽しむことを説いている、と出光氏は述べた。詩文集には、岳陽楼記として為政者の好んだ名句「先憂後楽」の「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」とあり、酔翁亭記として「人は太守の遊びに従って楽しみ、太守はその民の楽しみを楽しんでいる」とある。大雅の《楼閣山水図屏風》は、主人が客人をもてなしている風景であるが、客人が楽しんでいるのを見て主人が楽しんでいる。客人はそれとは知らずに、主人は名勝の絶景を見て心のなかでひとり楽しんでいるのだろうと思っている。
《楼閣山水図屏風》を原図(邵振先筆の《岳陽楼大観図》と《酔翁亭図》)と比較すると、原図では酔翁亭のまわりを取り囲む自然の世界、美しい神仙世界を描いているが、《楼閣山水図屏風》は酔翁亭の中で酒を飲んで楽しむ主人や、亭に向かう人たちが山中に腰を下ろして煎茶や琴を楽しむ景を描いており、山水画が風俗画になっている、と出光氏。
「大雅にとっては山水よりも、外にいる人々と楼閣の中にいる主人の両方を同じレベルで描くことが重要だった。つまり《楼閣山水図屏風》は“為政者の楽”、楽しみのあり方という儒教的な主題が絵の裏にあり、“後楽園・偕楽園図屏風”とも言える。為政者が、自らの戒めのために見る勧戒(かんかい)図の機能もある。また昭和初期まで一橋徳川家に伝えられてきたこの屏風については、1767(明和4)年、二代目の徳川治済(はるさだ)が京の宮家から妻を迎えた際、婚礼道具のひとつとしてもたらされたのではないか(松原茂根津美術館学芸部長)、との説がある。将軍家当主にふさわしい画題であろう。それを引喩的に面白く描けるところが大雅の才能である。大雅を見るポイントは大雅自身が作画を楽しんで描いているので、一筆一筆、一点一点、リズミカルに描いているその筆使いを感じながら鑑賞することだ。この絵は“為政者の楽”という主題を逸脱して、湖底まで見えるような深い群青を用いた波のうねりの表現や、人物の諧謔的な表情など、あえて極端にデフォルメした描き方をすることで、見る人の感嘆の声を誘い出すように描かれている。ほぼ青い衣服の人物しか登場しない原図と比較すれば、大雅がいかに画中に色彩を散りばめているかがわかるだろう。サービス精神が旺盛な大雅は、この屏風を見ている人の心まで楽しませるような描き方をしている。われわれも絵の中に入り込んで岳陽楼へ行った詩人たちの気持ちになって見てみよう」と出光氏は語った。
風俗文人画
《楼閣山水図屏風》の原図となっている『張環翁祝寿画冊』は、中国清時代の文人・張還真(ちょうかんしん)の80歳を祝った寄せ書き帖である。大雅は、この画冊にある二十図すべてを模写しているが、中でも邵振先が描いた《岳陽楼大観図》と《酔翁亭図》に強く関心を抱いた。画冊の二図は風光明媚を誇る絵に留まらず、詩と深く結びついていた。宋時代の政治家で文人の范仲淹(はんちゅうえん、989-1052)が記した『岳陽楼記』や、范致明(はんちめい。生没年不詳)の『岳陽風土記』、また文学者・政治家の欧陽脩(おうようしゅう、1007-1072)が書いた『酔翁亭記』に記述されている情景が、《楼閣山水図屏風》へとつながっている。
『岳陽風土記』には、「張説(ちょうせつ)は唐の中書令(ちゅうしょれい) であったが、この地の長官となって赴任してきた。そして友人とともにこの楼にのぼり、しばしば詩をつくりあって楽しんだ」(河野元昭『名宝日本の美術 第26巻 大雅・応挙』p.106)とあり、『酔翁亭記』には、「宋の欧陽脩が滁(じょ)州の太守であったとき、僧智僊(ちせん)が彼のために建てたのが酔翁亭であった。酔翁と号した陽脩はこの亭で宴を開き、客とともに酒を飲んで、陶酔境にひたる」(同、p.106)と記されている。
美しい自然のダイナミズムのなかに、詩と絵を巡る波、風、水の音が聞こえる。天空には、会話する人々の声、その温もり、そのエネルギー……。大雅は、中国の教養人の楽しい日常に対する尊敬と憧れを、人物を大きく目立つように屏風に表現した。気韻や風雅を尊ぶ中国の文人画にはない、風俗文人画とも言える独特の新しい絵画を日本に生み出したのである。
出光佐千子(いでみつ・さちこ)
池大雅(いけの・たいが)
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【画像製作レポート】
参考文献