アート・アーカイブ探求
山下菊二《あけぼの村物語》──突きつけられる大きな闇「足立元」
影山幸一
2017年02月15日号
対象美術館
日本の暗部を探る
「あの絵は何だったんだろう」。存在感を増して突如甦ってきた絵がある。時代を切り開くコンテンポラリーな作品を意識的に見てきたが、それとは別次元の作品が無意識に心奥に沈殿していた。展覧会の会場で一目し、不意を突かれたままにしてきた不気味な絵。山下菊二の《あけぼの村物語》(東京国立近代美術館蔵)である。
里山の風景に、首を吊り鼻水を垂らす老婆が描かれたイラスト画風の絵画。ドロドロとした有機的な臭いが漂う内臓的なイメージで、見てはいけないものを見てしまった感じがする気色の悪い作品なのだ。しかし、無視できない何かが潜んでいる。日本の暗部を探り、人間が生きる根底に横たわる不可思議さを冷静に見つめる視点があった。《あけぼの村物語》を見直す必要を感じた。
1953年、初めてこの作品が発表された当時は、高い評価を得ていたわけではなかったという。1993年に雑誌『芸術新潮』が「特集・アンケート・戦後美術ベストテン」と題して美術評論家・学芸員など30人に実施したアンケートでは、北澤憲昭・菅原猛・高島直之・針生一郎・ヨシダ・ヨシエが《あけぼの村物語》を挙げて第7位に選ばれている。
不確実ないまの時代に、人間とは、社会とは、と重く問いかけてくるようだ。論文「芸術家と社会──戦前から戦後にかけての左翼思想と美術」(『日本美術全集 第18巻 戦争と美術』小学館)で山下菊二とその周辺状況について執筆され、また『前衛の遺伝子』(ブリュッケ)では、表紙に《あけぼの村物語》の画像を用いて、山下を含む日本の前衛芸術と社会思想とのかかわりを書かれた、美術史と視覚社会史という新たな分野を切り開く、若手研究者の足立元氏(以下、足立氏)に《あけぼの村物語》の見方を伺いたいと思った。1年間のロンドン研修を終え、執筆で難渋しているところ足立氏に東京・広尾で会うことができた。
シュルレアリスムなアジアのリアリズム
1977年東京生まれの足立氏は、高校生のときサブカルチャーが好きだった。良く買っていた雑誌『BRUTUS』には現代アートが特集され、知らず知らず影響を受けていたという。美術と文学にも興味があり、フランスのノーベル賞作家で評論家のロマン・ロラン(1866-1944)の翻訳を読みながら文筆家を夢見る文学青年でもあったが、東京藝術大学美術学部芸術学科へ入学した。藝大を卒業後、都内の企業美術館準備室のアシスタント・キュレーターとなり、憧れていた現代美術の学芸員になったが1年弱で退職を決意した。大学院生に戻り、2008年藝大の大学院美術研究科博士課程を修了。博士論文は「近代日本の前衛芸術と社会思想:表現・言説・イデオロギー」で足立氏の研究者としての歩みが始まった。
2010年から2012年まで日本学術振興会の特別研究員(PD)として、漫画家の小野佐世男(1905-1954)や、日本初のアニメーターのひとりである幸内(こううち)純一(1886-1970)を研究。そして、2015年には文化庁新進芸術家海外研修制度で、ロンドン芸術大学チェルシー校TrAIN研究所の訪問研究員となる。2016年に帰国後、大学の非常勤講師を務めながら美術史・視覚社会史に関する研究・執筆を行なっている。
《あけぼの村物語》で近年足立氏が印象深かったのは、2010年に韓国・ソウルの韓国国立現代美術館徳寿宮館で開催された「アジアのリアリズム美術」展だという。中国、インド、インドネシア、日本、韓国、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナムが参加して近代名画104点が展示された。「《あけぼの村物語》は戦後のコーナーに配置され、リアリズムの概念が変わっていく展示室の中で、一番奥のいい場所に一点だけ飾ってあった。《あけぼの村物語》がアジアの作品というのは間違いないが、アジアを裏切るようなシュルレアリスムの表現を宿している。生や倫理に対する背徳的な悪意をぶちまけたような。この作品が『アジアのリアリズム美術』展に展示されたことは、日本美術の中でも最もおぞましく力強い絵がアジアの中でも際立つことを示した点で重要だと思う」と足立氏は述べた。
文化工作隊
山下菊二は、1919(大正8)年徳島県に生まれた。父芳太郎、母サワヱの五男で姉1人、兄4人がおり、三男の董美(しげよし)は版画家で菊二のよき理解者でもあった。生家は菓子製造販売のほか電気製品などさまざまな物品を商ったが、菊二14歳の年に父親が商売の権利を手放す。1932年香川県立工芸学校金属工芸科(現高松工芸高等学校)に入学し、鋳金や油彩画を学び、17歳で最初の作品《高松所見》(徳島県立近代美術館蔵)を制作。卒業後、福岡の松屋百貨店宣伝部に就職するが、東京美術学校出身の上司に上京して絵を学ぶことを薦められる。
1938年東京美術学校師範科に入学することを条件に上京がかない、日本のシュルレアリスムの草分けである福沢一郎(1898-1992)の絵画研究所で学んだ。ダリやエルンスト、ボッシュに感銘を受ける。美校に行くより、文学や哲学を身につけた方が面白い絵が描けるという周囲の研究生に感化され、美校への進学を翻す。
1939年から2年間応召により台湾、中国で兵役。1940年に開催された第1回美術文化協会展には、従軍中の山下の作品《簡単ニ寒サ解放ス》を兄董美が搬入し入選する。1944年福沢の紹介で東宝映画に勤める。1945年に再度招集され徳島の部隊に入隊するが、終戦を迎えた。翌年美術文化協会を離れ、前衛美術会結成に参加。1947年日本共産党に入党。前衛美術展や日本アンデパンダン展などで発表を続けた。1952年小河内(おごうち)ダム建設反対運動の山村工作隊を支援する文化工作隊として小河内村に滞在する。1953年には山梨県曙村で起こった事件を取材したルポルタージュ絵画 《あけぼの村物語》を制作し、第1回ニッポン展(東京都美術館)に出品した。1955年に日本共産党の方針の変化に疑問を抱き離党。無類の鳥好きだった山下は、ハシブトガラスを飼い、その後も多種の鳥を家の中で放し飼いにする。1958年小池昌子と結婚。1963年には映画『彼女と彼』(監督:羽仁進)に出演、好評を博す。1964年美術評論家・針生一郎(1925-2010)らの発案で開いていた「日本画研究会」で中村正義と知り合う。1970年から74年まで東京造形大学非常勤講師。1974年、中村らと、横に並ぶ人々が核であることを意味する从(ひとひと)会を結成。しかし翌年、脊髄性進行性筋萎縮症と診断される。1976年映画『くずれる沼─画家山下菊二』(監督:野田真吉)が完成し、1979年には『くずれる沼 画家・山下菊二の世界』(すばる書房)が刊行された。1984年病状悪化のため从会を退会する。
1985年英・オックスフォード近代美術館の「再構成:日本の前衛美術1945-1965展」に《あけぼの村物語》など4点が展示された。1986年パリ・ポンピドゥー・センターで《あけぼの村物語》と《新ニッポン物語》が展示される「前衛芸術の日本展1910-70」の開会式に出席を予定していたが、病状が進行し11月自宅で急逝、67歳だった。日本画家・秋野不矩(1908-2001)ゆかりの京都・徳正寺に俗名のまま納骨された。
【あけぼの村物語の見方】
(1)タイトル
あけぼの村物語(あけぼのむらものがたり)。英題:The Tale of Akebono Village
(2)モチーフ
首を吊る老婆、頭を垂れた女、血に染まった水に浮かぶ男の死体、リヤカーで死体を運んできたと思われる男、擬人化された魚・にわとり・赤犬といった生き物たち、それらの目は16個。そのほか囲炉裏、預金通帳、鎌、水車、民家、肥桶(こえおけ)、手拭い、麦畑、イーゼル、スコップ、リヤカー、荒縄、道路、川、山、空。
(3)制作年
1953(昭和28)年。第一回ニッポン展出品作。片仮名のニッポンを課題としたテーマ展で、《あけぼの村物語(山梨縣)》として出品。山下34歳。
(4)画材
ドンゴロス
・油彩。「ドンゴロス袋で少々大きめの手製カンバスをつくり、固煉りペンキと絵具で、事件をモンタージュ風に描いた」と山下は説明している(平井亮一『構造』第7号pp.65-66)。(5)サイズ
縦137.0×横214.0cm。
(6)構図
画面右手の農家の梁、中央の緑の麦畑、左手のリヤカーが画面に奥行きを与える遠近法を用いている。曙村事件
で起きた前後の出来事が画面の右から左へと描かれていることがわかる[A3←A2←(曙村事件)←A1←B1](表1参照)。場面はおおむね四つに分けられ、画面右から、銀行倒産で自殺した老婆と孫娘(B1)、農道建設で麦畑を取られ抗議する娘と村民(A1)、地主(区長)へ襲撃した事件の主導者を運んだ男(A2)、赤い川に浮かぶ事件の主導者(A3)(尾﨑眞人『山下菊二展』図録p.147を参考にしました)。(7)色彩
茶褐色を基調に赤と緑の補色を対比させ、白をポイントに効かせるなど、多色の画面全体は色調のバランスがよい。
(8)技法
事件を取材した記録をもとに、各事象を非現実的で不合理なシュルレアリスムの方法を援用しながら寓話的にモンタージュ風に描いた。
(9)サイン
画面左下に「Kikuzi」の署名。
(10)鑑賞のポイント
「物語」として描かれているのは、1952年7月山梨県南巨摩郡曙村(現在の身延町)で起きた「曙村事件」そのものではなく、事件前後の出来事である。地元の銀行が倒産したために、首を吊って自殺した老婆と、その遺体にすがる孫娘。農道を地主が勝手につくることに抗議する農民たちと、農民に協力した日本共産党の山村工作隊メンバーの怪死。その遺体を運んだスコップを持った男。だが、この絵には物語のわかりやすい説明はない。初め山下は、曙村事件をテーマに具体的な物語の紙芝居を作ろうとしていたが、それをやめて悲惨な現実をグロテスクと諧謔をあわせ持つ、寓話的作品に描き出し絵画とした。多様なイメージが混沌と絡み合い、加害者と被害者といった単純な対立構図を超えた重層的な深い世界が広がる。絵画のなかで繰り広げられる敗戦後の日本の交錯したイデオロギーが、はたして人間とは何か、を見る者一人ひとりに問いかける。ルポルタージュ絵画の作品として、また、日本独自のシュルレアリスム(超現実主義)の金字塔として、海外展にもしばしば出品されている山下菊二の代表作。
ローカルにすべてが集約される
《あけぼの村物語》について足立氏は「突きつけられます。刃(やいば)ではなくて、大きな闇のようなものを。ただ怖いのではなく、一個一個を見るとかわいらしかったり、可笑しかったりする。たくさんの目玉が描かれていて、どの目もこちらを見ていない。みんなそれぞれ違うところを見ている。それを見るわれわれも絵の中でさ迷う。昔から言われているのは、この絵は地主の視点からとらえた曙村で起きた殺人事件。でもその殺人事件の前後の状況だけを描いており、その状況を俯瞰できるのは地主の立場だけだろうと。その地主の立場で、この絵を見る私たち自身が、この不吉なまがまがしさを追体験することになる。《あけぼの村物語》はもともと紙芝居でつくるはずだった。紙芝居のような子供文化を大人の表現として使う方法は、前衛美術で繰り返されてきたパターンです。前衛美術協会で山下と一緒だった高山良策(1917-1982)は、ウルトラマンの怪獣をつくる造形作家。戦時中から東宝に一緒に勤めていて、特撮にもかかわっていた。一方が紙芝居になり、一方は怪獣になった。戦後直後の紙芝居というのは、共産党が大人を教化するための道具として子供の娯楽だった紙芝居を使っていたという史実がある。そうした共産主義的な紙芝居を、山下菊二も実行しようとしたが止めた。紙芝居よりも絵の方がいいと思ったのか、理由はわかりません。ただこの《あけぼの村物語》が出品されたのが、1953年の第一回ニッポン展。片仮名のニッポンと表記し、課題にしたテーマ展でした。山下は《あけぼの村物語(山梨縣)》として出品。片仮名のニッポンというグローバルな意識、その政治的な状況に対してローカルなものを志向していたことがわかる。地域特有のローカルなもののなかに、すべてが集約されている意識があったのかもしれない」と語った。
進展する針生の批評
《あけぼの村物語》について評論家・針生一郎の作品評は変遷した。針生が美術評論を始めた頃に開催された第1回ニッポン展で《あけぼの村物語》と出会い、作品とともに進展してきたようにみえる。
1953年第1回ニッポン展では「「あけぼの村物語」は安易な手法の上にモティーフの整理が足りなくてメロドラマになっています」と酷評した(三上満良『現代の眼』No.613、p.2)。その約7年後に針生は「《あけぼの村物語》で、日本の農村にある前近代的なるものと超近代的なもの、ボス支配と民間信仰の要素を、地獄極楽絵風のグロテスクさと俗悪さで描きだした」(尾﨑眞人『山下菊二展』図録p.148)と作品内容に踏み込んでいる。また、「日本の農村に渦まく因習的な抑圧と野性のエネルギーを、悪夢のようになまなましく描きだした。その奇怪な人形芝居のような画面は、多くの人々の記憶に灼きついている」(同上p.148)と評価し、「事物とその背景という典型論はのりこえられ、ギニヨールのような人物と物体がかさなりあう画面に、因襲と抑圧、狂気と悪夢の渦まく山村の現実が、超自然的なおとぎ話のように描きだされている。一群の作家の探究はこのように、シュルレアリスムの心理主義的次元を克服した『状況の絵画』にむけられており、また現代の諸芸術に共通するドキュメンタリーの問題にふれていた」(同上p.148)という作品評に至った。
そして針生は、1986年ポンピドゥー・センターに《あけぼの村物語》が展示された際に、ポンピドゥーの学芸スタッフから聞いた「シュルレアリスムと日本のフォークロアを総合した、外国に手本も類例もないユニークな作品」(針生一郎『山下菊二画集』p.98)という言葉を借りて《あけぼの村物語》を語るようになる。
東京国立近代美術館が、平成25年度の特別購入予算で購入したという《あけぼの村物語》。針生は2010年に亡くなってしまったが、グローバルからローカルへ《あけぼの村物語》の批評はこれから盛んになるような気がしている。
ルポルタージュ絵画とソーシャリー・エンゲージド・アート
フランス共産党にパブロ・ピカソ(1881-1973)が入党したという時代背景もあり、共産主義に目覚めた山下は、《拘留理由開示公判》(図1)を描いた島田澄也(1927-)を筆頭にして、尾藤豊(1926-1998)、桂川寛(1924-2011)、勅使河原宏(1927-2001)と、冒険主義的な日本共産党の活動方針に従って、1952年6月東京・奥多摩のダム建設中止をもくろむ山村工作隊に参加した。
山奥の洞穴で2カ月間暮らしながら、ダム建設の作業員を煽動するためのガリ版刷りのパンフレット『週刊小河内』を共同で作成し、ダム工事を中止すれば米軍基地へ輸送する電力がつくれなくなり、米軍が日本からいなくなるという共産党の指導のもとで学生たちと参加。しかし、非力な反米テロ活動は間もなく警察によって鎮圧される。この頃ルポルタージュ絵画が生まれた。
足立氏は、「ルポルタージュ絵画とは、美術家が現場に出かけ、民衆の苦痛や闘いを報告(ルポルタージュ)するものです。それは思想的には共産主義でありながら、様式的にはシュルレアリスムで、日本土着の民衆的な泥くささを兼ね備えたものだった。日本共産党および日本美術会の中枢は、ソ連の社会主義リアリズムから逸脱するルポルタージュ絵画の表現に対しては否定的であり、戦後美術の主流となるモダニズムのアヴァンギャルド(前衛芸術)の側もまた、ルポルタージュ絵画には否定的だった。しかし、ルポルタージュ絵画の本質的な問題は、目に見える表現様式ではなく、むしろ目に見えない“表現意識”の方にある。ルポルタージュ絵画を広い意味でとらえたとき、戦前のプロレタリア美術運動の教条的な部分を否定しつつ、それが目指していた『民衆の芸術』を受け継いでいる」と述べた。そして「最近、山下菊二の存在が注目されるようになったのは、“ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)” という新しい言い方があるが、社会派的なものに対する注目が高まっていることにある。単純に古いものの復活ではなく、古い社会運動を新しい視点で評価し直すことでもある。大きな社会の揺り戻しのようなものを私も感じている。当時のルポルタージュ絵画は、イデオロギーを持って戦う絵画だ。現場に行って感じて考えたことを絵の中で再構成する方法論の純粋な部分だけ取って見れば、ルポルタージュ絵画は現代にも有効な美術のアプローチです」と足立氏は語った。
山下菊二は、無自覚なままに戦争へ巻き込まれ、戦場に駆り出され、掠奪、暴行、殺戮を強いられた。敗戦後は自らを加害者として強く意識し、強迫的な戦場へ追い込んだ日本の国家体制、前近代的な社会の精神へ疑問を持ち、権力や差別、天皇制や庶民意識の問題などで無実の人間が抑圧されていく日本社会の不条理な現実を、社会運動にかかわりながら、ルポルタージュ絵画などの手法を用いて可笑しみを含む告発的な作品を制作していった。
足立元(あだち・げん)
山下菊二(やました・きくじ)
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参考文献