アート・アーカイブ探求

山下菊二《あけぼの村物語》──突きつけられる大きな闇「足立元」

影山幸一

2017年02月15日号

※《あけぼの村物語》の画像は2017年2月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。

日本の暗部を探る

 「あの絵は何だったんだろう」。存在感を増して突如甦ってきた絵がある。時代を切り開くコンテンポラリーな作品を意識的に見てきたが、それとは別次元の作品が無意識に心奥に沈殿していた。展覧会の会場で一目し、不意を突かれたままにしてきた不気味な絵。山下菊二の《あけぼの村物語》(東京国立近代美術館蔵)である。
 里山の風景に、首を吊り鼻水を垂らす老婆が描かれたイラスト画風の絵画。ドロドロとした有機的な臭いが漂う内臓的なイメージで、見てはいけないものを見てしまった感じがする気色の悪い作品なのだ。しかし、無視できない何かが潜んでいる。日本の暗部を探り、人間が生きる根底に横たわる不可思議さを冷静に見つめる視点があった。《あけぼの村物語》を見直す必要を感じた。
 1953年、初めてこの作品が発表された当時は、高い評価を得ていたわけではなかったという。1993年に雑誌『芸術新潮』が「特集・アンケート・戦後美術ベストテン」と題して美術評論家・学芸員など30人に実施したアンケートでは、北澤憲昭・菅原猛・高島直之・針生一郎・ヨシダ・ヨシエが《あけぼの村物語》を挙げて第7位に選ばれている。
 不確実ないまの時代に、人間とは、社会とは、と重く問いかけてくるようだ。論文「芸術家と社会──戦前から戦後にかけての左翼思想と美術」(『日本美術全集 第18巻 戦争と美術』小学館)で山下菊二とその周辺状況について執筆され、また『前衛の遺伝子』(ブリュッケ)では、表紙に《あけぼの村物語》の画像を用いて、山下を含む日本の前衛芸術と社会思想とのかかわりを書かれた、美術史と視覚社会史という新たな分野を切り開く、若手研究者の足立元氏(以下、足立氏)に《あけぼの村物語》の見方を伺いたいと思った。1年間のロンドン研修を終え、執筆で難渋しているところ足立氏に東京・広尾で会うことができた。


足立元氏

シュルレアリスムなアジアのリアリズム

 1977年東京生まれの足立氏は、高校生のときサブカルチャーが好きだった。良く買っていた雑誌『BRUTUS』には現代アートが特集され、知らず知らず影響を受けていたという。美術と文学にも興味があり、フランスのノーベル賞作家で評論家のロマン・ロラン(1866-1944)の翻訳を読みながら文筆家を夢見る文学青年でもあったが、東京藝術大学美術学部芸術学科へ入学した。藝大を卒業後、都内の企業美術館準備室のアシスタント・キュレーターとなり、憧れていた現代美術の学芸員になったが1年弱で退職を決意した。大学院生に戻り、2008年藝大の大学院美術研究科博士課程を修了。博士論文は「近代日本の前衛芸術と社会思想:表現・言説・イデオロギー」で足立氏の研究者としての歩みが始まった。
 2010年から2012年まで日本学術振興会の特別研究員(PD)として、漫画家の小野佐世男(1905-1954)や、日本初のアニメーターのひとりである幸内(こううち)純一(1886-1970)を研究。そして、2015年には文化庁新進芸術家海外研修制度で、ロンドン芸術大学チェルシー校TrAIN研究所の訪問研究員となる。2016年に帰国後、大学の非常勤講師を務めながら美術史・視覚社会史に関する研究・執筆を行なっている。
 《あけぼの村物語》で近年足立氏が印象深かったのは、2010年に韓国・ソウルの韓国国立現代美術館徳寿宮館で開催された「アジアのリアリズム美術」展だという。中国、インド、インドネシア、日本、韓国、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナムが参加して近代名画104点が展示された。「《あけぼの村物語》は戦後のコーナーに配置され、リアリズムの概念が変わっていく展示室の中で、一番奥のいい場所に一点だけ飾ってあった。《あけぼの村物語》がアジアの作品というのは間違いないが、アジアを裏切るようなシュルレアリスムの表現を宿している。生や倫理に対する背徳的な悪意をぶちまけたような。この作品が『アジアのリアリズム美術』展に展示されたことは、日本美術の中でも最もおぞましく力強い絵がアジアの中でも際立つことを示した点で重要だと思う」と足立氏は述べた。

文化工作隊

 山下菊二は、1919(大正8)年徳島県に生まれた。父芳太郎、母サワヱの五男で姉1人、兄4人がおり、三男の董美(しげよし)は版画家で菊二のよき理解者でもあった。生家は菓子製造販売のほか電気製品などさまざまな物品を商ったが、菊二14歳の年に父親が商売の権利を手放す。1932年香川県立工芸学校金属工芸科(現高松工芸高等学校)に入学し、鋳金や油彩画を学び、17歳で最初の作品《高松所見》(徳島県立近代美術館蔵)を制作。卒業後、福岡の松屋百貨店宣伝部に就職するが、東京美術学校出身の上司に上京して絵を学ぶことを薦められる。
 1938年東京美術学校師範科に入学することを条件に上京がかない、日本のシュルレアリスムの草分けである福沢一郎(1898-1992)の絵画研究所で学んだ。ダリやエルンスト、ボッシュに感銘を受ける。美校に行くより、文学や哲学を身につけた方が面白い絵が描けるという周囲の研究生に感化され、美校への進学を翻す。
 1939年から2年間応召により台湾、中国で兵役。1940年に開催された第1回美術文化協会展には、従軍中の山下の作品《簡単ニ寒サ解放ス》を兄董美が搬入し入選する。1944年福沢の紹介で東宝映画に勤める。1945年に再度招集され徳島の部隊に入隊するが、終戦を迎えた。翌年美術文化協会を離れ、前衛美術会結成に参加。1947年日本共産党に入党。前衛美術展や日本アンデパンダン展などで発表を続けた。1952年小河内(おごうち)ダム建設反対運動の山村工作隊を支援する文化工作隊として小河内村に滞在する。1953年には山梨県曙村で起こった事件を取材したルポルタージュ絵画★1《あけぼの村物語》を制作し、第1回ニッポン展(東京都美術館)に出品した。1955年に日本共産党の方針の変化に疑問を抱き離党。無類の鳥好きだった山下は、ハシブトガラスを飼い、その後も多種の鳥を家の中で放し飼いにする。1958年小池昌子と結婚。1963年には映画『彼女と彼』(監督:羽仁進)に出演、好評を博す。1964年美術評論家・針生一郎(1925-2010)らの発案で開いていた「日本画研究会」で中村正義と知り合う。1970年から74年まで東京造形大学非常勤講師。1974年、中村らと、横に並ぶ人々が核であることを意味する从(ひとひと)会を結成。しかし翌年、脊髄性進行性筋萎縮症と診断される。1976年映画『くずれる沼─画家山下菊二』(監督:野田真吉)が完成し、1979年には『くずれる沼 画家・山下菊二の世界』(すばる書房)が刊行された。1984年病状悪化のため从会を退会する。
 1985年英・オックスフォード近代美術館の「再構成:日本の前衛美術1945-1965展」に《あけぼの村物語》など4点が展示された。1986年パリ・ポンピドゥー・センターで《あけぼの村物語》と《新ニッポン物語》が展示される「前衛芸術の日本展1910-70」の開会式に出席を予定していたが、病状が進行し11月自宅で急逝、67歳だった。日本画家・秋野不矩(1908-2001)ゆかりの京都・徳正寺に俗名のまま納骨された。


★1──画家たちが闘争の現場を取材し、その体験をもとに絵画を制作すること。画家と大衆の距離を縮める新しいリアリズムを獲得しようとし、当初は「記録絵画」などとも呼ばれていた。代表的な画家に、山下菊二、池田龍雄、桂川寛、中村宏、島田澄也、尾藤豊らがいる。

【あけぼの村物語の見方】

(1)タイトル

あけぼの村物語(あけぼのむらものがたり)。英題:The Tale of Akebono Village

(2)モチーフ

首を吊る老婆、頭を垂れた女、血に染まった水に浮かぶ男の死体、リヤカーで死体を運んできたと思われる男、擬人化された魚・にわとり・赤犬といった生き物たち、それらの目は16個。そのほか囲炉裏、預金通帳、鎌、水車、民家、肥桶(こえおけ)、手拭い、麦畑、イーゼル、スコップ、リヤカー、荒縄、道路、川、山、空。

(3)制作年

1953(昭和28)年。第一回ニッポン展出品作。片仮名のニッポンを課題としたテーマ展で、《あけぼの村物語(山梨縣)》として出品。山下34歳。

(4)画材

ドンゴロス★2・油彩。「ドンゴロス袋で少々大きめの手製カンバスをつくり、固煉りペンキと絵具で、事件をモンタージュ風に描いた」と山下は説明している(平井亮一『構造』第7号pp.65-66)。

(5)サイズ

縦137.0×横214.0cm。

(6)構図

画面右手の農家の梁、中央の緑の麦畑、左手のリヤカーが画面に奥行きを与える遠近法を用いている。曙村事件★3で起きた前後の出来事が画面の右から左へと描かれていることがわかる[A3←A2←(曙村事件)←A1←B1](表1参照)。場面はおおむね四つに分けられ、画面右から、銀行倒産で自殺した老婆と孫娘(B1)、農道建設で麦畑を取られ抗議する娘と村民(A1)、地主(区長)へ襲撃した事件の主導者を運んだ男(A2)、赤い川に浮かぶ事件の主導者(A3)(尾﨑眞人『山下菊二展』図録p.147を参考にしました)。


表1:《あけぼの村物語》の画面構成
(尾﨑眞人『山下菊二展』図録「《あけぼの村物語》から、そして《あけぼの村物語》へ、1950年代。──来たるべき山下菊二展のために」p.147の表2を参考に筆者が作成)

(7)色彩

茶褐色を基調に赤と緑の補色を対比させ、白をポイントに効かせるなど、多色の画面全体は色調のバランスがよい。

(8)技法

事件を取材した記録をもとに、各事象を非現実的で不合理なシュルレアリスムの方法を援用しながら寓話的にモンタージュ風に描いた。

(9)サイン

画面左下に「Kikuzi」の署名。

(10)鑑賞のポイント

「物語」として描かれているのは、1952年7月山梨県南巨摩郡曙村(現在の身延町)で起きた「曙村事件」そのものではなく、事件前後の出来事である。地元の銀行が倒産したために、首を吊って自殺した老婆と、その遺体にすがる孫娘。農道を地主が勝手につくることに抗議する農民たちと、農民に協力した日本共産党の山村工作隊メンバーの怪死。その遺体を運んだスコップを持った男。だが、この絵には物語のわかりやすい説明はない。初め山下は、曙村事件をテーマに具体的な物語の紙芝居を作ろうとしていたが、それをやめて悲惨な現実をグロテスクと諧謔をあわせ持つ、寓話的作品に描き出し絵画とした。多様なイメージが混沌と絡み合い、加害者と被害者といった単純な対立構図を超えた重層的な深い世界が広がる。絵画のなかで繰り広げられる敗戦後の日本の交錯したイデオロギーが、はたして人間とは何か、を見る者一人ひとりに問いかける。ルポルタージュ絵画の作品として、また、日本独自のシュルレアリスム(超現実主義)の金字塔として、海外展にもしばしば出品されている山下菊二の代表作。


★2──麻袋、または麻などで織った丈夫な粗い布。
★3──「『曙村事件』の発端は、中之沢農道作りに端を発していた。中之沢農道作りの折り、村の中心を通る案と、区長宅側を通る案が浮かんだ。区長は自分の都合で農道をつくり、その結果貧しい娘の作る麦畑は、青麦を引き抜かれ農道とされた。当時山梨県下でも、狭南地方は最も共産党の活動が活発だった地区で、前月の六月には増穂町警察襲撃事件がおこるなど、『五一年綱領』による極左冒険主義の活動が展開されていた。党専従としてオルグに入っていた石丸要たちと村人は抗議行動を起こした。一回目の抗議は糾弾、二回目には竹槍持参の糾弾、そして三度目は闇夜の襲撃となった。ガラス戸を破り押し入り、みえ子夫人ら家族を縛り上げ、五人に怪我をさせた。その折りモミ俵一俵が裏の畑に持ち出された事件を『曙村事件』とし、住宅侵入罪・強盗傷害罪で7人が起訴された。後にこの『曙村事件』は、1964年の1月に最高裁で有罪判決を受けることになる」(尾﨑眞人『山下菊二展』図録p.146)。

ローカルにすべてが集約される

 《あけぼの村物語》について足立氏は「突きつけられます。刃(やいば)ではなくて、大きな闇のようなものを。ただ怖いのではなく、一個一個を見るとかわいらしかったり、可笑しかったりする。たくさんの目玉が描かれていて、どの目もこちらを見ていない。みんなそれぞれ違うところを見ている。それを見るわれわれも絵の中でさ迷う。昔から言われているのは、この絵は地主の視点からとらえた曙村で起きた殺人事件。でもその殺人事件の前後の状況だけを描いており、その状況を俯瞰できるのは地主の立場だけだろうと。その地主の立場で、この絵を見る私たち自身が、この不吉なまがまがしさを追体験することになる。《あけぼの村物語》はもともと紙芝居でつくるはずだった。紙芝居のような子供文化を大人の表現として使う方法は、前衛美術で繰り返されてきたパターンです。前衛美術協会で山下と一緒だった高山良策(1917-1982)は、ウルトラマンの怪獣をつくる造形作家。戦時中から東宝に一緒に勤めていて、特撮にもかかわっていた。一方が紙芝居になり、一方は怪獣になった。戦後直後の紙芝居というのは、共産党が大人を教化するための道具として子供の娯楽だった紙芝居を使っていたという史実がある。そうした共産主義的な紙芝居を、山下菊二も実行しようとしたが止めた。紙芝居よりも絵の方がいいと思ったのか、理由はわかりません。ただこの《あけぼの村物語》が出品されたのが、1953年の第一回ニッポン展。片仮名のニッポンと表記し、課題にしたテーマ展でした。山下は《あけぼの村物語(山梨縣)》として出品。片仮名のニッポンというグローバルな意識、その政治的な状況に対してローカルなものを志向していたことがわかる。地域特有のローカルなもののなかに、すべてが集約されている意識があったのかもしれない」と語った。

進展する針生の批評

 《あけぼの村物語》について評論家・針生一郎の作品評は変遷した。針生が美術評論を始めた頃に開催された第1回ニッポン展で《あけぼの村物語》と出会い、作品とともに進展してきたようにみえる。
 1953年第1回ニッポン展では「「あけぼの村物語」は安易な手法の上にモティーフの整理が足りなくてメロドラマになっています」と酷評した(三上満良『現代の眼』No.613、p.2)。その約7年後に針生は「《あけぼの村物語》で、日本の農村にある前近代的なるものと超近代的なもの、ボス支配と民間信仰の要素を、地獄極楽絵風のグロテスクさと俗悪さで描きだした」(尾﨑眞人『山下菊二展』図録p.148)と作品内容に踏み込んでいる。また、「日本の農村に渦まく因習的な抑圧と野性のエネルギーを、悪夢のようになまなましく描きだした。その奇怪な人形芝居のような画面は、多くの人々の記憶に灼きついている」(同上p.148)と評価し、「事物とその背景という典型論はのりこえられ、ギニヨールのような人物と物体がかさなりあう画面に、因襲と抑圧、狂気と悪夢の渦まく山村の現実が、超自然的なおとぎ話のように描きだされている。一群の作家の探究はこのように、シュルレアリスムの心理主義的次元を克服した『状況の絵画』にむけられており、また現代の諸芸術に共通するドキュメンタリーの問題にふれていた」(同上p.148)という作品評に至った。
 そして針生は、1986年ポンピドゥー・センターに《あけぼの村物語》が展示された際に、ポンピドゥーの学芸スタッフから聞いた「シュルレアリスムと日本のフォークロアを総合した、外国に手本も類例もないユニークな作品」(針生一郎『山下菊二画集』p.98)という言葉を借りて《あけぼの村物語》を語るようになる。
 東京国立近代美術館が、平成25年度の特別購入予算で購入したという《あけぼの村物語》。針生は2010年に亡くなってしまったが、グローバルからローカルへ《あけぼの村物語》の批評はこれから盛んになるような気がしている。

ルポルタージュ絵画とソーシャリー・エンゲージド・アート

 フランス共産党にパブロ・ピカソ(1881-1973)が入党したという時代背景もあり、共産主義に目覚めた山下は、《拘留理由開示公判》(図1)を描いた島田澄也(1927-)を筆頭にして、尾藤豊(1926-1998)、桂川寛(1924-2011)、勅使河原宏(1927-2001)と、冒険主義的な日本共産党の活動方針に従って、1952年6月東京・奥多摩のダム建設中止をもくろむ山村工作隊に参加した。
 山奥の洞穴で2カ月間暮らしながら、ダム建設の作業員を煽動するためのガリ版刷りのパンフレット『週刊小河内』を共同で作成し、ダム工事を中止すれば米軍基地へ輸送する電力がつくれなくなり、米軍が日本からいなくなるという共産党の指導のもとで学生たちと参加。しかし、非力な反米テロ活動は間もなく警察によって鎮圧される。この頃ルポルタージュ絵画が生まれた。
 足立氏は、「ルポルタージュ絵画とは、美術家が現場に出かけ、民衆の苦痛や闘いを報告(ルポルタージュ)するものです。それは思想的には共産主義でありながら、様式的にはシュルレアリスムで、日本土着の民衆的な泥くささを兼ね備えたものだった。日本共産党および日本美術会の中枢は、ソ連の社会主義リアリズムから逸脱するルポルタージュ絵画の表現に対しては否定的であり、戦後美術の主流となるモダニズムのアヴァンギャルド(前衛芸術)の側もまた、ルポルタージュ絵画には否定的だった。しかし、ルポルタージュ絵画の本質的な問題は、目に見える表現様式ではなく、むしろ目に見えない“表現意識”の方にある。ルポルタージュ絵画を広い意味でとらえたとき、戦前のプロレタリア美術運動の教条的な部分を否定しつつ、それが目指していた『民衆の芸術』を受け継いでいる」と述べた。そして「最近、山下菊二の存在が注目されるようになったのは、“ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)”★4という新しい言い方があるが、社会派的なものに対する注目が高まっていることにある。単純に古いものの復活ではなく、古い社会運動を新しい視点で評価し直すことでもある。大きな社会の揺り戻しのようなものを私も感じている。当時のルポルタージュ絵画は、イデオロギーを持って戦う絵画だ。現場に行って感じて考えたことを絵の中で再構成する方法論の純粋な部分だけ取って見れば、ルポルタージュ絵画は現代にも有効な美術のアプローチです」と足立氏は語った。
 山下菊二は、無自覚なままに戦争へ巻き込まれ、戦場に駆り出され、掠奪、暴行、殺戮を強いられた。敗戦後は自らを加害者として強く意識し、強迫的な戦場へ追い込んだ日本の国家体制、前近代的な社会の精神へ疑問を持ち、権力や差別、天皇制や庶民意識の問題などで無実の人間が抑圧されていく日本社会の不条理な現実を、社会運動にかかわりながら、ルポルタージュ絵画などの手法を用いて可笑しみを含む告発的な作品を制作していった。


★4──あるべき社会への変化のためのアート。アート界の閉じた領域から脱して、参加・対話のプロセスを通じて、現実の世界に積極的にかかわり、人々の日常から既存の社会制度に至るまで、なんらかの変革をもたらすことを目的としたアーティストの活動を総称するもの。

図1:島田澄也《拘留理由開示公判》キャンバス・油彩、1954、個人蔵
(著作権者の許可を得て足立元氏提供)

足立元(あだち・げん)

美術史・視覚社会史研究者。1977年東京生まれ。2000年東京藝術大学美術学部芸術学科卒業、2008年同同大学院美術研究科芸術学専攻博士課程修了。博士(美術)。2010年日本学術振興会特別研究員PD、2015年文化庁新進芸術家海外研修制度によりロンドン芸術大学チェルシー校TrAIN研究所訪問研究員。主な単著:『前衛の遺伝子─アナキズムから戦後美術へ』(ブリュッケ、2012)主な論文:「1950年代の前衛芸術における伝統論争:イサム・ノグチの影響を中心に」(『東京藝術大学美術学部論叢』創刊号、東京藝術大学美術学部、2005)、「プロレタリア美術とエロ・グロ・ナンセンス」(『近代画説』第15号、明治美術学会、2006)、「第4章第2節プロレタリア美術の消長──革命戦争のための美術」(『美術の日本近現代史 制度・言説・造型』東京美術、2014)、「芸術家と社会──戦前から戦後にかけての左翼思想と美術」(『日本美術全集 18巻 戦前・戦中 戦争と美術』小学館、2015)など。

山下菊二(やました・きくじ)

画家。1919〜1986(大正8-昭和61)年。徳島県三好郡辻町(現三好市井川町)に生まれる。三男の董美は版画家でよき理解者であった。1932年香川県立工芸学校金属工芸科に入学。1938年上京、福沢一郎の絵画研究所でシュルレアリスムの表現法を学ぶが、翌年招集を受け中国南部の戦線へ送られる。1940年美術文化協会展入選。1944年福沢の紹介で東宝映画に勤務し、東宝争議にかかわる。1946年前衛美術会結成に参加。1947年日本共産党入党。1952年小河内ダム建設反対運動の文化工作隊に参加。1953年第1回ニッポン展(東京都美術館)に《あけぼの村物語》を出品。1955年日本共産党離党。1966年、67年針生一郎が企画した戦争展に参加。1974年从(ひとひと)会を結成し、1984年脊髄性進行性筋萎縮症が悪化して退会するまで出品。1985年英・オックスフォード近代美術館の「再構成:日本の前衛美術1945-1965展」、1986年パリ・ポンピドゥー・センターの「前衛芸術の日本展1910-70」に《あけぼの村物語》他を展示。同年11月23日急性心不全のため自宅で没。67歳。代表作:《あけぼの村物語》《新ニッポン物語》など。

デジタル画像のメタデータ

タイトル:あけぼの村物語。作者:影山幸一。主題:日本の絵画。内容記述:山下菊二《あけぼの村物語》1953(昭和28)年、ドンゴロス・油彩、137.0×214.0cm、東京国立近代美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者: 東京国立近代美術館、日本画廊、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Photoshop、35.3MB(300dpi、8bit、RGB)。資源識別子:NMTX4558(57.6MB・300dpi・8bit・RGB・カラーガイド付)。情報源:東京国立近代美術館、日本画廊、(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:東京国立近代美術館、日本画廊、(株)DNPアートコミュニケーションズ




【画像製作レポート】

 《あけぼの村物語》は、東京国立近代美術館(MOMAT)が所蔵。作品画像を代行販売している(株)DNPアートコミュニケーションズに要件をメール送信。著作権の保護期間内の作品のため、著作権者へ画像使用の企画概要も伝えてもらった。数日後、著作権者の許諾が下り、作品画像をダウンロードするURLが返信されてきた。画像1点(JPEG,300dpi,8bit,57.6MB,カラーガイド付・グレースケールなし)をダウンロードし、作品画像を入手した。掲載期間は一年間。
 iMacの21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって画面を調整後、モニターに表示させるカラーガイド/グレースケール(Kodak Color Separation Guide and Gray Scale Q-13)をスキャニング(brother MyMiO MFC-620CLN,8bit,600dpi)。そのモニター表示用のカラーガイドと《あけぼの村物語》のカラーガイドを合わせて色調整を行なった。反時計回りに0.07度回転し、画像の縁に合わせて切り抜いた。Photoshop形式:35.3MB(300dpi,8bit,RGB)に保存。セキュリティーを考慮して高解像度画像高速表示Flashデータ「ZOOFLA」を用い、拡大表示も可能にしている。
 金色の額縁も作品の一部として表示したかったが、額縁には撮影時にセットしたカラーガイドが付いていて額縁全体を表示することができなかった。「絵画作品のデジタルアーカイブに額縁をつける必要はない」という意見もあるが、作品から額縁を取り除くときには、大事な情報を切り捨ててしまうように感じる。ピクセル等倍(100%)で画像を見たとき、ピントが合っていないことが気になった。
 東京国立博物館(TNM)では、公開しているデジタルコンテンツ(画像、テキスト等)を、非商業目的で、条件付きではあるが、特別な手続きを経ることなく無償で複製、加工、出版物や、Webサイトへの掲載等ができるようになった。美術館でもTNM同様に公開が進むことを期待したい。 (デジタルコンテンツ無償利用について:http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1841



参考文献

・山下菊二「わたしの鳥と鳥のわたし」(『太陽』No.15、平凡社、1964.9.12、pp.100-105)
・山下菊二「一枚の絵 ヒエロニスム・ボッシュ『十字架を負うキリスト』」(『みづゑ』No.778、美術出版社、1969.11.3、pp.63-67)
・山下菊二・針生一郎「ディアローグ─28 山下菊二」(『みづゑ』No.809、美術出版社、1972.6.3、pp.37-51)
・瀬木慎一「醜怪の美学(ポストコレクション 山下菊二)」(『週刊ポスト』4(41)(163)、小学館、1972.10.13、pp.109-111)
・山下菊二「私の好きな一点 逆転せよ《愚者の船》」(『現代の眼』No.375、東京国立近代美術館、1986.2.1、p.6)
・平井亮一「絵画は現実からいつも遁走する──「あけぼの村物語」をめぐり(上)」(『構造』第7号、構造出版部、1987.9.20、pp.55-68)
・星野勝成「眼を数える──山下菊二のタブロオの「眼」に関するノオト」(『構造』第7号、構造出版部、1987.9.20、pp.69-79)
・図録『日本のルポルタージュ・アート〜絵描きがとらえたシャッター・チャンス』(板橋区立美術館、1988)
・山下菊二画集刊行委員会『山下菊二画集』(美術出版社、1988.11.23)
・編集部(楠見清)「歿後二年 山下菊二のアトリエ 時代の闇を見据えるフクロウの眼」(『美術手帖』No.605、美術出版社、1989.2.1、pp.124-127)
・板橋区立美術館『ART-INDEX No.1 山下菊二文庫』(板橋区立美術館、1991)
・中山幹雄『言葉とまなざし──現代の画家23人』(創現社、1991.9.26)
・「グラフ アンケート集計結果 ベスト作品、ベスト作家(山下菊二《あけぼの村物語》)」(『芸術新潮』No.518、新潮社、1993.2.1、pp.4-28)
・図録『山下菊二展』(山下菊二展実行委員会、1996)
・峯村敏明「触覚のリアリズム──噴出したもう一つの日本」(図録『1953年ライトアップ──新しい戦後美術像が見えてきた』、目黒区美術館・多摩美術大学、1996、pp.107-132)
・吉本隆明「山下菊二展 人生の振幅に耐えて……」(『月刊美術』通巻246号、サン・アート、1996.3.20、pp.213-214)
・伊藤憲夫「Art 徹底した批判精神貫いた山下菊二」(『月刊社会民主』、社会民主党全国連合機関紙宣伝局、1996.4.1、pp.107-108)
・北澤憲昭「新美術時評 批評の政治性とリアリズムの転位」(『新美術新聞』No.774、美術年艦社、1996.8.11・21合併号、2面)
・針生一郎「『1953年展』論争に寄せて ルポルタージュ絵画の全面否定は正当か」(『新美術新聞』No.792、美術年艦社、1997.3.11、2面)
・峯村敏明「針生一郎氏に答える あなた方は本当に見たのか、「ルポルタージュ絵画」を?」(『新美術新聞』No.800、美術年艦社、1997.6.11、2面)
・針生一郎「救いがたい偏見と形式論理をうち破れ 峯村敏明への再反論」(『新美術新聞』No.804、美術年艦社、1997.7.21、2面)
・ワシオ・トシヒコ・桂川寛・高島平吾・ヨシダ・ヨシエ・瀬木慎一・尾﨑眞人「特集「1953年展論争」をどう見るか その評価と問題点を探る①」(『新美術新聞』No.811、美術年艦社、1997.10.11、7面)
・川舩敬・笹木繁男・門田秀雄・原田光・西達男・嶋田美子・尾﨑眞人・山田諭・岩見崇・山下昌子「『もうひとつの山下菊二展』《山下菊二を考える会》ディスカッション」(『構造』第12号、構造出版部、1997.10.25、pp.77-93)
・図録『戦後日本のリアリズム1945-1960』(戦後日本のリアリズム展実行委員会、1998)
・柏原えつとむ「直視への意志─画家たちは何を見つめたか?〔土壌としての国家体制 山下菊二〕」(『木野評論』Vol.32、京都精華大学情報館、2001.3.15、pp.110-115)
・伊藤佳「福沢一郎と山下菊二の関わり、新たな資料で裏付け」(『福沢一郎記念館』No.21、福沢一郎記念美術財団、2005.4.15、p.1)
・金山明子「状況2011秋─美術 窺う視線──山下菊二の絵画」(『社会評論』167号、スペース伽耶、2011.10.25、pp.138-141)
・足立元『前衛の遺伝子──アナキズムから戦後美術へ』(ブリュッケ、2012.1.15)
・足立元「山下菊二」(『美術手帖』No.967、美術出版社、2012.6.1、p.150)
・図録『われわれは〈リアル〉である 1920s-1950s プロレタリア美術運動からルポルタージュ絵画運動まで:記録された民衆と労働』(武蔵野市吉祥寺美術館、2014)
・図録『わが愛憎の画家たち──針生一郎と戦後美術』(読売新聞社・美術館連絡協議会、2015)
・足立元「芸術家と社会──戦前から戦後にかけての左翼思想と美術」(『日本美術全集 第18巻 戦前・戦中 戦争と美術』小学館、2015.4.29、pp.194-201)
・足立元「図版解説31 あけぼの村物語」(『日本美術全集 18巻 戦前・戦中 戦争と美術』小学館、2015.4.29、pp.228-229)
・Webサイト:岡﨑乾二郎「講演I岡﨑乾二郎『Populismとしての歴史主義あるいは脱出の方法としてのPop』」(『平成23年度東京都現代美術館年報研究紀要 第14号』東京都現代美術館,2012.3.31,pp.75-83)2017.2.3閲覧(http://www.mot-art-museum.jp/others/docs/report2011_02.pdf
・Webサイト:鈴木勝雄「新しいコレクション 山下菊二《あけぼの村物語》」(『現代の眼』No.605、東京国立近代美術館、2014.4.1、p.12)2017.2.3閲覧(http://www.momat.go.jp/Gendai_no_Me/pdf/605.pdf
・Webサイト:三上満良「山下菊二《あけぼの村物語》 「メロドラマ」が「状況の絵画」に変わるまで──針生一郎の作品評の“変節”が語るもの」(『現代の眼』No.613、東京国立近代美術館、2015.8.1、pp.2-3)2017.2.3閲覧(http://www.momat.go.jp/Gendai_no_Me/pdf/613.pdf
・Webサイト:石川卓麿「山下菊二《あけぼの村物語》 告発と眼差し」(『現代の眼』No.613、東京国立近代美術館、2015.8.1、pp.4-5)2017.2.3閲覧(http://www.momat.go.jp/Gendai_no_Me/pdf/613.pdf



主な日本の画家年表
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2017年2月

  • 山下菊二《あけぼの村物語》──突きつけられる大きな闇「足立元」